波間の名前

いいの すけこ

南波さんという人

 白い木綿の生地からは、なんとなく古いおうちの匂いがした。

 樟脳とか、もしかして糊の匂い。張りのある生地は、それでも肌に馴染んだ。

 身にまとう白い生地に、赤い撫子。

「古臭い浴衣でごめんねえ」

 背後の南波さんが言った。可愛らしい花を一面に散らした柄の白い浴衣は、南波さんが貸してくれたものだ。浴衣を糊付けしてぱりっとした風合いで仕上げるのは、南波さんの好みらしい。

「古臭いなんて、そんな。私好きですよ、可愛くて」

「そう? こんなんでよければもらってよ。私より若い子の方が似合うデザインだから」

 ぐっと帯が締まる。南波さんはもう着なくなったのだという浴衣を譲ってくれるだけでなく、着付けまでしてくれた。

 夕暮れが近づいて、幾分控えめになった真夏の日差しが窓から降り注いでいる。大きな一枚硝子の窓だけど、ここでは覗かれる心配はしなくていい。

「古いものでもこんなに綺麗にとっておいてあるなんて、さすが南波さん」

「いやー、実は虫食いとか染みもなかったわけではなくてねえ……。そこはほら、ね?」

 南波さんは指先で、私の背に渦を描いた。

 南波さんはとても綺麗なお姉さんだけど、実はとても長生きの魔女さんなので。

 指先ひとつで魔法を使えたりもするのだった。

「はい、おしまい!」

 最後にひときわ強く帯を締められた。南波さんの手が背中から離れて、詰めていた息を吐く。そっと後ろを振り向いたら、南波さんが手にした鏡に大きな蝶々結びが写っていた。

「わ、帯可愛い! ありがとうございます、南波さん」

「あとで写真撮ってあげるね。その前に、私も着替えさせてー」

 言うが早いか南波さんは勢いよくTシャツを脱いで、造りのいい椅子の上に放り投げる。急いでいるというよりは、着付けをしている間に暑くなったようだった。ここは心地よい温度で満たされているけれど、それでも動けば暑くなる。

 丁寧に汗を拭ってから、南波さんも自分の浴衣に袖を通した。

「紺も大人っぽくて素敵ですよね」

「そう? ありがと」

 深い紺色に、白く染め抜かれた桔梗。落ち着いた雰囲気は南波さんによく似合いそうだった。

「結構キツめに着付けたけど、着崩さないように気をつけてね」

「はい」

「人も多いだろうからさ。私が一緒なら直せるけどねえ」

 南波さんは手際よく浴衣を着付けていく。一人で和装を着こなしていく姿はとてもかっこいい。


「花火、南波さんはどのへんで見るんですか」

 今日は市の花火大会。

 私は会場まで行くわけではないけれど、市役所や高校のある周辺地域からでもよく見えるスポットがある。現地ほどではないけれど、相応の人手があることが予想された。

「私はね、旦那と一緒に見るんだよ」

「旦那さん?」

 南波さんの旦那さんは、もうお亡くなりになっているはず。私は南波さんの記憶の中にしか、その人を見たことがなかった。

「旦那のいる市営墓地がね、高所にあるから。花火がよく見えるの。毎年花火の時は利用者にだけ、解放してくれるんだよね」

「ああ、なるほど。そういうサービスがあるんですね」

 口にしながら、サービスという言葉は相応しくなかったかもとは思いつつ。

「お墓の中のご家族と一緒に過ごせるなんて、良いですね」

 きっとそこには墓地に抱きがちなマイナスなイメージはなく、先祖や死者に対する敬いや親しみがあるような気がした。

「まあ外国みたいに墓地でピクニックってわけにもいかないから、解放してもらえるのは駐車場だけなんだけど。せめてちょっとでも近くでって、気持ちの問題よね。うちの旦那は納骨堂に収まってて、墓石があるわけでもないし」

 その言葉に、私の知る墓地の様子を思い浮かべる。お彼岸の、お盆の。祖父母の家の、お墓参り。お寺にあるそれ。それ以外の景色が、私の頭の中にはない。

「納骨堂って、まあタイプは色々なんだけど……。うちのはロッカーみたいなのに、位牌とか納めておくやつ」

「あ、ニュースか何かで見たことあるかも。最近はそういうのもあるって」

 そういうの、を選ぶ事情は様々で。個人の事情もあれば、世の流れも変わっている。

「旦那の実家には立派なお墓があるんだけどね。私はそっちに一緒に入れないからさ」

 帯を締める、衣擦れの音。一人で着付けを仕上げて、南波さんは語った。 

「私たち二人の間では、籍なんてどうでも良かったんだけど。そうはいっても、身元不詳の人間を嫁に取るなんて、あちらのおうちとしては嫌でしょう。妻が夫の家の人間になるって時代だったし」

 私はどんな顔で南波さんのお話を聞いていたかは、わからないけれど。

 戸籍すら存在を証明できなくなるほどの時間を生き続けた魔女は、何でもないことのように言って笑う。


「旦那には栗橋くりはしのお家を捨てさせちゃったけどね」

「くりはし?」

「あ、栗橋は旦那の生家の苗字ね」

「え? じゃあ南波は」

「南波は、私の一番最初の夫の苗字」

「えーっと……」

 南波さんが、永い人生の間に数人の方とご結婚されたのは聞いている。籍の話は置いておいて、夫婦の関係になった人がいるという話は。

 現在、南波さんが『旦那』と呼ぶのは、最後に結婚した人。共に過ごした時間が、どの相手よりも長い人だった、はず。

「一番最初の夫とはちゃんと籍を入れたから、私も夫の苗字になったんだよね」

 南波姓の人が、一人目の旦那さん。最後に結婚したのは、確か三人目ということだったか。

 ややこしい、とは思ったけれど、人様の人生のことなので黙っておく。

「その頃の私は戸籍の生年と外見年齢がばっちり釣り合っていた……とも言い難いけど、誤魔化せないほどでもなかったし。というかその頃はまだ、人よりちょっと老けるのが遅いなー、くらいの感覚だったからね」

「えっと、大変失礼かもなんですが……。三人目の旦那さんは、南波さんがずっと一人目の旦那さんの苗字でいることは、嫌ではなかったんでしょうか」

 話を聞く限り、籍だの苗字だのは、南波さんたちが生きてきた時代ではものすごく重いものだったのだとわかるし。それでなくても、愛する人が他人の名前を名乗っていたら気分が悪くなるのでは。

「んー。旦那は栗橋のおうちと絶縁しちゃったから、そっちを私に名乗らせる気がなかったし」

 それでも南波さん自身は、ずっと南波姓を名乗ることが心地悪くなかったのだろうか。 

「それに最初の夫は、私と暮らし始めてひと月で出征して戦死しちゃって。だから一緒に過ごせた時間が少なかったんだから、名前くらいは残しといてあげたらって。旦那の方が言うんだもん」

 律義よね、と少し呆れた風に言って。南波さんはそっと息を吐いた。


「よし、着付け完了。片付けももう大丈夫だね」

「あ、じゃあ新淵さん呼んできますね」

 部屋の奥にある出入口にかかった、臙脂のカーテン。

 声をかけると、カーテンの裏から新淵さんが顔を出した。

「お、いいね、浴衣。似合う似合う」

 その言葉にくすぐったい気持ちになりながら、私は頭を下げる。

「着替えの場所を貸してくださって、ありがとうございます」

 ここは銀の月眼鏡店。南波さんのおうちでも私の家でもなく、新淵さんが店主を務める魔法の眼鏡屋さんなのである。

「うちに来てもらうより、澄花ちゃんち行くより、ここを使わせてもらった方が便利だもんね」

「でも新淵さんは、花火見に行かないんですよね?」

 今日、私は新淵さんと待ち合わせているわけでもなんでもないのだった。

「私てっきり、新淵さんと南波さんが花火に行く約束をしているんだと思ってたんですよ」

 二人が一緒に出掛けるという話は、あまり聞いたことはないけれど。永い付き合いの二人のことだから、そういうことだってあるんだろうと私は思い込んでいた。だからそのついでに着付けをお願いするくらいなら、なんて考えてしまって。

「私は新淵さんも浴衣を着るのかと」

 新淵さんは、いつも通りのベストとスラックス。花火見物に出かけるわけではないので当然だ。だけど例えば渋い色の浴衣とか、女の人より低い位置の細い帯だとか。ワイシャツの襟よりも開いた浴衣の合わせとか。そういう姿を想像してしまったら。

(すごく見たいけど、見たら多分しんでしまう……)

 我ながら想像をたくましく巡らせてしまって、恥ずかしい。

「浴衣持ってないよ、僕」

 あっさり妄想を打ち砕かれ、その上、着替えの必要がない人の店を使わせてもらったことがますます申し訳ない。

「着替え場所を借りるだけ借りて別行動するなんて、なんだか悪いです」

「いいよ、それくらいは。場所の有効活用だよ」

「便利に使っちゃったのは悪かったけど。眼鏡屋だって澄花ちゃんの可愛い浴衣姿が見られて嬉しかろう?」

「そりゃあ可愛いよ」

 可愛いの言葉に、たちまち顔に熱が上る。夏の暑さにあてられるより、確実に私をのぼせ上らせるのだから、何度言われても慣れない。

 新淵さんには悪いけれど。ここで浴衣を着せてもらって良かったと、こっそり南波さんに感謝した。

「スウちゃんはお友達と、花火見るんだよね」

「はい。マユユさん……友達の住んでるマンションが、この近くで。お部屋から花火がよく見えるらしいので、お邪魔するんです」

 花火大会の話になった時、新淵さんの顔が思い浮かばなかったわけでもない。

「花火が終わったら、ここに寄っても良いなって、思ったんですけど。そのままお泊り会をしようって、なって」

 だけど人混みが苦手な私は、今まで花火大会なんて行ったことがなくて。友達に誘われてお泊り会なんて、したことがなくて。

「うん、楽しんでおいで」

 そんな私を新淵さんは、いつものように優しく笑って送り出してくれるのだった。








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