妖怪の書き方
久佐馬野景
妖怪の書き方
――つまり、犯人は妖怪、瓶長の仕業だったんだよ!
そこからは冗長に、瓶長という妖怪の性質についての説明。驚く容疑者たちのリアクション。そして陰陽師である主人公が妖怪を祓うシーンが続く。
読み終えた私は、うずうずとしていた。同時に、このうずうずは決して表に出してはいけないものだとも理解している。一刻も早く口を開きたいが、口に出すのは本来憚られる話題のせいで、あまり気持ちのよいものではない。焦燥に近い苛立ちが身体の中で暴れ回る。
「どうですか」
私がスマホから目を離したのを見て、この小説の作者であるクラブの後輩が口を開く。読了したわけではないが、もとから途中稿を共有ファイルで送って感想を求めてきたので、感想を述べるために必要なシーンはすべて読んでしまったとも言える。
「瓶長って――石燕の創作だよね」
ああ、言ってしまった。だからもう止まらない。
「妖怪が昔から社会の裏に潜んでいる設定で、平安時代から続く陰陽師の家系の主人公が現代で起こった怪事件の謎を解きながら妖怪と戦う――ってのはまあ、いいセットアップだと思うよ。ベタだけど。でもその犯人が瓶長で、さも古来からの妖怪みたいなツラをして主人公と戦うっていうのは、こう――なんていうかさ……」
「く」
後輩は一度顔をうつむけて、妙な音を発した。
「くくくくくくッ! あー! よかったー! 狙った通りの感想、ありがとうございます先輩」
邪悪に笑い転げる後輩を見て、私は自分がはめられたことに気づく。
「おまえっ、じゃあこの原稿全部、私にクソダセェこと言わせるために書いたのかっ」
「あっ、クソダセェのは自覚してたんすね。まあせっかく書いたから、短く仕上げてネットに上げるか次の同人誌に入れるかはするつもりですけど」
「あーあー、そうですかー! じゃあもう私に用はないな? 帰る」
「拗ねないでくださいよ。せっかく書いたんだし、もうちょっと感想もらえません?」
こいつは――私がネットで公開している小説に一度も感想がついたことがないのを知っての言動だろうか。小説の作者というものがいかに孤独で、感想に餓えているのかを実感している私に、辱めのような感想を言わせるのが狙いだとしたら――性格が最悪。
だからもう少しだけ付き合ってみることにする。ここまでねじ曲がった根性をしている奴が私のために書いた原稿には、きっとまだ仕掛けがある。
――瓶長とは。
私は主人公が妖怪瓶長について説明するシーンを読み返す。以下は後輩の書いた文章そのままである。
「瓶長とは。古くなった瓶の付喪神であり、汲めども尽きぬ水をもたらす瓶そのものを言う。今回の事件、そもそもの起こりはなんだったのか、思い出していただきたい」
「ああ、妻が怪しげな壺を買わされて――」
「その壺こそが瓶長だったんだ」
突っ込まないぞ――とぎゅっと唇を結ぶ。それを見て後輩はにやにやと楽しげだ。
そもそも瓶長とは、江戸時代の絵師、鳥山石燕によって描かれた有名な画図百鬼夜行シリーズの最後の一冊、『百器徒然袋』に描かれた妖怪の一体である。
画図百鬼夜行シリーズには河童や天狗など、誰でも知っている妖怪も描かれているが、『百器徒然袋』のころになると、描かれる妖怪はほとんどが石燕のオリジナルとなっている。作者によって書かれた解説文の最後に「夢のうちにおもひぬ。」といった言葉が毎回入るようになり、これは石燕が夢想した妖怪であるとわざわざ断り書きを入れているのである。石燕はその中に無数の絵解きや諧謔の要素を仕込ませているとされるが、同時代では通じた洒落も現代の私たちには皆目わからない部分も多い。
ところが、画図百鬼夜行シリーズは江戸時代が終わり、明治大正が終わって昭和になり起こった妖怪ブームの中で、妖怪を世間に広める役割を担った創作者たちに最も参照されやすい文献となった。
戦前、『日本妖怪変化史』で知られる江馬務がその著作で絵画のコレクションを用いて研究を行い、個人間の交流もありそれを引き継いだかたちとなった吉川観方が『絵画に見えたる妖怪』の中で鳥山石燕に対し先行する絵巻物を挙げた指摘を行っていることから、それらの絵画を保有していたことが窺える。
『妖怪画談全集』を記した藤澤衛彦もまた、鳥山石燕の妖怪画を著作の中で用いている。特に有名なのは石燕の「ぬらりひょん」に藤澤によって添えられたキャプション、「まだ宵の口の燈影にぬらりひよんと訪問する怪物の親玉」だろう。
石燕の描いた「ぬらりひょん」に解説文は一切書かれていない。そこに藤澤が昭和になって付け足したキャプションが、現在広く知られているぬらりひょんの「妖怪の頭領」、「人の家に勝手に上がり込む」といった説明の典拠となっている。
画図百鬼夜行シリーズは現代では妖怪図鑑最初の決定版のような扱いを受けているが、実際はこれらの人物が所有する石燕の妖怪画を著作で紹介し、以降の妖怪を扱う諸人にも紹介してきたからという側面が大きい。妖怪のイメージとして石燕の画が強いのも、ウィキペディアの妖怪の個別項目に石燕の画が用いられるのも、江馬務、吉川観方、藤澤衛彦といった先人たちが妖怪イメージを作り上げ、それを佐藤有文や水木しげるが参照して現代の妖怪像を形作っていったからである。
つまり何を言いたいかというと――であるが、瓶長は鳥山石燕が江戸時代に創作した妖怪である。たしかに解説文には「酌どもつきず、飲どもかはらぬめでたきこと」と、どれだけ汲んでも尽きることのない水瓶の妖怪であるといったことは書かれているが、そのあとにきちんと「夢のうちにおもひぬ。」とお決まりの文句が書かれている。
妖怪はすべて創作である――と言い切ることも一種可能ではある。加えてその中でも特に瓶長の場合は、初出と作者が明確になっている。強引な言い方をしてしまえば、オリジナル小説の中で主人公と対峙する妖怪がゲゲゲの鬼太郎だった時に受けるであろう落胆と義憤のようなものを、私は後輩の小説を読んで感じてしまったのだ。
これは、妖怪が登場するフィクションを摂取するにあたって、絶対に避けなければならない思考であった。そんなことを言い出せばおおよそすべての妖怪ものはまるで全然受け入れられなくなる。なので当然、私は自分が読者や視聴者になる際には、完全に割り切って作品そのものを楽しむことに努めている。
ただし、この小説を書いた後輩に対しては事情が異なる。
私は後輩とこの部室の中で過ごした時間の中で、互いの妖怪観を共有してきた。驚いたことに後輩もまた私と同様の妖怪に対する見識を持っていることがわかった。
後輩は瓶長が石燕の創作だとわかっている。わかったうえで、ああした使い方をしている。ここがどうにも解せない。作者、表現者としての良心の呵責のようなものを、果たして後輩は覚えないのだろうか。
なので私は慎重に問いただす。
「これ、私をおちょくるためだけに書いたんだよな? 本当はどこにも公開するつもりはなかったりしない?」
私がネットで小説を書き、同ジャンルのネット小説を読んできて感じたことは、作者・読者間の情報の差に対して、どこまで開き直れるかが人気を獲得するひとつのバロメーターになっているということだった。
これは小説のプロット上の出来事に関する情報開示――とはまったく別の視点の話である。妖怪を扱う小説において、作者の持つ妖怪の知識、作中における妖怪の設定を、どう読者に説明するか――という極めて限定的な視点での話になる。
たとえば河童。作中に固有名詞を持つ河童がキャラクターとして登場したとしよう。私なら、地の文で九千坊や祢々子、無三殿さんといった広く知られた名前を持つ河童を類例として挙げてすぐに話を進める。これでは人気は出ない。
まずワトソン役のキャラクター(たいていの場合、主人公を担うおもしれー女)(または狂言回しのオタク男)が河童に名前があることに疑問を抱いて、ホームズ役のキャラクター(たいての場合、主人公の女に惹かれることになる知的なイケメン)(またはオタク男に優しく接するヒロイン)が長々と台詞を吐きながら類例を挙げ、キャラクター同士のやりとりによってキャラクターの株を上げて魅力を引き出す。
実に効率的なシステム。
ではなぜ私がこのシステムを用いないのか。
私は読者を信用したいと思っている。「している」ではなく、「したい」の段階に過ぎない。私の小説を読みにきた読者ならば、地の文で流した名のある河童のひとつくらい当然知っていて、知らないとしても、ははあこれは名のある河童の類例なのだな――と流してくれるものだと思い込んでいる。無論そんなはずはなく、そもそも読者がつかずに該当のエピソードのPVがいつまでも0のままであることなどしょっちゅうだ。
それでもいつか読んでくれる読者に、この作者はネットで調べればすぐにわかる情報をキャラ立てのためにキャラクターに喋らせているのだな――とは思われたくない。知っているならヨシ、知らないのでもついてこられるのならばヨシ、という、一昔前のインターネットの無頼のような精神性を今でも大事に持っている。
そして作者・読者間の情報の差は、このシステムがテンプレート的なものだと知っている・自覚しているという階層まで扱われなければならない。さらに深く立ち入るなら、私のような作者の懊悩にまで踏み込むこととなる。
幸い、そんなメタにメタを張ったような読者はそうそういない。いたとしても、誰にでも見える場所で直接言及することはない。
「いや、先輩の無様な姿を見るのはもちろん目的ですけど、それだけのためにこんな文量書かないですよ。ちゃんと仕上げてどっかには出すつもりです」
だがいるのだ。目の前に。メタにメタを張ってその上からメタで殴ってくるような輩が。ここは私たちしかいない部室。肉声はその場限りのやりとり。私も後輩も、心置きなく剛速球を投げ合える条件が整っている。
「というか、先輩、ちゃんと最後まで読んでくれました? ここらへんでいったん読むのやめるだろうなーと思ってたところで止まってません?」
たしかにスマホで開いた文書を軽くタップすると、まだ続きがあることをスクロールバーが示している。
どこまでも後輩の思惑通りに進んでいることに辟易しながら、私は後輩の書いた小説の続きを読んでいく。以下はその中で特に目に留まった箇所である。
「これだけは忘れるな。妖怪というのは、人の意識が作り出すモノだということを」
「人の、意識……」
「妖怪とはこういう姿である。こういう性質である。そうした情報の蓄積。それらを参照する我々の意識が、非現実の存在である妖怪を存在たらしめている。おれはあの場で、瓶長という妖怪の性質を語ってみせた。場の空気――そう、あの場の意識を、瓶長という妖怪が存在するのだという方向に強引に持っていた。そして本当に現れた瓶長をおれが戦って倒した、という物語を構築してみせたのさ」
読み終わっても、私の渋面は変わらない。
妖怪が人間の認識によって形作られる――ライトノベルおよびTRPGの『妖魔夜行』以後メジャーになった設定だ。
妖怪ものを書く上では、あらゆる点で優れた、極めて利便性の高い設定であると言える。
なぜなら、私が最初に述べたような違和感に対して、「言い訳」ができるからだ。
瓶長が石燕の創作妖怪であったとしても、現代では瓶長は大衆的妖怪イメージの中の一体に収まっている。少しでも詳しく解説するタイプの妖怪事典ならば瓶長が石燕の創作だと書いてあるだろうが、おおよその妖怪解説では瓶長は河童や天狗と同列の妖怪として扱われている。そこに付随した瓶長の性質。これらを取り込んで、瓶長が妖怪として成立していることは、この設定の中であれば問題がないように思える。
妖怪を書くことに長けてきた作者が用いる、合理的で論理的なシステム。だが。
「これってさ、結局近代的人間第一主義ってことになるよね」
妖怪は人間の認識によって存在する。人間が存在しなければ妖怪は存在できない。たしかにそうなのかもしれない。だからこの設定の中では、人智を超越した妖怪や、数千年の昔から土地を支配する妖怪は、存在することができなくなる。存在することにしたとしても、そうした伝承があって、後付けで妖怪が発生したという設定にせざるをえない。
真に人間を戦慄せしめる妖怪は、この設定の中では元来なかったものとして扱われなければならない。
「そうですね。私、人間が好きですから」
「私は妖怪が好きだよ。人間が嫌い」
後輩の書く小説は、妖怪――怪異――異類といったものを、あまりに軽視していると言わざるをえない。
井上円了の妖怪学に始まり、柳田民俗学から現代の妖怪研究は、一貫して妖怪が実在しないという前提条件の下成立している。研究者側は「妖怪が実在しないことを知っている」、採集の対象となる妖怪事象や伝承者たちは「妖怪は実在していると信じている」という非対称。研究者は認識論的に優越的な立場をとり続け、本当に息づいている妖怪を無化し、分析者だけが自己の近代的世界認識を特権化させ、分析することによる勝利を必ず分析者側にもたらす。
もし本来存在する妖怪があったとしても、現代の妖怪文化研究とそこから発想された近代的世界認識に基づく人間特権的設定構築――後輩の用いた設定のこと――は妖怪を必ず一度殺し、無力化したあとで妖怪を紹介することになる。
最初から存在しないものとして開き直って書いてしまうのは、冷笑的態度とどう違うのか。そしてなぜ、ドラゴンやゴブリンといったいわゆるファンタジーのモンスターと違って、妖怪だけがこのような扱いを受けなければならないのか。
「でも実際、これなら先輩の嫌いな作者と読者の情報の差による不均衡を解消できると思いませんか?」
後輩は私が常日頃思っている、作者・読者間の情報の差に対する懊悩も知っている。
作中で扱う妖怪の情報が、作中独自の閉じた設定である場合と、人間の認識によって妖怪が形作られる場合では、たしかに後者のほうが読者に対しては誠実であると言えるかもしれない。なぜなら参照する情報が世間一般に広まった情報であり、この現実世界での妖怪の情報と同一とすることができるからである。
作中でキャラクターに語らせた情報以外にも、妖怪を構成する情報は存在し、それらは誰に対しても開かれている。であるならば、作中でキャラクターが喋った情報が限定的なものだったとしても、妖怪が登場するにあたって参照した情報はさらに遠大であり、調べることで読者にもアクセスできる。
無論、これは理想論、あるいは詭弁である。読者はそこまでの手間は踏まないし、作者もまた同様である。
さらに言えば――
「そのギミック開示をすること自体が作者に優位性をもたらさないか?」
妖怪に対する情報の差に加えて、妖怪を扱う創作に対する情報の差。今やテンプレと化した「人間の認識で妖怪が形作られる」という設定を使用することは、初めて妖怪ものに触れる読者には大きな驚きを与えることができるかもしれない。だが実際にはすでにあらかた使い果たされた設定であり、このギミックを大きく見せることによって得られる効果と、このギミックを知っている読者の退屈を天秤にかけ、前者を選び取ったことになる。
作者・読者間の情報の差への問題意識は結局、読者もまた作者と同等の知識を持つことが可能であると見積もることから始まる。ケータイ小説で改行を行わずに長い文章を書いたり、ライトノベルが主である小説投稿サイトでゴア描写や登場人物の凄惨な死を書いたりすることによって、これは他の作品とは一線を画す――と錯覚させるような作品とそこに書かれた感想を私はいくつも見てきた。
これらの作品はヒットしても、言外に罵られる場合が多いというのが私の概観であった。そこでいくらかの溜飲を下げることはできる。
だが、私が書いている妖怪を題材にした小説ではどうか。同じことを、妖怪への扱い方でやってしまってはいまいか。
作者・読者間の情報の差を利用した手管を、自分もまた行っていたことに気づいた途端、私はもう小説がまるで書けなくなってしまった。どうせ最初から読者はほとんどいない。最新の十話くらいはずっとPVが0のままだ。連載を待っている読者もいないだろう。
「それを言ったらおしまいじゃないですか。叙述トリックにマジギレする読者は――まあ結構いますけど、むしろそっちのほうがダサいでしょうに」
「叙述トリックはトリックの類型として成立しているから、だよ。妖怪はいつまでもジャンルとして整理されない」
「作者の数だけ妖怪の設定はありますからねえ」
後輩がしみじみとつぶやいたのを聞いて、私はようやく気づく。急速に瑞々しく恨み辛みを書き連ねていたころの手触りが蘇ってくる。汚らしい。こんなもの、味わうだけ苦しいだけだと知っているのに。
「おまえ……私の小説読んでたのかよ――」
後輩の書いた小説で用いられている設定は、以前に私が書いていた小説のものとまったく同じだ。
いくら類型があるといっても、後輩の言った通り妖怪周りの設定は作者によって十人十色。その中でここまで一致する設定を用いたということは――そうだ、よく思い出せば主人公の名前や舞台となる町の名前も、私が昔に書いた小説からの流用。
「思ってたより重症でしたね、先輩」
自分がかつて書いたものを、ほとんど忘れてしまっていた。思い出すのがいつからかいやになって、記憶に蓋をして心の安定を得ていた。
ようやっと思い出した今ならはっきりとわかる。私の判断と対処は正しかった。身体に溜まった澱からぶわりとまき散らされるあのころの感覚は、忌々しいことこの上ない。
今まで私が後輩にぶつけてきた疑問や懸念は、本来私自身に向けられるべき刃だった。だが私はそれに気づかない。忘れてしまったおかげで主体性を失い、実感のない空疎な問いかけにしかならなかったからだ。心の平穏を保つためのアイロニーを繰り返しても傷つく恐れもない。
「いつからだ」
「さあ」
後輩はにっこりと首をかしげる。
「いつからでしょうね」
私に読ませた原稿は、やはり私をおちょくるためだけに書かれたものに相違ない。ここまで同じ設定と舞台で書かれた小説をネットで公開すれば、盗作の誹りを免れない。私の小説の読者がほとんどいないとしても、重大なリスクを冒してまで公開するとは思えない。
「じゃあちゃちゃっと仕上げてアップしますかね」
「おい――」
キーボードに向き合う後輩になんと声をかければいいのか。
「それは私の」
小説――ではない。設定や人物名に一致が見られるものの、ストーリーも文章も、後輩が自分の力で書いた。
「私の」
ものでもない。妖怪周りの設定のオリジナリティは妖怪ものにとってないも同然だ。
「私が」
書くはずだった――わけでもない。ついさっきまで、私は自分が書いたものをすっぽりと忘れていた。
そもそも、この後輩というのは何者だ。
「あーあ、先輩、なんですか。ひとを化け物みたいに」
記憶が欠落している。出会ったことも、共に過ごした時間も、そんなものが果たしてあったのか、てんで思い出せない。
「おまえは」
なんだ。
言いかけた唇を、思い切り結んで言葉を飲み込む。その先はひととして踏み入ってはならない。
時々思う。
分析する側の人間は分析する対象を近代的な目で見て勝手に自分の世界像の中に落とし込む。それによって必ず政治的に勝利することができる。
だが、もし、分析する側の人間が、信じていないはずの本当の妖怪――円了の言うところの真怪に出くわしたら。
この場合、分析者は私。では私が分析する概念とはなんだ。妖怪? 小説? 妖怪小説? どれも――違う。
目の前でにやにやと笑っている、私の後輩を名乗るもの。
私は知っている。ここでどれだけ思案を重ねても、私はすでに真怪の中に包まれている。もし後輩が人智を超えた何物かだったとしても、私はずっと後輩を後輩として扱ってきた。すなわち私の世界像はすでに後輩が存在する可能世界へと理性を減速させ、後輩という存在を真面目に取り扱ってきた。
ならば分析されるべきは、私のほうなのではないか。
「もう、わかりましたよ。これ以上は書きませんし、ネットにアップもしません。でも、いいですか先輩。本当に全部取り戻したいのなら、ちゃんと自分で書いてください」
後輩の笑顔。何度も見たことを、目が覚えている。
「なんだったらリハビリに、ここまでのやりとりを好き勝手に書くのもいいんじゃないですか? そうしないと先輩、また全部忘れたことにしちゃいそうだし」
後輩は果たして私の後輩だったのか。
はたまた私の記憶を抜き取りもてあそぶ妖怪であったのか。
これを書き終えるころには私は結論を出しているはずである。作者の持つ情報と読者の持つ情報の差は、私の後輩に関してはここまで同一であったと言えるだろう。
なのでこの先は記さない。分析は自由だ。ただ最後に作者の優位を用いさせてもらえるのなら、この一文を書く寸前に共有ファイルで私の文章を読んだあいつは、げらげらと笑い転げていた。
妖怪の書き方 久佐馬野景 @nokagekusaba
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