いつでもここで会いましょう

草森ゆき

いつでもここで会いましょう

 ばちん、という激しい音が、肌の上を這いずり回っていた。ずっと前からだ。私が中学生に上がったばかりの頃、約束をしていたわけではないけれど、会う予定に組み込まれていた人に会おうとした日に、音は起こった。

 悲鳴が続いて、まだ駐車場併設の駐輪場にいた私は、音自体を見た。そう離れてもいないところに立っていたから、すぐにわかった。

 ショッピングモールの屋上から人が飛び降りたのだ。まっすぐに落下して、植え込みの手前に、叩きつけられた。

あおいさん……?」

 肉片を撒き散らしながらも原型をとどめていた顔を見て、私は誰が死んだのかを知った。


 葵さんはモール内の奥、駐車場からメイン通路に向かうための細い横道沿いのひっそり設けられた、占い屋さんを一人で経営していた。経営、が正しい言い方なのかどうかはわからない。

 モール自体が郊外にあって、中は変な店も色々あったけど、占い屋さんが一番変で、暇そうだった。私は常に空いている葵さんと無駄話をするためだけに、モールに通い詰めていた。

木葉このはちゃん、来てくれたんだ」

 葵さんは目元の泣き黒子を溶かしながら、目を細めて微笑んでくれた。落ち着いた雰囲気がひどく大人で、中学生の私は理由もなく憧れた。

 並んで座って、モールのメイン通路を眺めるのが日課だった。葵さんは本当なのか嘘なのか、行き交う人を時折指しては、占い結果のようなことを言った。もうすぐ結婚するとか、仕事が順調だとか、浮気をしているとか、色々。

「私のお父さんも、浮気してるよ。どんな女相手かは、知らないんだけど」

 葵さんに買ってもらったアイスを舐めながら私は話した。

「離婚すると思う。お母さんは実家の、北陸の方に戻るつもりなんだって。私も多分ついていく。お父さん、嫌いだし」

 静かに聞いてくれていた葵さんは、

「じゃあ、木葉ちゃんは、もう来なくなっちゃうのね」

 寂しそうに言って、私の頭をそっと撫でた。手つきが何だかいつもよりぎこちなくて、私はほんの少しだけ、葵さんのためだけに残ろうかな、と思った。結局言いはしなかったけど、一瞬で消えてしまった気持ちだけど、本物の名残惜しさだった。私は葵さんが大好きだった。


 そしてこれは、葵さんが飛び降りる前の日の話だ。

 飛び降りがあって、一日だけモールは閉鎖されて、その間に肉片とか血飛沫とかは掃除されて、何事もなかったように営業が再開されて。

 葵さんのための花を買った私は、葵さんの店があった場所に行った。

「ああ、木葉ちゃん、いらっしゃい」

 葵さんは本当にいつも通りの様子で、穏やかな声と落ち着いた雰囲気のまま、私を迎え入れた。地面の上でのむごい死に方が一瞬よぎるけど、私は頷いて、花を差し出した。

 綺麗、と葵さんは微笑んだ。木葉ちゃんありがとう、と弾んだ声で嬉しそうに言ってくれた。私はまた頷いて、葵さんの隣に座った。学校の話をして、友達の話をして、観たドラマの話をした。親の話はやめた。離婚が結局取りやめになりそうだってことを、今の葵さんには言わなくていいと思った。私はそれからも時間があるときは葵さんの店に通った。葵さんはいつもそこにいた。微笑んでくれて、優しかった。お客さんは一人もいなかったし人通りもほとんどなかった。時々私を横目で見る通行人はいたけれど葵さんのことは見えていないみたいでそれは、私は、葵さんがここにずっといるのは私のせいなんだなって思ったけれど通う日々をやめなかった。私はそのうち成人したし、葵さんはあの日のまま年齢が止まっているし、モールは過疎化が進んで人の姿がかなり減っていたし、屋上はあれからずっと閉鎖されている。


 三十歳になる頃に、モールの閉店が発表された。年末で幕を閉じるという。私は三歳になる子供を母に預け、モールを一人で訪れた。葵さんはやはりいる。ずっとここで、私のことを待っている。

「ああ、木葉ちゃん」

「こんにちは、葵さん」

 葵さんの年齢を私は知らないままだけど、そろそろ同じ歳か歳上になったか、ほとんど同級生くらいだと思う。

 モールが、閉店するね。私は隣に座りながら葵さんに言う。葵さんは黙って微笑んでいる。私は不意に、音を思い出す。ばちん。何かが弾け飛んだような、取り返しのつかない音。肌の上に蘇る。鳥肌がぶわりと立って、その一粒ずつが葵さんを代弁するように弾けていく、ように思う。

 お父さんの浮気相手が葵さんだったことを私はもう知っている。だから両親が、一旦離婚を保留したと知っている。葵さん。母親似の私のことを一体どう思って可愛がってくれたのか、それだけはもうわからない。

「木葉ちゃん」

 羽毛で包み込むような声。

「明日も、きてね」

 もう来られない、そう言おうとして隣を見て私は全ての言葉を引っ込める。葵さんの額の真ん中を、一筋の赤色が滑り落ちていく。それは徐々に増えていって目元の泣きぼくろが覆い隠される。一回、二回、瞬きが落ちて、その度に葵さんは少しずつ、ボロボロになって血まみれになって、追い詰められていく。長い睫毛に血溜まりが乗る。瞬きすると弾けて、私の方へも飛んでくる。剥き出しの腕にかかったほんの小さな血飛沫は音もないのに私の決意を過去の中へと捨てさせる。

「……明日、は、用事があるけど」

 儚むような声が出る。

「また、くるね」

 葵さんは花が開くような笑顔になって、木葉ちゃん、大好きよ、とふわりとした嬉しそうな声で言う。血まみれの顔はいつも通りの何も変わりない様子に戻って、私は自分がまだ中学生なのだとめまいと共に錯覚する。

 葵さん。私も葵さんが大好きだから、飛び降りたりなんてしないでよ。

 何度足掻いても変わりはしないことを迂闊に漏らす。ばちん。悲鳴。ショッピングモールをご利用いただきまして誠にありがとうございます当店は年末に閉店する運びとなりました今までご愛顧本当に……。

 葵さんは笑っている。私は顔を両手で覆って、終わらない終わりを立った一人で受け止め続けている、受け止め続けることしかできないでいる。

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