後編

「それはそうと、私へのにえの品はどこかしら」

 幼女の姿をした悪魔、キスキル・リラは俺の両目をじっと見つめたまま言った。


「用意をすることも知らなかったのね、困ったご主人様。でもあなたは運が良いわ。私はちょうど退屈していたのよ、あなたの血、甘くて魅惑的だったわ」


 気がつくと、彼女は俺を取り囲む魔法陣のすぐ側まで近付いていた。どうやら魔法陣の中には入れないようで、物欲しそうに舌舐したなめずりしながらこう言った。


「あなたの血をあともう一啜ひとすすりもらえたら、特別に、満ちた月が欠ける間だけ使役しえきされてあげる。私にできる事なら何でも叶えてあげるわ。さあ、左手を出して……」


 俺はその時、彼女に魅了されていたのかもしれない。魔法陣の円を書き足した時と同じように、うっかり左手首を魔法陣から出してしまった。


 彼女は、俺の手首を左手で力強くつかんだ。秘密を分かち合うように、ピンと伸ばした自身の右の人差し指を、そっと自分の唇に押し当てた--かと思うと、その人差し指を俺の手首に押し当て、スーッと皮膚をいた。筋状に血がふっくらあふれ出る。


 幼女の悪魔はまるでミルクをめる子猫のように血をすすっていたが、次第に呼吸が荒々しくなって、掴まれた左手首に痛みが走って--俺は我に返った。


「待って、待って!」


 手を引っ込めようとしたが、幼子おさなごとは思えない力の強さでびくともしない。


「待って、離して! キスキル・リラ!」


 彼女は血を啜るのをやめ、パッと手を離した。急だったので、俺は勢いよく頭を地面に打ちつけた。

 後頭部をなでながら、起き上がると、彼女は微笑んでいた。


「契約成立ですね、ご主人様」


 俺のまわりを取り囲んでいた魔法陣から、赤い光が消えた--その代わり、左手親指の付け根に、赤く光る、見慣れない文様が現れた。指輪のようにぐるりと取り囲むと、赤い光はしずまり、刺青のような暗い色になった。


 微笑んでいたかに見えたが、彼女の目はするどく俺を見ていた。どうも上辺うわべでは取りつくろっているようだが、本音は違うようだ。


「先ほど名前がよく聞き取れなかったの。もう一度名乗って下さる?」


 気のせいか、少し言葉にとげを感じた。冷静になってみれば、そもそも悪魔に名前を名乗って良かったのだろうか。呼び出した時点でもう手遅れかもしれないが……。


「タレット、です」


 引け目を感じて、俺は自分の名前を小声で言った。すると、

「……もう、タラットなのかターレットなのか知らないけど、タラタラしてるんじゃないわよ!」

 彼女は急に強い口調で言い放った。

「私に上着でも掛けてあげよう、という優しさは無いのかしら」


 俺は慌てて、着ていた薄手の外套がいとうを脱ぐと、顔をそむけながら--極力彼女の裸と、鋭い視線が合わないように--丁寧に羽織らせた。


「心配しなくても、今すぐ取って食らおうだなんて思っていないから」

 今すぐ、という言葉に引っかかりながら、俺は悪魔から離れた。急に恐怖が背中を冷やして、彼女と目を合わせられない。しかし、こちらをじっと見つめているようで、痛いほど視線を感じる。


「こんな幼子の姿じゃ、大した力は使えない。あなたにもっと魔力があるか、生贄となる人間を差し出せば、はじめに見たあの姿で使役できるけど……」

「今の姿のままで結構です」

「そう? ところで、この魔法陣はあなたが一から描いたものでは無さそうね」


 俺のまわりにあった魔法陣は、わずかに黒く跡が残るだけで、焼き消えていた。


「俺は見習い剣士なので、魔法は使えません。」

「……自分では気がついていないだけで、あなたは魔法も少し使えるのよ。そうで無いと、私を召喚出来なかったわ。まあ、だからこそ、こんなみじめな姿になってしまったんだけど」


 すみません、とまた言おうとした俺の口を、小さな手がふさいだ。

あやまるのは聞き飽きたわ。それに私のご主人様には、もっと堂々と振る舞って欲しいわね。」

「……分かりました」

「分かればよろしい」

 知らないうちに、幼女と目を合わせて話していた。彼女の赤い瞳は、最初に見た時よりも少し赤みがさして見える。


「実はまだお腹が空いているの」


 そう言った彼女は、見かけ通り、幼く可愛らしい表情をしていた。困った。悪魔が食べる物はよく知らないが、血を啜る様子から、簡単に用意できる物じゃ無さそうだ。


「タレットの血は美味しいけど、これ以上飲んだら倒れてしまいそうだから、遠慮してあげる。誰か美味しい肉か臓物ぞうもつを分けてくれる友人はいるかしら? ……どうしてもって言うなら、常温のトマトジュースか、生きたにわとりの心臓でも良いわ」


 何とでも無いように話しているが、やはり悪魔だ。俺に用意できる物は限られている。

「常温のトマトジュースなら、菜園ですぐ用意ができます」

 俺がそう言うと、彼女は上着でしっかりと自分の体をくるんでこちらに近づいてきた。そして俺の胸に背を預け、

「私のことは普段、リリィとでも呼んで。さぁ菜園に行くわよタレット! あなたの血を飲んで、余計にお腹が空いたの」

 無邪気な子猫のように丸くなった。


 すっかり忘れていたが、午前中の授業は完全に欠席になりそうだ。

 俺は肩に剣のホルダーを引っ掛けると、幼女の姿をした悪魔--キスキル・リア改め、リリィを抱いて、菜園へと向かった。


「あなたの最初の願いは、友人を作ることにしたらどうかしら。私、血より臓物の方が好きなの」


 俺とリリィの出会いは、こうして始まった。



     【つづく……?】fin.


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『臓物とトマトジュース〜幼女悪魔が俺に懐くまで〜』 ヒニヨル @hiniyoru

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