アルバム

神渡楓(カワタリ・カエデ)

アルバム

線香の匂いが鼻にまとわりつく。天井の光を反射する程、丁寧に磨かれている葬儀場の床に、柚月ゆづきのローファーが当たって、カツっとした乾いた音を反響させる。

視線は遺影を捉え、向かう先には、棺がある。それでも事実をいまだに受け止められず、認めたくなく、てゆっくりと、ゆっくりと歩くが、それでも数十秒で棺の前たどり着いた。

添えられた花の中心には、優しく微笑んだまま固まっている祖父、幸男ゆきおの姿がある。

顔色をよく見せるための化粧のキラキラした小さな粉が葬儀場の電気に反射している。

その顔を見た瞬間、体中の力が抜けた。足はガクガクと震えて気がつけば地面に座り込んでいた。両目からは滝の様に大量の涙が溢れ、口から溢れるのは嗚咽の様なものではない。もはや叫びの様な慟哭の様な泣き声が木霊こだまする。

それに嫌な顔をする人間は存在しない。

参列客は柚月にとって幸男が父親同然である事を知っているからだ。

柚月が物心つく前に両親が離婚し、親権は母親の百合ゆりに渡った。しかし、一人では育てきれないと思った百合は、祖父母の幸男ゆきおとキヨミに頼った。それから本当の親の様に愛を与えてずっと育ててくれた。

キヨミが死んだのは柚月が幼稚園の頃。病気だった。その時も泣いて、悲しかったが、まだ死と言うものを実感していなかったのを覚えている。

祖母のキヨミが死亡し、百合は柚月のためにと働く時間を増やした。必然的に世話を見てくれたのは幸男になったのだ。だからこそ祖父ではあるが、柚月からしたら本当に父のような感覚だ。

泣き崩れる柚月の背中を百合がさすった。

暖かいその手。しかし、その手は細かく震えている。百合も堪えているのだ。涙のダムが決壊しない様にギリギリのところで。百合にとって幸男は正真正銘の父親なのだから。

柚月は呼吸をゆっくりと整えてからお焼香をあげた。

それでも涙はずっと止まらなかった。



葬式が終わり、親戚や、幸男の知り合いたちが酒を飲みながら思い出話に花を咲かせていた。

柚月としても、笑い話や、思い出話をにぎやかに語ってくれる方が気が紛らわせるので助かっていた。

百合が、その間に今後の諸々の手続きを行っていたので必然的に話の聞き役は柚月になった。

幸男の学生時代からの親友が集まっていると集団の机でちびちびとオレンジジュースを飲みながら彼らの話を聞いていた。時々家に来ていたから面識があったし、柚月が知らない昔話は少し面白かったからだ。

そのうちの一人、茂雄が酒をぐいっと飲み、最後に言った。

「ほんならそろそろ大阪に帰るわ。遺品整理はウチのところが安くしたるって百合ちゃんに伝えといてな。それから柚月ちゃん。今回は本当に。災難やったなぁ」

そう言ってシワシワの手でもう空になっているカップを掴む。この話はもう3回目だが、それだけ彼は幸男と仲が良かったのだろう。

「仕方ないです。流行病ですから」

「そうは言っても、まだ柚月ちゃんは16歳やし、幸男は柚月ちゃんにとって父親・・・」

「おい、飲みすぎや。それは言わんでええ」

もう一人の友人、三郎が止める。

「あっ、すまんな・・・」

茂雄は少し気まずそうに頭をかきながら立ち上がった。

「まぁ、ワシたちが力になれることがあるならなんでも言ってや」

「はい。ありがとうございます」

彼らを見送って後片付けを済ましたりしていると、あっという間に日付は変わった。



夜が明けて、柚月と百合の二人は遺品整理を始めた。柚月が生まれたとほぼ同時に神奈川に引っ越してきた祖父母夫婦。百合曰く、大阪に住んでいた頃の家はかなり大きかったらしく、それを今の特段大きくはない普通の大きさの家に詰め込んでいたので、幸男の部屋は物で溢れている。

服や、雑貨を二人である程度仕分けて段ボールに詰めて、玄関に持って行く。

茂雄の行っている遺品整理業のトラックは明日来るので、それまでに片付けておく必要があるのだ。

その作業を二人で延々と繰り返していると、廊下からガタンっと鈍い音がした。

柚月がギョッとして幸男の部屋から廊下に出ると、バランスを崩して転び、ダンボールから飛び出た服をゆっくりと回収している百合の姿があった。

「お母さんっ!」

柚月は一旦作業を中断して駆け寄る。

「んん?」

心配しないでと微笑みながら振り返った百合その顔を見て柚月は驚愕した。

涙で腫れた目の下にこれまで見たことがないほど濃い隈ができていた。

しかし、それもそのはずだと思った。

幸男が息を引き取ってから、葬式と通夜の準備を行い、喪主を務め、参列客の相手のほとんどを行い、これから必要な書類のまとめや、業者への連絡を行い・・・この作業を失意の中で一人でずっとこなしてきたのだ。もはや体は限界を超えているかもしれない。

「柚月、私は大丈夫やから。早く物を片さんと」

とは言うが、改めて見ると、母の腕の動きはかなり鈍かった。

「お母さん。無理しないで少し寝てて」

柚月は言った。

「私がずっと泣いててお母さんが全部やってくれたもん。無理させて本当にごめんね」

「いいのよ。そもそも私がやらないといけないことだらけだったし」

「うん。でも、このままだとお母さんも倒れちゃうよ。書類とか、契約とかはできないけどさ、片付けなら私一人で出来るから、一旦寝なよ」

「・・・ありがとね。お言葉に甘えて少し寝させてもらうわ」

百合は今持っていた段ボールを玄関に重ねた後にのそのそと寝室に向かった。

 

 

幸い、骨董品など重量のあるものは先に片付けておいたので、後は服や、書類などを片付けていくだけだった。2時間ほどで作業の殆どが完了して、後は幸男が使用していた机の周りのみになった。

とは言っても、机の中にはそれほど物は入っていなかった。

好きだった小説が数冊。それを段ボールに詰めた。

これで一旦完了かなともう一度机の引き出しを確認した時、少しだけ底が空いている気がした。

爪を引っ掛けてみると、中に大きな隙間がある事が分かった。

少しだけ力を入れると、底が外れて、その下にたくさんの本のような物が詰め込まれているのが分かった。

「二重底ってやつ?」

呟きながら、本を取り出して明けてみると、そこには小さな頃の自分の姿があった。

「アルバムだ」

幸男はカメラが好きで、常に持ち歩いていた。それだと言うのに幸男が撮っているであろう写真は見たことが殆どなかったから前から不思議だったのだ。

まさか、現像されてアルバムを作っているとは夢にも思っていなかった。

アルバムの数は十冊にものぼった。

開いて確認すると、自分の成長がきちんと切り取られていて、そしてその時の思い出が蘇ってきて懐かしい気持ちになった。

七歳の時、幸男と二人で京都に出掛けた。

太秦映画村や、清水寺に行ったのをぼんやりと覚えている程度だったが、アルバムには、クシを持ちながら泣いている写真が収められていた。

それを見た瞬間に記憶が蘇った。

清水寺に行った後、下の安寧坂で唐揚げ棒を食べたのだ。

幸男は八ツ橋などを買ってくれたが、小さな頃の柚月は苦手だった。

だから、唐揚げ棒を買ってもらい美味しく食べていた。

3つついている唐揚げの最後の一つを落としてしまって、ギャンギャン泣いたのだ。

最終的に幸男がもう一本買ってくれたことまで思い出した。

「懐かしいなぁ」

それ以外にも、祖母の故郷である仙台に行き、伊達政宗公の真似をしている写真や、近くの川で石をひっくり返したら出てきたカニにびっくりして、腰を抜かしながら泣いている写真など、見たら思い出が蘇る写真がたくさんあった。

アルバムを一通り見た後、他にもサイズが一回り小さな冊子が数冊あるのを発見した。

日記帳みたいだ。

一番古そうな物を手に取って開いてみると、私が生まれた日が最初のページに刻まれていた。

『ついに娘が孫を産んだ。真っ赤で小さな女の子。産声が自分の耳に聞こえて来たと同時に気がついたら涙を流していた。泣いたのは実に二十八年振り。百合が生まれた時以来だと思う』

『孫の写真を撮った。名前はまだ決まっていないらしい。写真を現像して百合が生まれた時のことを思い出した。あの頃はカメラなど持っていても撮る時間など殆ど無かっただろうと思う。働いて働いて、毎日ひたすらにそれを繰り返していた。娘に愛情を与えられた時間はそう多くないはずだ。そんな自分にも懐いてくれて、こうやって孫の顔を見せてくれる。そんな自慢の娘には頭が上がらない。罪滅ぼしとはいかないが、孫の子育てをできる限りサポートしてあげたい』

このような事が綴られていた。

しばらく、読み続けて最後の日記を手に取った。

幸男は病院で息を引き取ったため、二ヶ月ほど前の日記が最後だった。

『百合の誕生日があった。ケーキを買っていたが、もう年だ。一口だけ食べて、これ以上は食べられないなと悟ってしまった。柚月がスマートフォンで三人の写真を撮った。

撮った写真を見てみると何やら淡かったり、謎の鱗粉の様なものが撒かれている様に見えた。

聞いてみると、これは加工。と言うらしい。近頃の若者は写真を撮り、加工をして楽しむ様だ。昨今はアルバムはスマートフォンの中にデジタルで保存する事で作れるらしい。少し説明してもらい、試してみると自分のシワを消してみたり、女性のような顔つきになったりと、さまざまな趣向が凝らされていて楽しい時間だった。

しかし、同時に寂しくも思った。確かに、デジタルでは手間もかからないのだろうし、加工も簡単に出来るのだろう。

けれど、私はありのままの写真を残して、紙に保存し、時折時間の経過を感じながら思い出に浸るのが好きなのだなと感じた。時代の流れについていけないな。そう思いながら、私は自分のカメラで加工も何もできない三人の写真を撮った。

後どれだけ生きれるかわからないが、この写真が色褪せるくらい長生きしたいものだ』

そのページにはまだまだ新しい傷一つない、その時の写真が残されていた。幸男がカメラマンで、柚月が満面の笑みでピースをしていて、柚月が買って無理やりつけさせた「本日の主役」襷を恥ずかしそうに片手で隠しながら控えめのピースをする百合の写真。

「お父さん、あんたが二十歳になるんをすっごく楽しみにしてたんよ」

後ろから声をかけられて、柚月は驚いて飛び跳ねた。気がつくと、部屋は暗くなっており、太陽が傾きかけている。

夢中になっている間にかなりの時間が過ぎたみたいだ。

「お母さん。体調は大丈夫?」

「寝たらすっかり元気よ。それより、このアルバム全部見た?」

「うん」

「懐かしいやろ?お父さんはいっつも柚月が二十歳になったら、三人で思い出話に花を咲かせたい。それまでは柚月には写真は見せたくない!二十歳になるまで生きるって言う願掛けや!って言っててんけどな」

「そう・・・なんだ」

「私が生まれた頃は、子育てがあんまりできなくてそれを後悔してたみたいやから、余計柚月を育てるって言う気持ちがや強かったんやろなぁ」

百合は柔らかい表情でアルバムをめくっていった。

「そうや。このカメラまだ使えるけどあんたが使う?私は写真を撮るのが下手やから」

そう言って百合は幸男のカメラを差し出した。

首紐はほつれて、小さな傷はあるが、汚れは全くない丁寧に手入れされたのがよくわかるカメラだ。

柚月はカメラには詳しくないが、それでもしっかりとしたカメラなんだろうという事が分かる重さのカメラだった。

「もらっていいの?」

もう一度聞いた。

百合は頷いた。

「それだったら貰おうかな。私もスマホだけじゃなくて、カメラで写真を撮ってみたい」

そのカメラは、被写体をあるがままに映し出す。

ニキビは消せないし、肌は白くならないし、足も細く見せる事はできない。

でも、だからこそ、一枚撮ってみると、自分の人生をそのまま切り取って保存する感覚があった。

「難しいや」

上手に写真を撮れる自信はないが、それでもいろんな写真を撮りたいと、そう思った。




「かんぱーい!」

缶ビールがコツコツと当たる音がする。

河川敷の花見スポットには沢山の人が、レジャーシートを広げて弁当やお酒を並べて花見を楽しんでいる。

柚月もその一人だ。大学の友達と花見に来ていたのだ。

みんなでお酒を飲んだり、お菓子を食べたりしてひとしきり花見を楽しんだ後に友人の杏奈が写真を撮ろうと言った。

みんなが賛成したので、柚月は鞄からカメラを取り出した。

「私が撮るよ」

そう言って、カメラを見せる。

「えーカメラ?盛れないじゃん!」

「ありのまま嫌だー」

それでも、柚月は笑いながら言った。

「確かに漏れないけどさ、だからこそいつかこの写真見返した時にありのままの思い出を思い出せるって思わない?それに、私カメラには少し自信があるからさ。可愛く撮れるよ」

何年か使い続けて、かなり使える様になって来たと自信が付いた。

「そう?」

「まぁ、確かに言われてみればそんな気もして来た」

「可愛く撮ってよね!」

友達達はそう言いながら、桜の木の下に並ぶ。

「あ、後でスマホでいいから、私も入った写真も撮ってね!」

「当たり前じゃん!撮るよ」

そんな話をしながら、角度を微調整して、一番いいショットが撮れそうな位置にカメラを持ってくる。

「それじゃあ、行くよー。ハイ、チーズ」

心地の良いシャッター音が、桜吹雪の中に溶けていった。

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