鎮魂花火

真朱マロ

第1話 鎮魂花火

 見上げれば、目に眩しいほどの青い空です。

 湧き立つような白い雲が、空の半分を占めています。

 音をたてて梢を揺らす風が、あの日のように薫るのです。


 あなたと私は、幼いころに一度だけ顔を合わせました。

 それは夏祭りの日でした。

 家と家とが決めた許嫁だと紹介されても、私には何のことかわかりませんでした。

 ただ、他の誰よりも仲良くすればよいのだと、そっと母にささやかれてうなずきました。


 宵になって祭りが始まる頃に、あなたと私は神社に向かいました。

 本当はもっと早くの時間から神事は行われていたのでしょうが、赤い提灯に浮かぶ神社で踊りを奉納するのが、幼い私にとってのお祭りでした。

 五歳上のあなたはニコニコと笑いながら、頼る私の手を引いていました。

 お互いの両親も笑いながら、私たちの後ろを歩いていました。

 提灯の明かりを透かして、飴売りから買ったべっ甲飴がキラキラと光りました。

 白い狐の面をかぶって、コン、と鳴いてあなたは私を笑わせました。


 別れの時は悲しくて、また会いましょうと言いました。

 必ずまた会いましょうと小指をからめました。

 その約束はじれったいほど果たされませんでした。

 互いを結ぶのは、途切れることのない文だけでした。

 そのあとすぐに、遠い異国の地へと大人の男たちが出征し、多くの血が流れることになるなんて、誰が予想できたでしょう?


 次第に物がなくなりました。

 着るものも、道具も、壊れても直すしかなくて、とうとう壊れきってどうしようもなくなっても、どこにも売っていないのです。

 次第に小さくなる服を悲しく思いながら、母が古着をほどいて作ってくれた服にそでを通しました。

 膝がすり切れたらあり合わせの布でつぎました。

 この我慢がすべて、お国のためになるのです。


 それでも、私はまだ恵まれていたのです。

 もともと豊かな家でしたから、新しくなくとも着るものがありました。

 満たされるほどではなくても、毎日、食べるものがありました。

 すぐにこんな生活は終わると誰もが思っていました。

 それは儚い夢だったのです。


 次第に恐ろしくなりました。

 いつまでこんな生活が続くのでしょう?

 問いかけても答えられる人はいないのです。


 勝つまでは。勝つまでは。

 必ず勝つという言葉に、疑いをはさむ余地はないのです。


 とうとう、父が遠い戦地に向かいました。

 私の頭をひとつなで、では、と一言だけ残して汽車に乗りました。

 母は痩せ細った背を伸ばし、泣きそうな眼をしているのに、不自然に口角をあげた泣き笑いで見送りました。

 さようならも、帰ってきてねも言えませんでした。

 ただ、バンザイと、バンザイと、木霊のように繰り返されるざわめきが恐ろしく、すすり泣くことしかできない私の感傷すら、汽笛が鋭く斬り裂いたのです。

 黒い煙が青い空を汚す、蒸し暑い夏の日でした。


 遠い日の約束を果たすために、私はあなたの元に嫁ぎました。

 父が帰らないのに、あなたに会える日が来るとは思ってもいませんでした。

 婚姻はずっと決まっていたものの、いつ取り消されてもおかしくないと思っていました。

 急げや急げとばかりに、輿入れは急ごしらえで行われました。


 いよいよ母に別れを告げた時、通り雨が私をしばらく降りこめました。

 先行きまで濡らすような激しい雨でした。


 祝い膳も婚礼衣装もない、ささやかな婚礼でした。

 久しぶりに見るあなたは凛々しくて、当たり前ですがおどけて見せた少年ではありませんでした。

 ただ、優しい眼差しは変わらぬあなたのままで、今日の日を慶びと思えたのです。


 三々九度の酒が用意され、時世を考えれば恵まれた婚礼でした。

 せめてもの装いにと母から譲られた晴れ着も、覆いをつけた電灯の下では牡丹の柄すら判然としませんのに、あなたは綺麗だと笑っていました。

 気の利いた返事一つ返せない私は、ありがとうございますとつぶやいたけれど、目の前にスイとおかれた紙の禍々しさに言葉を失うばかりでした。

 真っ赤なはずのその紙片は薄暗い明りの中で、闇の中にあっても黒々と濃く見えたのです。


 ああ、あなたの元にも届いたのですね。

 だから、とり急ぎの婚礼だったのですね。

 深紅の紙が、父のように、あなたを異国へとさらっていくのです。


 泣いてはいけない。

 誇らしく思わなければいけない。

 それでも。私は。私は。


 その先を言うことはできませんでした。

 ほんの三カ月の営みでした。

 たった三カ月の幸福でした。

 それでも永遠にも近い、愛しい時間でした。


 あなたとの時間を、あなたとの会話を、あなたのそのぬくもりを。

 ただ、なにげない一瞬さえも。

 私はこの目に、この手に、この肌に。

 深く焼きつけることしかできませんでした。


 見上げれば、目に眩しいほどの青い空です。

 湧き立つような白い雲が、空の半分を占めています。

 悲しい別れの日なのに、音をたてて梢を揺らす風が優しく薫るのです


 父と同じように、あなたは汽車に乗って、私の元を旅立ちました。

 父とは違って、あなたは飛行機に乗って、海の藻屑と消えました。

 帰ってくるかもしれないと、ずっと安否のしれない父と違って、あなたは異国の戦艦を沈めるために、弾丸のひとつとなって青い空に飛び立ったのです。


 私は花火が嫌いでした。

 大きな火薬のはじける音が嫌いでした。

 まばたきほどで散るくせに、暗闇に明るく咲き誇る炎の花が嫌いでした。


 空に散ったあなたの眠りを妨げ、これでよいのだとばかりに美しく咲き誇る花が、憎らしくてたまりませんでした。

 爆撃に似た音は、あなたを奪った音に似ている気がするのです。

 私の手の中にはあなたの骨のひとかけらすら残っていないのに、それでも花火は美しく人を笑顔に変えるのです。


 この歳になってやっとですが、泣かずに打ち上げ花火を見ることができました。

 ばぁばといって、私の手を引く幼子がいるのです。

 じぃじの残したおもちゃだと、古い狐のお面をかぶって、コンコンと鳴きまねをしてはしゃぐのです。


 あなたに似ているのです。

 孫ですから似ているのです。

 あたりまえかもしれないけれど、あたりまえではない気もするのです。


 泣いたりはしていません。

 泣いたらせっかくの笑った顔が見えなくなります。

 笑っています。あなたと笑いあった日のように、私は笑ってみるのです。


 甘いものはお好きですか?

 辛いものはお好きですか?

 たったそれだけのことすら聞けなかったけれど。


 小豆を煮て餡を作りましょう。

 あなたの好きだった揚げも、たんとたんと供えましょう。

 ひもじい思いはさせたくないから、娘に笑われるぐらい作ってしまう。


 昨夜の鎮魂花火は、とても美しく花開きました。

 あなたは遠く旅立ったけど、授けてくれた子供は大きく育ちました。

 あなたの知らない時間の中、私たちは穏やかに暮らしているのです。

 あなたと過ごした日はほんのわずかだったけれど、私はあなたばかりを想っているのです。


 迎え火も、送り火も、あなたのために灯しましょう。

 祭りの余韻をつれて、今日も風が薫るのです。





【 完 】

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鎮魂花火 真朱マロ @masyu-maro

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