先読みする者
夏楽
第1話
一心に車を走らせていた。車内には景気づけに陽気な音楽が流れるが、緊迫した空気とは相容れていない。
男はそのメロディーに耳を傾け、心を落ち着かせようとしている。しかし歌詞は頭を颯爽とすり抜け、ボーカルの美声が嘲笑うように去っていく。最早苛立ちすら感じるが、仕方がなくその音に意識を少し委ねる。
そとは土砂降りであった。右手のみで器用に運転する男の額にはワイパーの周期的な運動に流され、落ち行く雫のような大粒の汗が滲んでいた。
こんな午後の大雨の中、気も漫ろに洋楽をかけ、市道を走るのには理由があった。
まただ、男は怒気を滲ませ舌打ちし、車の行く手を阻むそれを見ていた。100メートル以上も先、ずぶ濡れにになるような天候をものともせず佇むそれ。
顔は艶やかな黒髪に隠れ朱の入った口元しか認識出来ない。黒染めの着物はまるで葬式後にふらりとここへ立ち寄ったかのように見える。
たがそうでない事をすでに分かっている。そもそも雨で視界が悪い上に遠くに離れているそれの子細を承知しているのは前からこいつに憑きまとわれているからだ。
彼は少し特殊な仕事に就いており、今日の正午やっとその束縛から開放され、帰路につこうとしていたのだ。そこにこの災難である。始めはポツポツだった雨は馬力を上げるように音を立て、威力を増し、彼が鬱陶しく感じ始めた頃に今度は得体のしれない女が目についた。
最初は葬式帰りにこんな目なんて災難だなと似たような境遇に同情したもので、電柱の横にひっそりと立つ女を横目に通り過ぎた。
身体に溜まった疲れが恐怖と取って代わったのはそれから5分ほど後だった。
また同じ姿を目にするとは思わなかったので、容赦なく目を刺す街灯の光が過ぎ去った後にやってきた黒い影に脊髄が仕事をし、ブレーキを思い切り踏みつけてる。これ以上無いとばかりに見開かれた目は確かにあの葬式帰り風の女を捉えていた。
キキッとタイヤが悲鳴をあげ車体が前へつんのめる。引くかもしれなかったという恐怖で胸が満たされ、呼吸が速まる。つばを飲み込み、ハンドルを掴む両手を支えに伏せた顔を上げたが、眼の前には闇へと続く雨に貫かれている道があるだけだった。
「何だったんだよ」
柄にもなく独り言をぼやく。心の底から深呼吸し、ハンドルを握る両の手の感触を確かめ、依然続く雨水の大合唱の中を車は静かにすべりだした。
疲れている。男はそう思った。いや、そう思うしか無かった。そうでなきゃ自分が5分ほどかけた道のりを和服の女をが歩いて来れるとは思えない。先程と同様雨の中で唯一、女は異質なほどな存在感を放っていた。でなければあえなく俺はお縄だ、と無理やり冗談めかす。それに目の前にいたようで案外遠くだったかもしれない。このようにまだこのときはその程度の認識で済むほどには男は豪胆だった。
2回目の邂逅で気付いたが奴は傘を指してもいないのに全く濡れていなかった。髪は一切乱れずその表情を男に悟らせなかったし、着物は夜闇とは別の黒さを発揮し、まさに棚から出して試しに着付けしてみた、といったぐらいの清廉さが感じられた。
たがそれらの要素を併せ持った本体は周囲と相容れない雰囲気で満載だった。そもそもあの一瞬で女の隅々まで覚えていられるのもおかしな話だ。
だからあの仕事はやりたくねぇな、幻覚まで見せられるとは。疲労が頭に強く働きかけていると考えることにして、男は頭を振った。
心底うんざりとして、気休めに車に備え付けられたちゃっちいラジオのつまみをひねる。
『以上ーーでした。それでは今夜も皆さんのリクエストソングのお時間ですよ』
途中参加の男には良く分からない内容を語って1コーナーを締めくくった明るい声の男性パーソナリティは、ほら期待してたでしょ!?と言わんばかりの調子で次へと話を振る。
こちらとは対照的すぎる番組の雰囲気が寧ろ安心を与えてくれた。
今夜はどうも2曲らしい。最初の一曲目は誰がリクエストしたんだか、聴いたことのない女性のシンガーソングライターの過去の曲らしかった。
それは今の状況に似つかわない真夏の恋愛ソングだった。
今は秋だぞと思わず苦笑する。
だが案外悪くない曲だと評論家気分になる。このまま帰らせてくれ、そう思ったのは願望どおりにいかなそうだと考えたからだった。
案の定、黒服がまたやってきた。
「メンヘラかよ」
元カノのとの淡い記憶が蘇るがそれはまた別の話。
そんな考えでいられたのは男が心霊に耐性があったのと、まあどうせ家に帰れれば大丈夫でしょと楽観視していたからであった。
それを見透かしたように、雨に濡れることなく街路樹の隣に佇む彼女は相変わらず鼻から上が見えることはなかったが、紅く艷やかや唇は口角が上がっているようだった。男をあざ笑うように。
先読みする者 夏楽 @karakuhiko
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