「寂しいんでしょう」

 澄花ちゃんの去った店内で、眼鏡屋は手持ち無沙汰のように陳列台に並ぶ眼鏡を磨く。

「スウちゃん、せっかくお友達と浴衣で花火見学って言うんだから。うちの店で着替えて、少しでも楽して遊びに行ければ良いだろうなあって思うじゃない。人混み苦手だろうし、熱中症も怖いしね」

 なんとも殊勝なことだ。眼鏡屋は私の質問をはぐらかして、適当に話し続けるかと思ったが。

「ついでに帰りには、うちで涼んでいけばいいとも思ったんだけどね。冷たいおやつも用意してたんだけどなあ。お泊りだったのか」

 なんてことを言うから、つい吹き出してしまった。

「夏休みだからって、遅い時間に女子高生を引き留めようと思ってたのかあんたって人は。……おやつは別の機会に取っておきなさいよ。私が帰りに寄ってあげるから、酒でも買ってさ」

 窓の外に目をやる。銀色の店名越しに見える空は、だんだんと夜の色に近づいていた。

「さて、私もそろそろ行くわ。適当に酒とつまみを見繕って戻るから」

「……と二人で飲んでたら、のことを色々話してしまいそうだ」

 澪、とずいぶん久々に人から下の名前で呼ばれて、思わずドアにかけた手が止まる。

 眼鏡屋はもともと、私の一人目の夫と親友だった。だから当時は、夫のことを『南波』と呼んでいて、私のことは『澪さん』と呼んでいたのだった。

 けれどその記憶を、眼鏡屋は自ら消してしまっていて。

 ただ一部の記憶だけが歪に残ったのか、混乱が生じたのかはわからないけれど。いつしか私のことを澪ではなく、南波と呼ぶようになったのだった。

「思い出したんでしょう?」

 眼鏡屋が忘却の彼方に追いやろうとしていた、過去、人々。悲しみに喜び。

 澄花ちゃんと出逢って、それを取り戻して。

 だから私のことも、かつてのように澪さんなんて呼んだのだろう。

「だったら彼の話を聞くのも、悪くないわ。なにせ私は、ひと月しか一緒にいなかったしね」 

「もう一人の旦那さんとは、花火の後にゆっくり過ごさなくていいの」

「その頃には納骨堂は閉まっちゃってるもの。それに花火が終わったら、速やかに帰った方が警備とか管理の人に迷惑がかからないでしょ」

「そうかもしれないけど」

「それにうちの旦那はね、最初の夫の命日は一緒に悼んでくれたしね、二番目のDVアル中クソ夫のことは一緒になって怒ってくれたしね。つまんないことで嫉妬するような人じゃないのよ」

 私のこのややこしい人生を、魔女としての永い生を。どんな過去も私の一部として、受け入れてくれた人なんだから。

「……そっか。じゃあ飲みますか、たまには、二人で」

「出店でたこ焼きでも焼きイカでも焼き鳥でも、買ってきてやりますわよ。酒は旦那のお下がりだけどね」

 納骨堂へのお供えは持ち帰りになるから、それで一杯。多分足りないだろうから、買い足して。

「あ、澪さんはやめてよね。眼鏡屋にそう呼ばれるのは、今更変な感じだわ」

 澄花ちゃんもびっくりするだろうし。いやもう、だいぶ混乱させているとは思うけれど。

 名前に縛られたり、繋がりを求めてみたり。

 どれだけ永く生きても、ただ己として生きるのはなかなか難しい。

「はいはい。いってらっしゃい、南波」

 今度こそ会話を切り上げて、店の扉を開ける。 

 会いに行くのも、春のお彼岸以来になってしまったな。遺影には日々手を合わせているし、時間が空いたくらいで拗ねるような人ではないけれど。

「行ってきまーす」

 袂の揺れる腕を、いつもより控えめに持ち上げて手を振る。薬指に嵌った銀の指輪が、部屋の照明に鈍く光った。








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