痛いの痛いの飛んでいけ

海の字

痛いの痛いの飛んでいけ

 だるような八月の喉元。昭和は末。

 快晴吉日と申しますも、殺人的な大気が列島を横断していた。


「じぬー」


 立ち昇る陽炎かげろうが僕を炙る。アロハシャツ、君はワイキキビーチを懐古したのか? 海に泳いで汗臭い。

 今日は気になるあの子との初デートだというのに。


 彼女は一つ年上の小学六年生で。

 しかして待ち合わせ場所の桜の木、セミたちの大合唱はつつがなくとり行われていた。


「おそい」

 まてど暮らせどあの子はやってこない。十分が過ぎ、四半刻がすぎ、一時間が過ぎても踏む影はない。

 何かあったのか。事故などに巻き込まれてしまったのか。そうした不安が鎌首をもたげる。


 にしても暑い。兎にも角にも暑すぎる。

 もはや拷問の域である。


「やい虫ケラ、僕はブッチされたのか」


 思案投首への返答か、意地悪な一匹が麦わら帽に小便をふっかけていきやがった。

 唄声は求愛のためというが、奴も僕と同じく鳴かず飛ばずの不細工なんだろうさ!


「おそい~」 

 諦めて、帰ってしまおうかな。


 思えば高嶺の花、あの子が僕なんかに釣り合うはずなかったんだ。きっと断りづらくて、デートの誘いに不本意で頷いてしまったんだ。僕は愚図だな、察してやれよ、うかれちゃってさ。あー、やるせない。


 そうだ! 喫茶にでも寄って、キンキンに冷えたラムネでもって、この鬱憤を押し流してやろう。


 なんて考えていた矢先、不思議なことが起きた。

 目の前で少女がすっ転んだのだ。

 ひょろっとした、五歳くらいの女の子。見覚えある幼稚園の制服を着ていた。


「あんな子さっきまでいたかな?」

 夏休み、昼間に子供がいてもさしておかしくはない。不可解なのは、急に何もないところで転げたこと。


 そりゃあ鈍臭い子もいるだろう、僕も昔はよく側溝にハマったもんだ。 

 だともこの暑さ、熱中症の可能性もある。急いでかけよって少女の安否を確かめる。


「君、大丈夫?」

「いた〜い」

 少女はベソをかいていた。血色はいい。


「よかったぁ、鈍臭い子だった」

「いたぁぁい!」


 擦りむいた程度の怪我だが、新鮮な赤が滲んでいた。とんだハプニングに見舞われたが仕方ない、乗りかかった船である。

 僕は自販機で冷たい水を購入し患部を洗う。ハンカチで保護、残りの半分は少女のために残す。


「大丈夫?」

「冷たーい、いたぁーい」


 大丈夫そうだ。

 ただあまりに痛快と泣くもんだから。


「痛いの痛いの飛んでいけー」なんて言ってみたり。


 すると少女はケロッと立ち上がり、「おにいちゃん、ありがとう!」はにかんだ。なんだかつかみどころのない子だなぁ。

 

「お礼にいいもんあげる」

 たぁんと団栗どんぐりが詰め込まれた秘密のポッケ。取り出すは一枚の古ぼけた紙だった。


 これは? 電車の切符のようにも見えるけれど。

「痛いの痛いの飛んでいけ終着駅。楽しんできいや〜」


 言うと少女は、水を飲み干しさっさと明後日の方へ駆けていった。

「またこけるよー。気をつけろよー!」

 せわしない子だな!

 

 にしてもどうして、夏休みに制服なんて着ていたのだろう。親御さんは見当たらなかったし。思えばあの制服の幼稚園、すでに廃園になっていなかったか?

 

 ま、どうでもいいや。

 立ち上がり、苦渋を飲んでデートの諦めをつける。

 好奇心もあったから、寄り道ついでに駅舎へ寄ってみた。車掌さんを捕まえて、さっきの切符を見せてみた。


「これ、なんだかわかります?」

「へぇ、珍しいこともあるもんだ。それ神崎郡かみさきぐん駅への片道切符だよ」


「神崎郡駅? 聞いたことないです」

「そりゃそうよ。一応我が私鉄の通過駅だけれど、山奥の無人駅なもんで乗車する人はついぞおらん。毎回人がいないか確認はしているけれどね。勤続十年みたことないなぁ、なんで潰れないんだろうね?」


 僕に言われても……。


「近くにうしお神社っていう大きなおやしろがあって、その関係で残されているのかもね。にしても君、これ片道でしか使えないよ、行くにしても帰りはどうするの?」


「いくらかかります?」

「小学生料金で百円!」


 デート代があるから余裕だった。

 気になる。行ってみたい。行けてしまう。くそぅ……。

 

 僕は男だ。ひょんな出会いが成した行く末に、興味がないと言えば嘘になる。

 未知への探究は、いつだって大福くらい甘い。


「行ってみます」

「いいね、一夏の大冒険ってかんじ! 迷子にだけは気をつけるんだよ〜」


****


 ガタンゴトン。

 壱河いちかわ電鉄は万年赤字の、我が市が誇る不良債権である。おかげでマニア以外乗車する人も少なく、空調の効いた涼しい車内にてガタンゴトン。


 窓の外、連峰の稜線りょうせんが美しく。緑、黄緑、深緑。茂る田原は紙吹雪のようにパラパラと流れていく。雲ひとつない群青に鷹が高々と舞った。


「田舎だなぁ」

 本当は今頃、ちょっとした街であの子と映画を見れていたはずなのに。


 ポロポロ、溢れる涙。

 ユラユラ、揺れるまなこ。


 気疲れしたのだろう、心地よいしじまに微睡まどろんで。


『神崎郡、神崎郡』


 いつのまにか目的地へ辿り着いていた。

 どの駅順を辿ったのか、これではわからないな。


 急いで外へ出ると熱波は鳴りを潜めて。

 傘の大きな木々が太陽光を遮断し、ちょっとした避暑地になっていた。

 湿った土の香り、木漏れ日がさす。


 無人駅の景観は古く寂れていて。駅ノートをめくると、歴史書の年表並みに歳月が流れているから面白い。


『1970年 きょうからがんばります』


 十八年前の記述を最後にノートは白紙だった。

 僕も一筆残して、木箱に切符を納め、外へ。振り返ると神崎郡駅であるはずの看板には、『痛いの痛いの飛んでいけ終着駅』とだけ記されていた。


「不思議」

 少女の素っ頓狂な戯言は、このことを言っていたのだ。そばで一方通行の標識が折れかかっている。

「どう言う意味だろう?」


 いぶかしむのも束の間、早々と歩を進めた。

 好奇心には逆らえない性分なので。


 鎮守の森、敷石を跳ねる。

 道中つ地蔵様にご挨拶。

 最近見た映画のエンディングテーマ、『さんぽ』を歌う。


 どんどんいこう。どんどんいこう。たんけんしよう。はやしのおくまで。


「あら?」

 耳を澄ます、せせらぎの音が聞こえる。たどると清らかな小川に出逢った。

 シダ茂る沢のほとりで、翡翠かわせみが水浴びをしている。

 水陰みかげに薄ら日、カワムツは銀に反射し。みな渓流の麗らかを助長していた。

「すっご」


 さて奥へ。

 天高くそびえる杉並木、なかでも一際大きな老樹を見上げる。


 見上げて、見上げて、まじか、頂点が見えないや。

 空をきり青葉広げて、神聖を誇示している。


 これはきっと宇宙へ続くエレベータだ。地脈の栄養素をたらふく吸い上げ、大気圏外へ放出しているんだ。UFOの動力源として利用するために違いない。宇宙人が植林した生物兵器なんだな。


 思い込まないと納得できない自然に畏怖する。幹元では古い標縄しめなわが破れ朽ちている。きっとコイツの成長に負けたのだ。


 樹皮に触りたくなる衝動を抑えた。別に僕のエネルギが吸い取られることを危惧したんじゃない。無闇に神秘へ触れてしまう気がして臆したんだ。触らぬ神になんとやら。


「御神木があるってことは、お社は近いのかな?」


 しばらく歩くと、清流にかかる赤い欄干らんかんの神橋が見えた。

 彼岸へ渡るのに多少勇気が必要だった。

 現世と聖域をわかつ境界の、荘厳な雰囲気に圧されたのだ。


「一方通行の標識、たどり着いた場所は行き止まり……」


 冒険の甘美な芳香に酔いそうだ。

 小ぶりな鳥居が一期、意を決しつき進む。


 境内へ入ると、空気が変わったことを肌で感じた。

 寒気がお腹の底から込み上げてくる、時の流れが外界より緩やかにも思う。

 意識がほんの少し頭上にあって、自分が自分じゃないみたい。


 正直ビビっていた。

 得体の知れない、空気とかいう曖昧におののいていた。


 ひと気ない山奥だというのに、神社はかくも立派で、だから異質で。

 お社は巨木と巨岩に囲まれた、神域にふさわしい秘境だった。


 拝殿の先には舞殿、奥にようやく本殿が構えるという三重の造り。

 一礼し中へ入ると、いつの時代に描かれたものか判別不可能な木画が、多数壁面に飾られていた。

 武士に物怪、天女に鬼神。かすれて消えかかっているものも多い。なぜかみな僕を見つめているように錯覚する。

「怖すぎ〜」


 頭上の欄間らんまにおいては神業の彫刻が施されていた。昇り竜に松ばやし、心血のそそがれた圧巻の意匠に震えた。


 お社の年気は相当なもので、湿度の高い立地もあってか、歩くたびに床が軋む。小心は簡単に怖気づく。


 だが彼女の一声は、そんな心音すら軽く吹き飛ばす、特大の驚愕だった。

「おにいちゃん、来たんや」

「どひゃー!?」


 きょうび聞かない、『どひゃー』である。

 すっ転んだ。どこかの誰かさんのように。


「き、君! どうしてここに!」

 柱からちょこんとイタズラ顔を覗かせる、彼女は先の女の子。


「これ、グビらん?」

 ラムネがニ瓶、見せつけられる。

 ごくり。飲んだのは固唾か生唾か。

「飲みたい!」


 そうと決まれば二人で縁側に座り、乾杯だ。

 シュワシュワと渇きを癒し、ビー玉をもて遊ぶ。そういう関係性を僕は友達という。彼女とはもう仲良しなんだ。


 秘密を打ち明けたなら、友情はより深く親密になろう。


「わたしねー、神様やねん」

「へぇ」

「そっけな。別に信じんくてもええけど」


 電車は一時間に一本、一両編成、見落とすはずがない。少女は確実に乗っていなかった。

 どうやってここまで来れたのか疑問だった。一応、神様であれば説明がつくのかな?

 急な告白に驚いたが、どう見てもただの幼稚園児である。


「別に信じんくても。信心なくてもええ。なにせ新人の神やし」

「新人?」

「うん。十何年か前に事故で死んで、以来ここの神さんしとる。何代目になんのやろうな〜?」


 ひーふーみー、木画を指先で数えている。

 比較的新しい作品の乙女が、少女に似ていることを僕は見逃さなかった。

「……負けたよ。君は神様だ、信じます」

 別に戯れ言でも良いんだ。神様を信じた方が、面白いに決まっているってだけ。

「おにいちゃんの負け。神が勝っとるなー」


「で、神様。どうして僕をここへ連れてきたの?」

「焦んな。久しぶりの参拝客やねんから、ゆっくりしとけ」

 少女の浮いた足はぶらん。鼻唄まじり、肩に頭を預けてきた。君が神なら僕は神輿か。


「潮神社。うしお神社。古くはうずしお神社。この神社は、とあるものを引き寄せる性質をもつ、いわば霊脈なんや」


 痛いの痛いの飛んでいけ終着駅。


「人々のや。体でも、心でも。耐え難きがこの地へ流れ、吹き溜る。苦痛はやがて業魔になり、人々に厄災をもたらすんやが。防ぐ為に神社が開闢されたっちゅうことやな」


 誰かがどこかで泣いている。一人で負うには酷な痛哭を、なので神様が肩代わる。


「肩代わり。身代わり。スケープゴートとでもいうべきか、形代が潮神社には必要なんや。ちゅうわけで若くで死んだわたしが、神様に選ばれました。本殿には歴代神の遺骨が祀られとる。わたしのもあんで〜。見とく?」


 痛いの終着。遺体の執着。

「笑えない冗談だ」

「えへへ」


「でもどうして?」

「そんなん、神様がみんなのこと大好きやからに決まっとるやん」

 博愛。慈愛。そして神愛。


 神様は小さな手のひらでもって、僕の頭を撫でてくれた。と思えば、忽然と姿を消した。


「こっちやで」

 同じ声だったから彼女が神様だと気づけた。境内の落ち葉を箒で掃除する、背丈の高いお姉さん。幼稚園の制服は神衣に変わっていた。


「僕が聞いているのは、どうしてあなた一人が苦痛を受けなければいけないのかということ。そんなの可哀想じゃん」


「優しいやん。心配せんでいい。痛みは祈りに似とるんや。ツラすぎれば呪いに転じるが、決して人を不幸にするための代物やない」

 痛みとは心身の不調を訴えるための機能である。


「それを集めるちゅうことは、神様的にうまし糧やと思わん?」

「でも、ひとりぼっちだ」

 みんなを愛して、みんなのために身を捧げて。なのにあなたは一人きり。あまりにもあんまりだ。


「ほんと、優しい。転げた少女に駆け添って、『痛いの痛いの飛んでいけ』って言うてくれたな。嬉しかったんよー。神様なったわたしに、優しい言葉くれたん、おにいちゃんが二人目や」


「二人目?」

「そう、二度目。一人目は、今日の昼前やった」


 神様がまた消えた。次は舞衣を着為し、天照を模した面を被って、舞台上で神楽を踊っていた。


「その子は事故って、生死彷徨うくらいの重体やった。わたしが過酷を引き受けたろう思て近づいたらな、その子言うてきたんよ。『可哀想』やって。死にかけとう自分棚に上げて、能天気なわたしに向かって」


「神様、その子って……」

「うん。おにいちゃんの想い人」


 事故。あの子は事故にあったんだ。だから遅れた。大変なことじゃないか。

 でも、ドタキャンしたわけではなかった。

 心配と安心、反する感情がないまぜになって、出所の知れない涙が溢れた。


「その子は今、わたしのために潮神社の形代になってくれとー。みんなの代わりの、わたしの代わり。ややこし」


 僕の心配を察してか、神様は面を外す。

「大丈夫。まだ生きとる。おにいちゃんをここへ呼んだんはな、意固地なあの子を連れ帰ってもらうためなんや」


 神様がさっと腕を払うと、本殿の御扉が開いた。

 中には白衣を纏い、布作面で顔を隠した子供が寝かされていた。顔を見なくてもわかる、あの子だ。


「神の代わりなんて、生者の身にあまる。続ければ人に戻れんくなる」

 駆け寄ろうとする僕を神様は抱き止める。

「触れたらあかん。あの子は今、俗界の苦痛を一身に受けとる。呪い死ぬで」


 その抱擁があまりにも優しかったもんだから、進む気力を失った。

 どうやら今日の冒険はここまでのよう。


「黄昏。逢魔時が近い、急がなあかんな……」


 神様はしゃがんで、僕と目線の高さを合わせる。紅をさし、白粉で飾るお顔のあまりの綺麗さにドキリとした。


「伝えといて。『君のおかげで久しぶりにたんと遊べた。満足した』って。神様嬉しーて、甘えちゃったけれど。少し街でハメ外しすぎてもーたけれど」

 指さす先には供物じゃないよね!? 山積みの紙袋があった。


「君らが幸せなら、わたし頑張れるから。大丈夫、わたしは神様なんだぞ」

 人の幸せを誰よりも願うから、少女は神様になれた。


 別れの言葉を紡ぐ少女を、無性に愛おしくおもう。なんて健気で、高潔な精神だ。自分ごとのように誇りに思う。


「神様、いつでも会いにきます。僕らは親友なんだぞ、君はもうひとりぼっちじゃない」「人が無暗に神と関わるもんやない。向こうに帰れば、わたしのことは綺麗さっぱり忘れるまじないをかけた。……でも、うん。また会おう。また会える。必ずだ」


 一陣の風が吹く、遠のく意識、白光する世界の先で少女が手を振っていた。


「達者でな〜」


 まぶしくて瞼を閉じる。涙で視界は滲む。意識もぼやける。

 あの子は誰だろう。

 赤の他人だと思うし、気の知れた友人にも思える。


 一つ確かなのは、度を越して優しい子だってこと。


 目が覚めると病室にいた。

 好きな人が唇を噛んで、天井に向かって泣いていた。


「必ず会おう。絶対に忘れないから」

 誓うように、痛みに耐えるように、じっと祈っていた。


 へんなの。病院のアルコール臭に混じって、木漏れ日の香りがしたんだ。


****


 一夏の冒険から四十年がすぎた。

 セピア色に霞むかつてを手探るも、すでに輪郭は淡く朧げだ。


 なのにどうしようもなく、今でも鮮烈に残っている記憶がある。


 あの神社はいったいなんだったんだろう。

 あの少女は何者だったんだろう。


 後日調べて分かったことだが、神崎郡駅も、潮神社も、日本には存在していないらしい。壱川電鉄は廃線になった。僕たち夫婦は歳をとった。


 今さらながら、『白昼夢だったのでは』なんて思う。

 それでも僕たちにとって共通の、代え難き大切な思い出であることに違いは無い。


 大人になると辛いことの連続だ。挫けて、転げて、怪我をする。その度に血を流す。


 でも大丈夫。

 名前も知らない誰かが、『痛いの痛いの飛んでいけ』、今日も祈ってくれているから。

 親愛を知っているから、僕たちは大丈夫。


 未来は苦痛の連続だとも、痛みは祈りに似ているらしい。


 祈りはあの場所への片道切符だ。

 電車一本一時間、一両編成で参ります。一方通行行き止まり、あの子はそこで待っています。


 痛いの痛いの、行ってきます。


「僕たちは一人じゃない」

「そうだね」

「せやな」


 会いたいの会いたいの、まもなく終点。

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痛いの痛いの飛んでいけ 海の字 @Umino777

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