第44話 風と雷 (4)

 僕は窓際の女性のことは一旦胸に秘めて準備に戻り、他の学生や友人と作業を進めた。準備は深夜まで続き、大学を出たのは10時すぎだった。

「トラゾーたちは大丈夫かな」

 暗い夜道を歩きながら呟く。トラゾーがうまく雷さんと風さんの間を取り持っていてくれたらいいけれど。

「ただいまー」

 僕が部屋の玄関を開けると廊下は静まり返っていた。いつもなら玄関の前でトラゾーがちょこんと座って「メシくれ」と言ってくるのだが、今日はそうではないらしい。

「ん……?」

耳を澄ますと部屋の奥から低く野太いいびきが聞こえてきた。寝ているのか。時間的にはそう変ではないが、喧嘩や勝負が続行中というわけではないようだった。

 とりあえず玄関に上がって靴を脱ぎ、廊下を歩いていく。なんか妙に綺麗になっているなと思いながらワンルームのドアを開く。

 そこにはとても片付いた部屋の床で、口を大きく開けながら爆睡する雷さんと風さんの姿があった。トラゾーはキャットタワーのベッドの中で鼻提灯を出しながら眠っていた。

「……なにこれ?」

「おう、帰ったか……」

 どういう状況かよくわからない僕が佇んでいるとトラゾーが目を覚ました。鼻提灯がパチリと割れた。

「ただいま、トラゾー。悪いんだけどどういう状況か説明してくれる?」

「ああ。かくかくしかじかもふもふにゃんにゃんだ」

「それでなんか綺麗になっていたのか……」

 僕は状況を理解する。いくら2人のためとはいえ、おろそかになっていた家事を代行してもらうのはなんだか申し訳なかった。

「それで疲れ果ててみんなで眠っていたと」

「そうだ。特にこいつら昨日は夜通し腕相撲やってたからな。人間の家事なんてやったこともないだろうし、疲れたんだろ。俺も疲れた」

 トラゾーは丸めた体をうーんと伸ばした。実際僕の目にもトラゾーは疲れているように見えた。

「んが……。おお、草太も帰ってきたか」

「ごが? 本当ではないか……?」

 と、僕とトラゾーの話し声で意識が覚醒したのか、2人がムクリと起きあがった。僕やトラゾーのものより大きなあくびをする。

「ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」

「なに、気にするな。それでなんの話をしておったのだ」

「昼間に2人が家事をやってくれた話をトラゾーから聞いていました。すみません勝負とはいえ僕の代わりに……」

 僕が謝ると雷さんと風さんは顔を見合わせて大きな声で笑った。

「なんだそのことか! 気にするな、あれはあれで楽しかった」

「うむ。人の俗事とはこういうものかと色々勉強にもなったぞ」

 2人ははっはっはっ!とさらに大きく笑い、お前はあそこが良かったとかそちらはそこがよくできていたとお互いの良かった部分を褒め合う。それはまるで試合が終わったあと健闘を称え合うスポーツ選手のようだった。

 しばらくすると声が小さくなり2人とも押し黙ってしまった。だがその沈黙は張り詰めた居心地の悪いものではない。気恥ずかしさとくすぐったさの混じったどこか微笑ましい空気だ。

「弟者よ。なぜ俺たちは喧嘩などしておったのだろうな」

 最初に口を開いたのは雷さんだった。

「そうさなあ。兄者よ、俺もなんでそんなことになったかわからなくなっておったわ」

「一緒に汗を流し、競い合うとそんなこともどうでもよくなってしまうなあ」

「まったくその通りよ」

 2人はうんうんと頷く。

「作物に雷と風のどちらがより重要かなど考えるまでもなかった。どちらも必要なものよ」

「そうだな。兄者よ。俺が風を起こし、兄者が雷を呼ぶ。そうして雲を作り、そこから流れる雨が大地を潤すのよ。どっちが上かなど決めるものではなかった」

「おうよ! 俺たちは2人で1人よ。喧嘩は良くない。ここで手打ちといかんか」

「そうしよう。いがみあいはもうよいな」

 そうして兄弟はガッチリと握手を交わした。どうやら収まるべきところに収まったようだ。関係を修復した鬼の兄弟のその姿に僕の口元に笑みが浮かぶ。

「仲直りできて良かったね」

「ま、兄弟は仲が良いほうがいいさ」

 僕がそっとトラゾーの耳元でそう言うとベッドの縁から頭を出した。いつもは少しひねくれた言い方をするのだけれど、今回は素直に喜んでいた。2人になにか思うことがあったのだろうか。

「草太、トラゾー殿。迷惑をかけて悪かったな」

「こうして地固まった。お主らのおかげよ」

 雷さんと風さんは頭をかきながら僕たちにお礼を述べた。

「いえ、今回僕はほとんどなにもできなかったので……」

「なにを言う。落ちてきた俺に服を貸し、メシまで食わせてくれた。それだけでも十分に感謝に値するのだ」

「そうだぞ。トラゾー殿も俺の話に耳を傾け、こうして別のやり口で俺たちの衝突を止めてくれた。その2人に礼を言わずしてなにが鬼よ。せめて礼だけでも受け取ってくれ」

 2人にそう言われては僕も素直にその気持ちを受け取るしかない。

「……兄弟なんだ。もう喧嘩すんなよ」

 トラゾーはそれだけ言った。やっぱり今日のトラゾーは素直だ。けれど少しだけ嬉しそうな声なのは僕にもわかった。

「よし。それでは儀式を再開せねばな」

「うむ。ではいつ頃やるか」

 僕たちの反応に満足した雷さんと風さんがなにかの話し合いを始めた。儀式?

「あの、儀式っていうのは?」

「そうか、そのことは言っていなかったな。俺たちは春夏秋冬にそれぞれ1度、2人で雨乞いの儀式をするのよ」

「空で稲妻と嵐を起こし、雲を生み出し、豊穣の雨を降らす。それが俺たちの役目よ」

「そんなことをしているんですね……」

 風神雷神もかつては悪神としての側面が強かった。凄まじい風を吹かせ、雷を落とし災いをもたらすとして恐れられていた。

 しかし時代が下るにつれて恵みの風と雨をもたらす神として祀られるようになったのだ。農耕と関わりの深い神格と言える。だから2人がそういった儀式を執り行うのもおかしなことではなかった。

「しかし、その最中俺たちは喧嘩してしまってな。儀式は中途半端よ」

「それで変な天気になっていたのかよ……」

 トラゾーがぼやいた。最近の奇妙な天候は雨乞いの儀式がおかしな形で行われていたのが理由らしい。

「だからそれをもう1度やるのよ。今なら最後までやれるはずだ」

「おう。俺たちで恵みの雨を降らせようぞ」

 2人は強い意気込みを見せる。儀式がどういうものかわからないが確かにこの状態ならきちんと儀式を完遂できそうだった。

「いつ再開するんですか?」

「今すぐにでも……と言いたいが、今日はもう遅い。明日の朝だな」

「2人にはそれを見届けてほしい」

 雷さんと風さんは笑顔を向ける。僕とトラゾーは静かに頷いた。僕たちには2人の儀式を最後まで見守る義務があるだろう。

「よし! それが決まればあとはメシだ!」

「そうだな。力を蓄えなければならぬ。なにか食えるものを持ってきてくれるか?」

「そうですね。僕もお腹が空きました。なにか作りましょう」

 2人の要望に応えようと僕はキッチンへと向かう。後ろから「あっ……今は……」とトラゾーが呼び止める中僕は冷蔵庫を開ける。

 ここ数日のために買っておいた食材がすべて消えているのを見て、僕は心の底からの悲鳴を上げた。


 翌朝。まだ日が昇りきらない時間。僕たちの姿は近くの公園にあった。以前暴走していた深蔓みつるさんに遭遇したあの公園だ。朝早いためか僕たち以外に人の姿はない。

 僕は長袖にジーパン。雷さんと風さんは僕の貸した服を着ていた。豊かな筋肉によって服の模様やロゴが伸び切っている。……また着れるかな、これ。

「では行ってくる」

「しっかりと見ていてくれ」

 雷さんと風さんが言うと体が光に包まれた。トラゾーを抱っこする僕は思わず目をつぶって顔を背けてしまう。

 光がおさまるとそこには姿を変えた2人が立っていた。下半身は同じデザインの衣装を身に着け、雷さんは雷太鼓を背負い、風さんは首にたなびく風袋をつけていた。

「これが俺たちの真の姿よ」

「では儀式を執り行おう!」

 先ほどまで着ていた服を僕に渡して2人は空中へと飛び上がった。朝焼けの空に雷神と風神が飛んでいきやがて姿が確認できないほどの高度へと行ってしまう。


 ドッ ドッ ドッ ドッ ドッ ドッ ドッ


 ビュオ ビュオ ビュオ ビュオ ビュオ 


僕たちが首を反らして空を見ていると不思議な音が空から振ってくる。太鼓を叩く音と風が吹く音。

「これは普通の人間には聞こえていないはずだ。風神雷神の儀式音が聞けるなんてそうそうないからちゃんと聞いておけ」

「うん……」

 腕の中のトラゾーが僕を見上げる。言われた通りに僕は耳に神経を集中させた。トラゾーもいつもよりも耳を立てた。


ドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッ


ビュオビュオビュオビュオビュオビュオビュオ


 僕たちが話している間にも2つの音は大きく早くなっていった。空のある一点に小さな黒い点が生まれる。それは渦を巻きながら少しずつ大きくなっていく。

 やがて黒い塊は1つの雨雲になった。重たい雨雲は早朝の秋の空に広がり、街を覆い隠すほどの規模へと成長した。


ドンッ ドンッ ドンッ ドンッ ドンッ ドンッ


ビュオウ ビュオウ ビュオウ ビュオウ 


 空から響く音も変化する。力強く遠く離れた地面をも揺らす轟音。風が集まり嵐になって遥か彼方の大気をかき乱す吹きすさぶ音。それらが混じり合い世界に豊穣をもたらす荘厳な音楽になる。

 雨雲の中で閃光が走った。周りの空気がどんよりとした重圧のあるものに変化したことを肌の感覚で気づく。


ポツ……


 僕の鼻の頭に小さな水の雫が落ちてくる。

 雨だ。そう思っていると地面に雨の雫が落ちはじめ、そのうちに激しい大雨に変わった。

 僕は持ってきていた傘をさす。風といかづちが雲を呼び、強く豊かな雨が街のすべてに降り注ぐ。地面がそれを受け止めて肥沃な土地へと変わっていく。

 突風が植物を揺らし、厳しい自然に耐えられるかを試す。公園の草木がそれを乗り越えるように枝や葉をこすらせたしかにここにいるのだと主張する。それと同じことが街なかのすべてで起こっているはずだった。

 普段なら濡れるのを嫌がるトラゾーはじっと曇天を見上げている。僕も足元が濡れるのを構わずにその場に立っていた。降り注ぐ雨と風に負けないように。


ドオォォォン――!


ビュゴオッ――!


 音楽はクライマックスを迎えた。一際大きな音が空の上で重なり合うと巨大な稲妻が大気を裂き、視界を白く塗りつぶした。


――草太、トラゾー。さらばだ。――

――俺たちは里へと帰る――

――えにしがあればまた会おう――

――その時は此度の礼をさせてもらおう――


 その瞬間に雷さんと風さんの声が頭の中に響いた。

 視界がもとに戻ると、雨足は弱くなっていた。分厚く垂れ込めていた雨雲は薄くなっていき、やがて昇ってきた太陽の光を受けて、朝の空へと溶けていった。

 僕は傘を閉じる。雨粒が濡らした街並みを、太陽の光が染め上げ、白く眩しく輝きを放つ。2人の鬼が戻ってくることはなかった。

「行っちゃったね……」

「そうだな……」

 僕たちは透きとおるような秋空を見上げながらつぶやくように言葉を漏らした。結局あの2人は僕たちがほとんどなにをしなくても、自分たちで問題を解決してやるべきことをやって去っていった。僕とトラゾーができたのは僅かな介入と見守ることだけだった。

「文字通り風とかみなりのような奴らだったな」

「本当にね……」

 僕が苦笑いするとトラゾーは僕の腕をするりと抜けて地面に降りる。まだ雨で濡れた地面の上を。

「帰るか」

「いいの? 足が濡れちゃうよ」

「たまにはいいだろ。今日はそういう気分だ」

 僕が尋ねるとトラゾーはトトトと歩いていく。心なしかその足取りは楽しげで軽やかに思えた。

「あ」

 トラゾーを追いかけようとして、僕は気づいた。僕の声を聞き逃さなかったトラゾーが立ち止まって振り向く。

「どうした?」

「ほら、トラゾーもあれ見て」

 僕が空を指差すとトラゾーもそちらを見る。その目がまん丸になる。黒い瞳には僕が見たのと同じ輝きが映っているはずだった。


 こうして風と雷を司る神は去っていった。

 恵みの雨と空にかかる大きな虹だけを残して。


 

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