【後編】バカで地味な女です

その日の放課後はテスト前だったせいで、自転車置場の自転車も疎らだった。

それなのに急な突風にあおられた自転車は、目の前で一台、また一台と倒れて行った。


「あ~」


駅に向かう帰りの校内。たまたま目にしたのは次々に倒れ出す自転車。

自分も向かい風に煽られて、制服のスカートも、髪もぐしゃぐしゃになっている。

だから勝手に倒れた自転車なんて放って置けば良いのに…。

なんて自分に突っ込みを入れながら、私は倒れた自転車を起こし始めた。


別に日頃の行いが良い訳でもない。

たまたま目にしたのが、真新しい自転車だったので、それが風に煽られて倒れたのが気の毒に思っただけだ。

そうなると、他の倒れた自転車も気になった。

だから私の性格が良いとか、善意の塊とか、そう言う女子では無い事だけは言っておきたい。言い換えれば、たまたまの偶然で、損な役回りの日だったんだろう。


誰のものか分からない倒れた自転車もこれで三台目…。なんて考えていた時だった。


「手伝うよ」


その声に振り向けば、声をかけてくれたのが1つ上の、だった事に気が付いた。


「え?」

「ん?」


驚きに目を見張る私に、榊原先輩は不思議そうな顔をしていた。

先輩は少し明かる目の髪色と、柔らかなウェーブヘアは、いわゆる地毛で、天パと呼ばれるやつらしい。

明るめの毛も染めていない…らしい。と言うのは、この学校の校則を見ればわかる。いわゆる進学校と呼ばれるこの高校は、校則が厳しい事でも有名なのだ。


「えっと、すみません」

「君のせいでも無いだろうに…」

「まぁ…」

「今日は風が強いね」


他愛のない会話ですら、背中の冷や汗が収まらないのは、榊原先輩さんの優しさに恐縮したからじゃない。こっそり見上げた先輩の頭髪を見て、やっぱりそうかと合点が行ったからだ。彼はこの髪型で何度も指導をすり抜けている、校則突破の名人と呼ばれている、だ。


私の通っている高校は、いわゆる地元の進学校である。

つまり超真面目人間が通う学校である。だから基本的に派手な人間は居ない。

そんな暇があれば勉強をするのが普通と言う人の偏った集団の通う学校だ。

かく言う私も、いわゆる地味女と呼ばれる属性の、おかっぱ頭にこげ茶色の太いフレームの眼鏡の制服も指定通りで崩さない。成績は下から数えた方が早いけれど、見た目だけが優等生の、いわゆる進学校の目立たない一般の女子生徒である。


(手伝ってくれるって事は、怖い人では無いんだろうけれど…)


榊原先輩は髪型意外に目立つ要素は特に無い。少し前髪が長めだけれど、規則からは逸脱はしていないと思う。

私は自分で気付かぬ内に、目の前で自転車を起こす榊原先輩をまじまじと見ていたらしい。その事に気が付いたのは、榊原先輩が声をかけて来たからだ。


「え?何?俺の顔、変?」

「へっ?」

「あ~髪型?天パだし、別に校則突破はしてないけど?」

「あ、あ、あ~~」


校則突破と言われて、まじまじと見つめていた事に気が付き、恥ずかしさから私は顔を掌で覆い謝った。


「すみません、失礼しました」

「あはは、失礼なんだ」

「いや、その、すみません…」


しどろもどろで謝り倒す私に、榊原先輩は「プッ」とふき出したかと思うと、ゲラゲラと笑い出した。

一体、どこの笑いのツボがヒットしたのだろう。ゲラゲラと笑う先輩の様子を啞然と眺めていたら、先輩は「ごめん、ごめん」と謝り出した。


「?」

「いや、ほんとごめん」


何故だか謝り続ける榊原先輩は、とうとう笑いで涙が浮かん出来たらしい。眼鏡を上にクイっと上げて、指で目を押さえ涙をふき出した。


「なんか、すみません」

「いや、ごめん」


いたたまれなさに謝ると、榊原先輩も謝る。

何の事やらと、この妙な間に戸惑っていたら、榊原先輩と不意に目があった。


(あ…)


榊原先輩と視線の合った目に心が動かされる。

だって仕方が無い。榊原先輩の目は普通の人よりも、少しだけ色素の薄い瞳だったし、それが涙に潤んで揺れていたのだ。


「あ、なんかツボに入った、ごめん」

「いえ…」


謝りながら柔らかな笑みを浮かべる榊原先輩を見て、私はそれで恋に落ちた事に気が付いたのは、その日の午後。

榊原先輩と一緒に乗った帰りの電車を降りて、駅前の銀行の入り口の自転車が風にあおられ、ガシャンガシャンと倒れた音を聞いた時だった。




*****




その日から榊原先輩を目で追う事が多くなった。

彼は校則突破の名人と言うだけで、特に女子に人気があると言う話は聞かない。

身長は少し高めの細身でやせ型。少し前髪が長く、シャープな輪郭と、金属フレームの眼鏡は高校生にしては少し大人びて見える。

いつも男子生徒とばかり居るし、特に目立つ印象もない。


「普通っぽいけど、気になる人」


そんな榊原先輩を目で追えば、あの日、一緒に自転車を起こしてくれた理由が徐々に分かって来た。先輩は多分だけど、もの凄く優しい人らしい。

決して目立つ訳ではないけれど、気軽に人の手伝いが出来るタイプのようだ。

だからいつも友人達に囲まれて、楽しそうに笑っている。

決してグループの中心の人物では無い。なのに、独りでいるのを見たことが無い。


「普通っぽいのに、不思議な人」


そんな風に榊原先輩を目で追って、気が付けば先輩と同じ大学を目指すようになっていた。




*****




必死に勉強をして、何とか同じ大学に合格が出来た。

別に榊原先輩と付き合いとか、そう言った事はあまり考えていなかった。

それでもまだ、先輩への好意はあって、あわよくば…なんて考えていた。

二年越し。そんな妙な時間で、特に自転車置き場以外に面識のない私達。

出会えたとしても気が付いてもらえるかどうか。そんな妙な関係性だったけれど、それなりに希望を抱いて同じ大学に行ったのに…。


聞こえて来た榊原先輩の噂話は、耳を疑うものだった。

そして二年ぶりに見かけた先輩は、周りに苛立つような雰囲気をかもしながら独りぼっちで歩いていた。

少し長めだった前髪は更に長くなって、センターパートのおでこを出したヘアスタイルに変わっていた。細身の体は変わらないのに、背も少し伸びたせいか、前よりもすらっとした雰囲気に見える。

変わらないのは金属フレームの眼鏡だけ。それでも記憶のものと形が違って見えた。


「普通っぽかったのに、チャラくなってる…」


友人達に囲まれて、楽しそうに笑っていた榊原先輩は居ない。

そのギャップに私は声をかける事が出来なかった。




*****




友人と学食でお昼を食べていると、いつものように榊原先輩の悪い噂話が耳に入って来た。


「バラくん、最近相手してくんない」

「え~、前からじゃん」

「ま?」

「後輩入ってきたしね~。猫かぶって、選り好み中~?」

「うわ~まじ?遊びすぎ反省しろっての」


こんな噂話も、いつも通りの日常。別に今日が初めてでは無い。


「うわ~榊原さんて、あの例の榊原さんでしょ?とんでもない奴だね」


友人の一人が嫌そうな顔で私に話しかける。

私は昼食のうどんをすすりながら、「そうだね」なんて軽く返えしたけれど、胸中は複雑だった。


「どうせ、榊原は来るもの拒まずでしょ」

「本気は相手にしないって言ってたしね」


隣の席から漏れた声に私の肩が揺れる。


(本気は相手にしない…?なら本気じゃなければ…?)


箸を持つ手が止まり、少し震えるのが分かった。

そっか…。本気じゃなければ、声をかける事は出来るかも…。


そんな考えに陥ったのは、私の短慮のせいでは無いと思う。

きっと一人で居る榊原先輩の痛ましそうな顔が、昔の榊原先輩と違っていたからだ。

そして自転車置き場で見た、あの笑った顔をもう一度みんなに見せて、噂話を払拭したいと思ってしまった。

それは多分、あの日と同じ、損な役回りの日になったせいかも知れない。


それに、もしあの日と同じ笑顔を見る事が出来たら、きっと自分の恋心も諦める事が出来るのでは無いか…。

チャラ男に地味女。どうせ見込みもないなら、笑って振って欲しい。

そんな風に自虐的に考えていた。


こうして私は榊原先輩を諦める為に、声をかける事にした。

独りでいる先輩に声をかけるのは、そう難しくはない。

けれど、いざとなると勇気が出なかった。


(怖い…)


苛立つようにせかせかと歩く榊原先輩の姿と、自分の恋が終わったてしまう、その怖さに私は声をかけると決めてから、何度もしり込みをして、先輩を見かけては引き返えすを繰り返していた。

それでも意を決して、私は先輩に声をかけた。

それは夏休みに入る前。どうなっても物理的に暫く会えない期間があるのを利用する事にしたのだ。


そして独りで歩く榊原先輩を見つけた私は、追いかけ後ろから先輩の腕を掴んで引き止めた。


「っ、はぁ?」


急に止められ、訝し気な顔で睨みつける榊原先輩。その剣幕に押されながらも勇気を出して声をかける。


「っ!榊原さんですよね?」

「何?」


少し怒りながらも、イヤホンを外し、答えてくれる榊原先輩。

でもきっとこの顔は、私の事が誰だかわからないみたい…。


「っつ!すみません、すみません」

「…何か用?」

「…っつ」


久しぶりです…と用意した言葉は先輩の剣幕にかき消されてしまった。話のきっかけを失った私は、次に続ける言葉を見失った。だから私はそれ以上言葉を続ける事が出来なかった。

そんな不甲斐ない私に、先輩は大きなため息を吐いて、私を置いてその場から離れてしまった。


呆然とその場で立ち尽くす私。

声はかける事は出来た。

でも、私の事は覚えていなかった。

そして、相手にされなかった。


じゃあ、これで諦める?

そんな事が頭の中でぐるぐると回る。

不意に過ったのは試合終了のお知らせ。

けれど私はもう一度だけ、ぶつかる事に決めた。


次は、当たって砕けろ…だ。




*****




こうして迎えた三日目。私は前回と同じように榊原先輩の腕をつかんで引き止めた。


「何なの?あんた」

「っつ!」


明らかに前回よりも怒っている。

そんな榊原先輩の様子に、しり込みをしてしまい、言葉が続かない。


「っ、もう二度と来んなっ!」


榊原先輩の言葉に我に返る。


もう二度と…?

もう会えない?

だったら、だったら、本気じゃなければ…?

誘い文句なんて分からない。だから咄嗟に出た言葉は、とても浅ましいものになってしまった。


「私を…私の事、抱いて下さい!」

「は?」


榊原先輩の低い声。その怒りは最もだ。

突然目の前に現れた女に、こんな不躾な事を言われたのだ。

例え先輩じゃなくても、普通の人なら怒り出すだろう。

けれど先輩はそんな怒りをグッと飲み込んで、代わりに大きなため息を吐いて、体の向きを変えてその場からはなれようとした。


(あ…)


このままでは終わってしまう。

私は咄嗟に先輩の腕をつかんで懇願した。


「ほ、本気です!」

「は?」


本気と言った私の言葉に榊原先輩が振り向く。

本気は相手にされない…。けれど、私の好意は嘘では無い。

だから再び同じ言葉を口にした。


「…ほ、本気です…」

「本気の奴は、相手にしてない」


改めて告げられる先輩のルールに肩が揺れる。

だったら本気じゃないって言えば、お願いを聞いてもらえますか?


「し、知ってます!ほ、ほ、本気ですけど、そ、そうじゃないんです!」

「何それ?バカにしてんの?」


榊原先輩の声は、怒りを超えたのか、温度の無い冷えた声だった。

あぁ、もうダメか。

あの日、自転車置き場で、自分の思いに気が付けたら良かった。

ううん。自分の思いに気が付いた時に、伝えておけば良かった。

そうか。先輩が卒業するまでに、好きですって言えばこんな事にはならなかったのか…。


そんな後悔の念が押し寄せる。

でもね、そんなに悪い事ですか?

高校時代に、告白が出来なくて、それでそのまま大学生になっただけなのに。

なのに、なんで榊原先輩はそんなに変わっちゃたんですか?


「さ、榊原さんが良いんです…」


でも、同じだったんです。

目の前に居る榊原先輩の目が、自転車置き場で見たあの時の榊原先輩と同じで。

少し色素の薄い先輩の瞳が、何故だか潤んでいるのが悪いんです…。




*****




榊原先輩は私の答えに怒りながらも、私の手をつかんで歩き出した。

やがて駅について手を離されたけど、どうしていいか分からずに、私はそのまま後をついて行った。

やがてそういった事をする目的のホテルに着くと、なれた手順で部屋を指定して、暗い廊下を無言のまま歩いて行った。仕方が無いので私も同じ様に黙ってついていった。


部屋に着くなり、先輩は真ん中にある大きなベッドにドカッと座り込んだ。

そして「どうぞ」とって手を広げた。

私を睨みつける眼差しで、とても歓迎している「どうぞ」では無い事が分かる。

戸惑いながら伺うように視線を向けると、先輩は苛立ちながら言い放つ。


「だから、やってって」

「…何を?」

「知るか」


そんなやり取りに、困惑しか出てこない。

やれと言われても、何をどうすれば良いのか、わからない。

先輩はベッドの上で後ろ側へドカッと倒れたかと思うと、諦めたかのように目を閉じた。


(あ…ダメだ)


私はもうダメだと思った。

榊原先輩は呆れたんだ。

だからその場から逃げ出す事も考えた。


だけど、それも正解じゃない気がした。

ここで帰っても、また変わらない明日が来るだけ。

だったら、最後の思い出になっても良いじゃ無いか。それで私が諦める事が出来るのなら…。


私はベッドに傍に膝立ちになって、先輩の黒いデニムパンツのウエストのボタンを外し、ジッパーを下げた。そして先輩の半身を出してゆっくりと撫でた。

それでも私の頭は大混乱だった。まさか自分から触るとは思わなかったし、どうすれば正解なのかも分からない。

それでも全く様子の変わらない先輩の半身に、これが正解では無い事が分かり始めた。


(どうすれば…)


私は先輩の半身に口を寄せた。

まさか初めてのキスがこんな形になるなんて。

自分の行動の情けなさと、憧れが砕かれた悲しさに涙がボロボロとあふれ出した。

それでも何一つ変わらない先輩の様子に、期待に応えられない寂しさも押し寄せて、気が付けば「ごめんなさい」と何度も口にしていた。


バカだなぁ、私。

今頃になってそう気が付いた。始めから全部間違っていた。

押し寄せた後悔の念で、もう止めにしようと諦めかけた時、不意に腕を引き抜かれて、私はベッドに仰向けに沈んでいた。


「え?」


小さな困惑の声を止めるように、先輩の親指が私の唇を拭ったかと思ったら、上から組み敷いた先輩の身体が私の上に乗って来た。


「んんっ!」

「っつ」


眼鏡を外され、突然訪れた口づけは、夢に見た優しいものでは無く、嵐のような激情の波だった。まるで食べられるように、欲するように貪られた。

吸う息もままならない位、それは激しい劣情だった。

その恐ろしさに、身体が震えたのは、きっと不意に見せる先輩の視線が、恐ろしいほどに熱の無い眼差しだったからだ。


やがて乱暴に服が開けられ、色々な場所を貪られる。

自分の初めてがこんな事になるなんて、本当に自分はバカだ…。

そんな後悔からまた波が零れた。

そして先輩の手が私の下半身ヘのびて押し入る。その時、初めて感じる痛みで、咄嗟に声を漏らしてしまった。


「っつ痛!」


その声で先輩の手が止まる。


「えっ…」


驚いた先輩の声。続く沈黙に心が痛い。


「お前…」


身体が離れ、先輩の視線が私の顔に戻る。

先輩の探る様な、刺す様な眼差が揺れる。

さっきまで熱の無い目だったのに。

揺れた先輩の眼差しは、学内で見た時と同じ、少し潤んで揺れていた。

だから私は先輩に懇願した。


「ごめんなさい!やめないで!このままやめないで!」


なんでこんな事を言い出したのか分からない。

だけど、潤んだ先輩の悲し気な顔をこれ以上見たくなかったのだ。

本当は自分が一番可哀そうなのに、それでも私は先輩の悲しそうな顔が私よりも可哀そうに見えた。

だから「やめないで」と言った理由は今になっても良く分からない。

単にこのまま、先輩と離れるのが嫌なだけだったかも知れない…。


「ごめんな…」


小さく消えそうな声で呟いた先輩は、私の身体をゆっくりと引き離すと、ベッドへ優しく寝かせてくれた。


(終わった…)


結局、私の恋なんて始めから終わってたんだ。

そんな諦めに似た安堵から気が抜けると、覆いかぶさった先輩が私のおでこにキスをした。


「え?」


先輩の行動に私が驚いていると、その唇が頬を抜けて、私の唇を軽く啄んだ。

呆気に取られて目を丸くする私に、先輩の顔が少し緩む。

そして先輩は潤んだままの瞳でほんの少し、ぎこちの無い笑みを零すと、優しく私の唇を塞いでいった。


そこからの先輩はもの凄く優しかった。

それはきっと私が初めてだから、気を使ってくれたのだと思う。

慣れない体をじっくと時間をかけてほぐし、慣れない感覚を掴むまで、何度も優しく導いてくれた。

そして先輩が果てると、私は先輩の熱にすっかり浮かされてしまっていた。


けれどそんな淡い熱もシャワーに浴びると徐々に薄れて行った。

ついさっきまで感じていた、先輩の肌の熱も、中に残る違和感も、何度も何度も好い場所を確認する優しい声も、流れるシャワーと共に消えてしまいそうだった。


だから私はシャワーを浴びながら、嗚咽を我慢して泣いた。


何であんなに優しくするんですか。

何であんなに激しくしたんですか。

何であんな優しい顔で、私を見たんですか…。


そう。最後まで残ったのは、先輩の熱で浮かれた柔らかな顔。

その眼差しは、私の中を貫くように熱く潤んで、それでも微笑んでいるように見えた。

だから私は熱いシャワーを浴びて、自分の涙も、残された先輩の跡も、全部流そうとした。そして思い出すの先輩の言葉で、自分の心に止めを刺す。


『本気の奴は、相手にしてない』


結局、相手にしてもされなくても、乱暴に扱われても優しく抱かれても、結果は同じだったのだ。だったら、嫌な思い出の方が良かったのかな。

再び出そうになる涙をこらえて、それでもと思い直す。


「うん。良い思い出になって、良かったじゃん」


そんな捨て台詞を吐いて、私は風呂場を後にした。




*****




バスローブ姿のまま部屋に戻ったけれど、先輩の顔を見るのがつらくて目を合わせる事は出来なかった。


「終わりました…」


それでも何とか先輩に声をかけると、先輩は立ち上がり、私の横を抜けて行った。


良いのかな…。

これで良いのかな…。

私、これで良かったのかな…。

身体のを繋げたせいか、すぐ傍を抜ける先輩の気配に無性に寂しさが募った。

だから咄嗟に先輩の腕をつかんで引き止めてしまった。


「…なに?」


やっぱり本気です。…だなんて、許されますか?


「行かないで…下さい」


まだ行かないで下さい。

まだダメです。やっぱりまだ、諦めそうにありません。

そんな言葉を繋げる前に先輩は私に声をかけた。


「…体、痛くない?」


その声は、私の身体を本当に気遣うような柔らかな声だった。


「…大丈夫です…」


そんな自分の浅ましさに恥ずかしくなり、努めて平気そうに大丈夫と答えたけれど、私、きっと大丈夫じゃないです。


(心臓が痛い…)


そんな心の痛みが過ると同時に、先輩が私を引き寄せて私を胸の中に抱き込んだ。そして先輩の腕に引かれながら再びベッドに横になる。

ぎゅっと抱きしめられたその胸から先輩の心音が聞こえる。


(温かい…)


その柔らかな音と肌の熱に、私は再び涙が出そうになる。

そんな私の耳に先輩の声が届く。


「ごめんな…」

「大丈夫です」


大丈夫じゃないけど、もう大丈夫です。

やっぱり私、先輩の事が本気で大好きです。

離れがたい温かさに何とか踏ん切りをつけようと、気持ちの整理を始めた私の耳に、思いもよらない先輩の声が届いた。


「本気の彼女枠空いてるけど…」と。


先輩、『本気の奴は、相手にしてない』だったんじゃないんですか?

そう言いかけて、零れそうな涙をこらえる。


「私、本気です…」


最初から、あの日からです。

自転車置き場のあの日から、ずっと本気で、本当に好きなんです。

そんな言葉を紡ぐ前に、先輩は「もう酷い事はしない」と言って。ぎゅっと強く抱きしめて、額に軽くキスを落してくれました。


そうですね。先輩は酷い人です。でも、私、知ってるんです。

先輩がどんな人か、誰よりも知ってるんです。


「榊原さんは優しい人です」

「…」


だって、あの時のあの優しさが好きになったキッカケなんですから。


「優しくない人は、他人が倒した自転車を、一緒に片付けてくれません」

「あ…」

「あの時から好きでした」

「…そっか」


やっと言えた…。

あの日から過ぎた二年は戻らないけれど、またあの頃のように、先輩には笑って欲しいです。


「俺でも良いの?」


恐る恐る尋ねるような声。先輩の中にも色々な思いがあるのかも知れない。

もしかして、変わってしまった自分に先輩は後悔をしているのだろうか。

だけど、最初から私の答えは決まっています。

私はその答えを言うために、先輩の腕を抜け出した。

そして気持ちが伝わるように、俺の目をしっかりと見つめて伝えた。


「榊原さんが良いんです」


キッパリと伝えると、先輩は、あの日、自転車置き場で見た時と同じ、柔らかな笑みを浮かべていた。

そしてお互いに目が合うと、先輩はゆっくりと優しいキスをしてくれた。


そうです。

これが変わってしまった先輩と、バカで地味な私の、恋の始まりです。




*****




二人で迎えた初めての夏休み。

私は先輩と色々な場所に出かけた。それはまるで過ぎた二年をなぞる、大学生にしては幼稚なものだったけれど、それでも隣で屈託なく笑う先輩を見れば十分だった。


先輩との初めてはぐちゃぐちゃで、先輩の噂は、相変わらず人には言えないようなものだったけれど、それもきっと暫くすれば、おさまって行くと思う。


だって先輩は変わったのだから。


え?私ですか?

はい。私は相変わらずです。

先輩からの好意に浮かれた、バカで地味な女だと思います。

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【短編】クズな俺と、バカ地味女の始まりは(18+) さんがつ @sangathucubicle

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