協奏曲

宵町いつか

第1話

 華やかな音色が廊下を満たした。廊下が小さなホールになっているような感覚になってしまうくらい、その音は綺麗で、美しくて、誰もを惹きつけるなにかを持っていた。

 軽やかに転がっていくトランペットの音色は課題曲の一節を表現豊かに吹いている。音源と遜色ない、いや音源よりもうまいかもしれない。石見いわみ椎名はその演奏を聞き届け、トランペットをさげた少女に声をかける。

「さすが。うまいね」

 声をかけられた少女は振り向いて、石見を見て軽く会釈をした。

「ありがと」

 その少女、加崎葉子は日光をトランペットに反射させながらもう一度構え、楽しそうにハイトーンをかき鳴らした。

 カチカチと楽しそうにメトロノームが音を鳴らしていた。


 加崎葉子は今から四ヶ月前の二月にこの北華高等学校にやってきた。彼女が元々居た高校は吹奏楽が強く、全国常連校だった。その吹奏楽部で二年ほど在籍した後、親の都合による引っ越しでこの学校にやってきたのだ。

 もちろん、彼女の演奏はうまかった。中学の頃からやっていたというトランペットはマイ楽器で、彼女専用に作られたのではないか、と勘ぐってしまうほど彼女の音色を美しいものにしていた。

 我が吹奏楽部は去年、東海大会止まりだった。全国大会に行ったのも今から五年前が最後で、それ以来あの名古屋の舞台には立てていない。なんでこんなところに来たのか、石見にはわからない。近くにもっと強い学校もあるのに。

 加崎はトランペットをさげ、ふうと息を吐いた。その頬は仄かに上気しており、若々しさを全面に押し出していた。

「もうそろそろ、オーディションだね」

 加崎は嬉しそうに言った。恐怖とか不安とかそういうものを感じなかった。きっと絶対的な自信があるのだろう。

「そうだね。期末明け」

 石見は予定を頭の中に思い浮かべながら答える。加崎は「そっか、楽しみだ」と笑顔で言った。

「皆の本気の演奏が聞けるんだね」

「……そうだね」

 石見は底なしの不安を抱えたまま、加崎をじっと見つめる。

 こいつだけには、ソロは奪わせないぞ。

 そんな感情を胸の中に秘めて。

 加崎はニコリと笑いながら石見に譜面を近づける。

「一緒にここ吹こっ」

「ん。いいよ」

 石見は学校のトランペットを構える。少し錆びついて指紋の目立っている年季の入っていたヤマハ。

 加崎のトランペットが日光を反射する。指紋一つ無い金色の表面が美しく輝き、石見は思わず目を細める。

「ぶちょー、カウントお願い」

 加崎がそう言うので、石見はふっと息を吐き、メトロノームに耳を傾ける。

「いち、にー、さんっ」

 カウントと同時に息を鋭く吸って、トランペットに吹き込む。メトロノームの振り子に合わせて音を変えて、音量を調節して、目的の音を、音色を確実に当てる。

 ゆっくりと二つの1stトランペットの音色が混ざり合い、きれいなユニゾンを奏でる。

 課題曲Ⅱ。西間綾作曲、遠藤千恵美編曲「アストラルより」。頭のフルートソロ、中盤のトランペットソロ、後半のオーボエとファゴットのソリと目立つ場面が多々あり、それ以外にも常に一つ一つの楽器が際立つ構成となっている。一つのパートが崩れてしまったら、全てが崩れてしまうような編成が特徴的だ。

 きっと、この曲が吹ければ全国へ行ける。漠然とそんな気がしていた。いや、きっと今年が最後だからそう思いたいんだろう。三年生で最後だから、行けると思いたいんだろう。例えば最終楽章。一番盛り上がるところなんだから。そうであってほしい。きっと、私達ならできる。そんな身勝手な自信が湧き出てくる。

「はー楽しかった」

 加崎が口から楽器を離して、満足げな声をあげた。

「石見、頑張ろ。部長だからってコンクール出れると思うなよー」

 冗談めかして加崎は言う。石見はそうだねと、加崎に声をかけ足早に離れて、もとの場所に戻った。

 コンクールには出れるだろう、自分で言うのはなんだが、石見はパート内ではうまいほうだと自負している。それに、石見には部長としてのプライドがある。負けられないのだ。


 期末テストが終わり、部内の緊張は最高潮に達していた。音楽室内の空気がどんよりとしており、皆楽譜とにらめっこをしている。

 ついに今日がオーディションだ。

 隣では加崎がワクワクした様子でトランペットの整備をしていた。きっと彼女はどんなときでもその調子を崩さないんだろな、と思った。

 加崎は石見の耳元で囁いた。

「楽しみだね」

 多分、心臓に毛が六本は生えている。

「そう……だね」

「緊張してる?」

「もちろん」

「大丈夫だって。石見なら一緒にコンクール出れるよ」

 加崎にとってはコンクールに出れるかどうかが重要で、石見にとっては出れるかどうかはもちろんだけど、それよりもソロが吹けるかどうかの方が重要だった。

 ふう、と息を吐く。前身の細胞を鎮めるように優しく、しっとりとした息を。

 きっと、大丈夫だ。何度も、何度もしただろう。だから、きっと。

 石見は落ち着いて譜面を眺める。書き込まれて音符が見えなくなっている箇所のある、努力の結晶。

 譜面に書き込まれた「絶対吹く」と、ソロの場所に強調して書かれた文字が石見の心をわずかに急かした。

「――それでは、オーディションを始めます。順番は一列目のクラから。一時間後、音楽室で」

「はいっ」

 顧問の静かな声に呼応するように部員たちが緊張に震えた喉で反応した。

 きっと、私ならと石見は今日何度目かもわからないくらいこころの中で思っていることをまた、考えた。


 緊張と集中が最高潮に達した音楽室で石見はため息を漏らす。

「――はぁ」

 結論から言えば、石見のオーディションは散々だった。思った通りの演奏とは程遠いものだった。一番練習していたソロでさえ思ったとおりには行かなかった。自分が納得できる演奏が出来なかった。

 それに比べ、加崎はオーディションも上手く行ったのだろう。石見とは正反対の表情を浮かべていた。

 そしてオーディションから一夜明けた今日、コンクールメンバーが発表される。早めに結果を知りたいだろう、という先生たちのいらない配慮の成果だ。

「それではコンクールメンバーを発表する。

 クラリネット、三年――」

 顧問の声が静かな音楽室に響き渡る。

 その声は部員たちを静かに泣く者、静かに喜ぶ者、の二つに分ける。残酷で、冷たい声。

「トランペット」

 三年、石見椎名。

 石見は静かに息を吐く。自然と体の力が抜け、一気に視界がひらけたように錯覚する。どうやら高校生活最後のコンクールには出られるらしい。

 当たり前に加崎の名前もあった。

 全てのパートのメンバーが出され、あとはソロパートだけとなった。なぜかまた一段と音楽室の空気が重たくなった。

「課題曲フルートソロ、字和あざわ透」

 よし、と前から小さく声が聞こえた。その隣ではすすり泣く少女の姿も見えた。

「課題曲トランペットソロ」

 加崎葉子。

 前身の力が抜けた。頭がくらくらする。手足が痺れている。喉が乾いている。足が地面についているはずなのに、不安定だ。

「それでは三十分後に合奏を始めます。それまでにコンクールメンバーはこの場で音出しを」

「はい」

 部員たちの威勢のいい声が響き渡る。その瞬間だけは緊張も、悲しみもなにも入っていなかった。

 ざわざわと部員たちが動き出す。メンバーになれなかった者たちは静かに出ていった。その背中は小さく縮こまっていて、今にも消えてしまいそうだった。

「ねえ、加崎」

 石見はほとんど無意識に声をかけた。

「ん?」

「席、交代しよ」

「……ん」

 加崎は優しく答え、席を立った。

 一番うまい人は指揮者に一番近い場所で吹くようになっている。その方がわかりやすいからだ。石見は数ヶ月ぶりにその場から離れた。

「石見、席変わらなくても……」

「そういうしきたりでしょ」

 少し語句を荒くして、加崎に告げる。驚いたのかびくりと体を震わせた。それが申し訳なかった。彼女には何も責められる筋合いは無いのに。

 どうやら自分は思ったより結果に納得していないようだった。オーディションの結果ではなく、自分の練習の結果として。

「加崎、ちょっと来て」

 石見は加崎を呼び出す。できる限りフランクに。

 加崎は申し訳ないような表情をして、頷いた。

 石見は心の何処かで自分の演奏に自信があった。だから悔しいのだ。その悔しさをどうにかしたくて、自分の演奏に納得したくて、石見は加崎を呼んだ。

 結局、二人はいつも個人練で利用している廊下にやってきた。

「加崎、私のソロ聞いてくれない?」

 廊下に石見の声が虚しく響いた。いつもあるはずの楽器の音が無いだけでこんなにも虚しく感じるのかと、思った。

「もちろん」

 加崎は目をキラキラさせて、そう答えた。

 石見はすっとトランペットを構える。きらりと日光が楽器に反射する。肺の中の息を全て吐いて、すべての感情を込めて思いっきり息を吹き込んだ。

 丁寧に、一つ一つの音をはっきりと鳴らし、表現豊かに、自分の思える最大の感情を込めてソロを吹いていく。

 吹き終わると、パチパチパチと拍手が鳴り響いた。廊下だからかよく拍手の音が反響した。

「御清聴ありがとうございましたっ」

 石見は楽器をおろし、加崎を見つめる。加崎は石見の意志を確認したように、楽器を構えて、そっと楽器に息を吹き込む。それは課題曲のソロ。

 ああ。

 音楽に優劣はつかない、なんて誰が言ったんだ。こんなにも差があるじゃないか。

 自然とため息が漏れた。きっとトランペットにかける思いの強さは変わらないはずだ。加崎もきっと同じようにトランペットを楽しみながら吹いているし、好きだろう。

 楽しいだけじゃ、好きという感情だけじゃ、だめなんだ。

「……ありがとう」

 吹き終わった加崎に向かって石見はそう呟いた。加崎はモゴモゴと口を動かして、石見を見た。加崎にも加崎なりの悩みがあるのだろう。部長を引きずり下ろしたんだ。複雑な心境だろうし、これから苦難が待っているだろう。でも。

「加崎がソロだよ」

 ぐさりと自分の言葉が心臓に突き刺さった。

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協奏曲 宵町いつか @itsuka6012

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