Fly Me to the Moonを聴きながら

真朱マロ

第1話 Fly Me to the Moonを聴きながら

 焼けつくような日差しが肌に痛い。

 直射日光を浴びたら一瞬で焦げ付きそうな太陽に焼かれて、ようやく図書館にたどり着いた。

 通い始めて三日目だけど、暑さにちっとも慣れない。

 開館時間が10時から18時なので、10時の開館に合わせて向かっても、おひさまはガンガンに照り付けて、暑いことこの上なかった。

 

 夏休みに図書館で連日勉強しているだなんて、勤勉な生徒と勘違いされそうだけど、実は違う。

 冷房の効いた部屋の中でのんびり過ごしたかったのに、なんと終業式の朝、私の部屋のエアコンが壊れてしまったのだ。

 しかも、真夏なので修理の予約がつまっていて、頼みの綱の業者さんが来るのは一週間も後らしい。

 無料修理の保証期間中だから別の業者には頼まないと、母さんに宣言されている。


 昼間はリモートワーク中の父さんに居間が占拠され、台所は母さんの城で邪険にされる。

 弟の部屋で過ごせないかと交渉してみたけど、プラモデルの色塗りするから臭いよ、の一言であえなく撃沈した。


 夜は居間のソファーで寝ることを許されたけど、昼の過ごし方が大問題だ。

 お小遣いが少ないからファミレスに入り浸ることもできないし、灼熱地獄の自室は避けたい。

 泣き言交じりに「最悪の夏休みが始まる」と自分の不幸を、終業式の後に教室で語っていたら、なんと救う神が現れた。


「橘さん、自転車通学だよね? 駅裏の県立図書館なら、冷房の効いた自習室もあって無料だと思う」


 クラスメイトの窮状に、通りすがりで助言のできる本郷くんは天才だ。

 学級委員で白衣の似合いそうな眼鏡男子は言うことも賢い。

 そして、図書館は学校よりも、距離的に自宅に近かったりする。

 かくして、私の図書館通いが始まったのだ。

 

 図書館は往復の灼熱地獄さえ乗り切れば、居心地が良かった。

 ほど良く静かで、ほど良く人の気配があり、ほど良く居心地が良かった。

 集中して勉強したい時には自習室にこもれるし、のんびりしたい時には漫画やラノベコーナーもあるし、夏休み期間は歓談室でお弁当を食べることもできる。

 エアコンの恩恵を失った私には、図書館は無料利用できる楽園だった。


 当然と言えば当然なんだけど、当然というにはちょっぴりおかしなことに、この三日間は同じ図書館に本郷くんがいる。

 たしか、自宅はちょっと遠くて電車通学だったはずだから、もっと家から近い場所にも図書館があるだろうに……不思議である。

 

 クラスメイトだとはいえ、特別に仲が良いわけでもないから、気になるからと言って根掘り葉掘り聞くのもはばかられた。

 会釈をしてたまに様子をうかがうぐらいで、特に話もしていない。


 同じ部屋にいても、席もテーブルも別々で、話さない。

 話はしないけれど会釈はするし、時々目が合うから手を振ると振り返してくれるし、お互いの宿題の進捗をうかがうことができる距離を保っていた。


 でも、話さない。

 でも、気になる。


 横目でチラチラ見ている間に、本郷くんはものすごいスピードで宿題の問題集を解いていた。この三日間で一冊終わりそうだ。

 数倍の速度で問題を解いていく本郷くんを視界に入れながら、私は離れた席でうんうんうなりながら計算している。

 頭の出来の差が悲しいが、いつも最終日に駆け足でとりあえず埋めるだけの例年に比べて、私はものすごく頑張っている。


 今のペースで進めれば、夏休みの前半でめどがつくだろう。

 今がんばって、後半はいっぱい遊ぼうと思う。


 頑張れ、自分。頑張れ、自分。

 燃える魂を持つ晴れ男の映像がふと浮かんで、熱血応援を心の中でリピートしながら眠気を吹き飛ばし、学習意欲を奮い立たせて目の前の問題を解いていく。

 

 ふと、顔をあげると本郷くんはいなかった。

 くぅっとお腹が鳴るので、時計を確認するとお昼である。

 彼はきっと談話室で、ご飯を食べているに違いない。

 私も荷物をまとめて、談話室へと向かった。


 お弁当を食べてから室内をぐるりと見まわすと、壁際の隅っこに本郷くんはいた。

 あの席はエアコンの風が壁に当たって循環しているポイントらしく、お年寄りが冷えすぎると言って忌避する涼しい席だ。

 つまり、食後の熱いコーヒーを飲むのに、最高のポジションである。

 と、言うことで、私は自動販売機で熱いコーヒーを二つ買った。

 本郷くんの好みは知らないから、私の好みに合わせて、どっちもブラックである。


 本郷くんはすでに昼食を食べ終えたようで、イヤホンで音楽を聴きながら目を閉じていた。

 人のまばらな談話室は自習室とは違って会話している人も多く、にぎわった空気の中で、本郷くんの周りだけサイレント映画のようだった。


「本郷くん、なに聴いてるの?」


 急に話しかけたのに、パチリと目を開けた本郷くんは驚きもせず、イヤホンを片方はずして私に差し出した。

 言葉もなく透明な眼差しを向けられドギマギしたけれど、その仕草に誘われるようストンと横に座った。

 本郷くんの表情は動かなかったけれど、私は少し気恥ずかくなる。

 イヤホンのコードが短いから距離が近くて、視線のやり場がわからなくなるぐらい照れた。


 照れくさいのを隠しながら「どうぞ」とコーヒーを渡すと、ふわっと笑って「ありがとう」なんて言われてしまい、胸の奥までむずむずして恥ずかしさが倍増した。

 浮ついた気持ちを知られたくなくて、何とか平静を装う。

 受け取ったイヤホンを耳に入れると、流れてくるジャズの甘い声音に心が浮遊するような不思議な感覚に襲われた。

 ああ、この曲は知っている。


「Fly Me To The Moon」


 ジャスのスタンダードナンバーで、愛を歌う名曲である。

 わかりやすい言葉を選んでいるのに、人を愛したくなるようなそんな曲。

 英語に弱い私でも聴きとれて、ものすごくキュンとくる。


「そう。カバーされるときはFly Me to the Moon  (In Other Words)ってタイトルになることもある」

「In Other Words?」

「言い換えると、とか、つまり、という意味だよ」

「すぐに訳せるのか……さすが本郷くん」


 はじけるように本郷くんは笑い出した。

 基本的に真面目な顔しか見たことがなかったから、私は驚いてしまう。

 教室でバカ騒ぎしている男子とは違って品よく感じたけど、屈託ない感じに本郷くんも笑えたのだ。

 それはあたりまえのことなんだけど、あたりまえじゃない気がして、心臓がトクンと跳ねた。


「橘さん。苦戦してるなら、宿題、教えようか?」


 いきなり神が降臨した。

 数学と英語に大苦戦中の私にとって、これ以上はない提案だった。

 縋り付く気満々で、自分の目がきらめいている自覚はある。


「いいの? あ、じゃぁ連絡先、交換しよう。今日だけって言わないよね? 予定あわせて会おうよ」


 いそいそとスマホを準備する私の素早さに、吹き出しそうになりながら本郷くんもスマホを出してくれた。

 つつがなく連絡先の交換も終わり、私は自分の顔がにやけるのがわかる。

 勉強は苦手で夏休みの宿題に泣かされてきたけど、今年の夏はついている。

 もしも私が犬だったら、ブンブン尻尾を振りまわしてるところだ。


「うわ~ありがとう、本郷くん! あ、でも迷惑な時は、ちゃんと言ってね。私、無理はしてほしくない」

「うん、わかった」

「そうだ、お礼は何がいい? 出来る範囲で希望は叶えるよ。宿題の恩は大きいから、ちょっとぐらいの我儘は叶えちゃう」


 浮かれ切った私に、ちょっぴり迷うように視線をさまよわせた。

 少しだけうつむいて、本郷くんは乾いた唇を軽くなめる。

 そのどこか緊張した様子に、それほど言いにくいことを要求されるのかと、私まで緊張が伝染してきた。

 ふいに落ちた沈黙の中で、イヤホンから流れてくるFly Me To The MoonはまるでBGMみたいに聴こえる。


「宿題が終わったら、一緒に遊ぼう」

「本郷くんでも遊ぶの?」

「僕だって、遊ぶよ? 海に行ったり、映画を見たり、お化け屋敷もわりと好きだったりする」

「わぁ、私も好き! そっか、本郷くんも遊ぶんだ」


 いささか不謹慎な驚きかたをしたら、ふわりと本郷くんは笑った。

 優しくて包み込むようなその表情を見てしまい、ふわりと私の気持ちも浮遊する。


「橘さんとだったら、水族館も楽しそうだ」

「まるでデートだね」


 なんか照れる、と思いながらも「そんなわけないか」と茶化しかけた私に、スッと本郷くんは真顔になった。

 私の目を真っすぐに見て、ためらいもなく「デートのお誘いだよ」と言った。

 

「本当は、どこにもいかなくても良いし、こうやって図書館で話をするだけでもいい。人目が気になるなら僕の家に来たって良いし、普通に出かけたっていい。別に、特別なことをしなくったっていいんだ」


 すうっと伸ばされた本郷くんの右手が、頬にかかっていた私の髪に触れ、丁寧な動きで耳にかけてくれる。

 かすめるように触れた指先が熱くて、私は動けなかった。

 本郷くんの些細な仕草に変にドキドキする。


 愛を歌うFly Me to the Moonは歌い手を変えながら、リピートのように延々と続いていた。

 甘くやわらかな曲調に、真昼なのに月の魔法をかけられているような、不思議な気分に包まれる。


「つまり、言い換えれば。キミが好きってことなんだよ」


 ソコまで言い切って、不意に本郷くんは机に突っ伏した。

 軽く頭をかかえて「ごめ……自分で言っておきながらメチャクチャ恥ずかしい」と、なぜか撃沈してしまう。


 コードの距離が足りなくて、私たち二人をつないでいたイヤホンが外れた。

 落ち着かない様子でクシャッと自分の髪をかき混ぜる本郷くんの、真っ赤になった耳や手を見ているうちに、それまでFly Me to the Moonに魅入られていた私は、ようやく正気に戻った。


 今、なんだかすごい告白を受けた気がする。

 いや、気がするってのは間違いで、確かに告白されたのだ。


 その事を理解した途端。

 ボフン! と顔から火が噴き出すかと思った。


 呼吸の仕方がわからなくなって、私も机に突っ伏した。

 恥ずかしい。めちゃくちゃ恥ずかしくて、これは照れて悶えてしまう。


 でも、ものすごく嬉しかった。

 会話を交わす事こそ少なかったけど、同じクラスだから委員長として頑張る本郷くんの良いところは、いっぱい知っている。

 むしろ、好きを通り過ぎて憧れていたから、夢みたいだ。


 机に突っ伏したまま、そぉっと顔を傾けて本郷くんの様子をうかがうと、本郷くんも同じ姿勢になっていた。

 視線が合って、恥ずかしさと不安でちょっぴり揺れている瞳に、私もちょっとだけ勇気を出す。


「今度、図書館で勉強する時。お弁当を作るところから、はじめていい? 好きな食べ物、教えて?」


 数学と英語は苦手だけど、手先は器用なので料理は得意なのだ。

 いいよ、とはにかむような本郷くんの微笑みに、私はふわりと舞い上がりそうな気持ちで笑った。


 照れくさくて、恥ずかしくて。

 こんな風に、友達を飛び越える日が来るなんて、思っても見なかった。

 好きなものや、嫌いなものも、これから先、たくさんの本郷くんを知っていけたらいいな。


 イヤホンはとっくに外れているのに、Fly Me to the Moonが聴こえてくるようだった。




【 Fin 】

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