燃える列車

草薙流星

第1話

空は溶けた鉛のような分厚い雲に覆われている。


昼の間はここからあらゆる形の建造物が見える。球形、直方体、三角錐を備えた巨大な製造機の手前に、団地群が黙々と押し並ぶ景色。手前のそれは、従業員たちを収納するタンクと呼ぶべきかもしれない。時折列車が、まるで巡回人のように終点のこの街へとゆっくり這入っては、また立ち去って行く。駅から見て団地の後ろに隠れる赤茶けた螺旋階段には、侵入者の目を逃れた人々のあらゆる絶望と憎悪が気化した錆となって吐き出される。


全てが金属細工のこの街には黒い雨が降るらしかった。真っ暗闇に降り注ぐ水の粒は、夥しい音を立てて街中のあらゆる箇所を叩いて回る。駐輪場のトタン屋根や、ベンチや、誰も覗いたりしないような街灯の傘までもが怯えてちぢこまっているようだ。


そんな暗い景色の端に微かにでも運命の光を探すつもりで、私は悄然と窓に顔を押し付けている。何か、何か私をこの暗い世界から連れ出してくれるものはないの?しかし闇はぴたりと街を覆いつくして、身じろぎ一つしない。この闇は私たちが生まれるずっと前、遥か遠い時代に大地から滲み出し、無垢なる異人たちの素足に絡みついたのと同じものだ。


闇は柔らかな皮膚を這い上がり、口と耳を塞ぎ、視界を曇らせ、匂いを殺した。そうして全身の穴という穴から中に入り込んで蠢きはじめる。失われたはずの五感は力を取り戻し、よせばいいのに体内へと反応する。熱く焼かれた箇所は真っ赤に染まり、冷たく塞がれた箇所は青に、終わるはずのない戦いに晒された免疫は黄色に染まる。また一人、黒く濁った極彩色になる。声にならない叫喚が響く。


風に吹かれた雨粒がびしゃりと目の前に飛び散って、ぼんやり窓から顔を離す。目の前の硝子は薄く濁っている。硝子の汚れがついたのか。鏡に映る私の頬も薄い赤色で汚れていた。見ようによっては愛嬌紅みたいだな、と思った。


振り返ると夫はキャンバスにかじりついて背を向けている。首筋と薄い短髪の間からじっとり汗をかくのが見える。扇風機の風がぶつかって、薄いシャツの生地がひらひら動く。あの人はクーラーをあんまり使いたがらない。


「 ねえ、あなた…… 」


「…… 」


「クーラーつけてもいい……? 」


「…… 」


夫は応えない。


手つかずの夕食がインド製のテーブルクロスの上に取り残されている。あのクロスは7年前私が現地で買ってきたものだ。この部屋にある私が持ち込んだものはあれだけだ。テーブルや椅子は夫が通販で買った部品を二人で組み立てた。冷えて固くなった海鮮丼の傍には絵の具や筆や水入れなどの画材が広げられていて、反対側の椅子の前に栓が開いた安物のワイン。半分から向こうは物置替わりに画集が積んであって、その上にサランラップをかけたお皿が置いてある。あの中には色がついた砂が入ってる。夫からは「 学校で使わなかった?」と訊かれたけれど、私は見たことがなかった。それから珍しい硝子製のフィギュアと、3年前に2人で行った鹿島神宮の御守りも置いてあった。


あの人はまだ描き続けている。


新聞は猛反対してとるのをやめさせたから、もう家のどこにも置いてない。最近は私への根拠のない批判や罵詈雑言ばかりが書かれている。誰が読むのよ、あんなもの。思わず眼を閉じて頭を振る。


瞼を開けるとキラキラしたものが視界に映った。あぁ、あれは刀だ。金色の西洋刀。夫が厚紙で作ったミニサイズの刀が何本も壁に飾られている。赤い絵の具で血痕まで塗り付けてある。最初は白かった壁紙にも、金色の綺麗な曲線を描いてしまった。縮小プリントしたルーベンスまで飾られている。壁だけはさながら王室のようだ。


床は、あんまり、見たくない。ひび割れたアバタのヴィーナスの傍に割れたグラスが掃き寄せられたままになっていて、あとは空のワインが並んでるだけだ。


不意にピッという電子音が耳に響いて部屋が暗くなった。あの人が描く手を止めて電灯のリモコンを操作したらしい。「 光の加減で絵画の見え方が変わるから 」と言って油絵を描くときは毎回やるのだ。狭い部屋に広げられたたくさんの物が、青白い光に照らされ反転して見える。


「ねえ、あなたが油絵を描くなんて久しぶりじゃない? 」


「…… 」


夫は応えない。


どうしてこうなってしまったのだろう。私がなにか間違えたのだろうか。だけどこの部屋にあるものは、クロスを除けば全部夫が自分で用意したものだ。テーブルも椅子も、安物のワインも、冷えた出前も、何もかも。


ギィ……


(? )


木がきしむ音。なんだろう? 扉が開いている。またキツツキだろうか?


ちがう、大きな鈴をつけた金色の猫が扉の影から部屋に入ってきているのだ。真ん丸の瞳が私の視線を受け止めている。思わずぎょっとしてしまって、どうすればいいのか分からなくなった。


「 あなた、たいへん。猫よ、猫が入ってきたわ 」


「 あ…… あ…… あぁぅあ…… 」


金色の猫は私を見つめながらひたひたと部屋の中に入ってきた。


「 ねえ! 猫だってば!ほら、あなたの足元にいるでしょ! 」


「 あぁうぁあぅぁぁあ! あぁぅうぁぁあぁぅうあぁぁ…… 」


「 ねえ!あなたってば!聞こえないの?気味が悪いのよ、追い出してよ。ねえ、少しは部屋の中に気を配ってよ、殆どあなたが持ち込んだ物なのよ。ねえ、ねえってば! あぁあ…… もういや。もうたくさん。私いやよこんなの! 」




ギィィィィィィィィィィィィィィィィィ




聞き覚えのある耳障りな音が扉から鳴り響いた。冷たい汗が背中を流れ落ちるのがはっきりわかる。



うんざりした顔で音がした方を見ると、いつもの怖い鳥よりずっと大きな何かが目の前を垂直にかすめ、ドスンと鈍い音をたてて横の壁に激突した。何が起きているのか理解できず、少しのあいだ思考が止まる。きっといつもよりよくないことが起きたのだという、絶望的な予感が胸を覆う。


何秒か立ち止まってから、私はゆっくりと壁に身体を向ける。


残念なことに、私が実際に見ていたのは頭で思い描いたよりもっと恐ろしい光景だった。それはカジキだった。巨大なカジキが、薄緑色にぎらつく身体を空中でくねらせていて、上顎がミニチュアのルーベンスの自画像に突き刺さっていた。私は今度こそ完全に思考を失った。


扉が弾け飛ぶ音がした。冷たいものがひらひらと部屋中に舞う。天井いっぱいの津波が押し寄せてきて気が付けば部屋は水没していた。生温い水が全身を濡らす感触で私は我に返る。


ほんとうに、よくないことというのは立て続けに起こる。瞼を閉じる暇さえなかったが、不思議と目は痛くない。巨大な影が動いたような気がしてハッと目を凝らす。


ああ、最悪。最悪だ。何匹ものカジキが青白く光る部屋の中を泳いでいる。薄緑色の身体をギラつかせて。そのうちの一匹が私めがけて真っ直ぐ近づいてきて覆いかぶさった。


「 う わ あ 」


手に持っていた何かで無我夢中に殴りつける。幸い、グラスが割れたような音がしてカジキは動かなくなった。



怖かった。なんでこんなところにカジキがいるんだろう。何が起きているのかわからない。


身動きが取れないのでひとまずどけようとすると、硬いものが手に触れた。見るとカジキの背中に黄金の剣が突き刺さっている。夫が作った西洋刀だ。紙細工のはずなのに、力を込めてみてもびくともしない。紛れもなく金属の手応えがする。さらによく見てみると、細かく動いている。血が煙のように噴き出して、刀身が少しずつ露になっていく。


突然刀がカジキの背中から抜けて、空中で動き回ってから、私の頭に真っすぐ落ちてきた。呆気に取られていると、目の前をカジキの身体が通過する。鈍い音が鳴って、さっき私に襲い掛かってきたカジキが落ちてくる刀を咥えた。刀は口の中で暴れまわり、それをカジキは噛み砕こうとしていた。


パキンと乾いた音を立てて剣が折れた。折れた剣先が勢い余って喉の奥に突き刺さったのか、カジキは口から大量の血を吐いている。暫く尾びれをばたつかせていたが、やがてがっくりと力尽きて死んだ。


動かなくなってみると、普通のバショウカジキのようだった。スーパーとかでカジキマグロなんてよくわからない名前で売ってるやつだ。切り身は馴染みがあるけれど、実物は図鑑や誰かが釣り上げた写真とかでしか見たことがなかった。本当に上顎が突き出ているんだ。剣はなんだったんだろう。紙なのに金属みたいに硬いのもおかしいけれど、ひとりでに動き回ってるみたいだったな。


キンッ キンッ キンッ キンッ


今度は金属がぶつかり合うような音がして、振り返ると、部屋の中で無数の剣が闘っている。どれも夫が厚紙で作った黄金の西洋刀だ。偽物の剣が持ち手もいないのに動き回り、それをカジキたちが上顎を器用に使って応戦していた。


本当に何が起きているんだろう?


とりあえず、闘いはカジキたちが優勢なようだった。丈夫でよくしなるカジキの上顎とぶつかり合うたびに、刀身は少しずつ砕け、ぼろぼろになっていき、最後には折れてしまう。


その中で一本だけ優勢に闘っている剣があった。見たことがない剣だ。それは金色ではなく、茶色で分厚くて脆そうだった。RPGゲームとかで主人公が最初から装備している武器のように見える。だけどカジキの上顎をまともに弾き返しても刃こぼれしない。


黄金の剣が全て折れ、茶色い剣だけが残された。3匹のカジキが最後に最後の一本の周りを囲うように泳ぎ回り、次々と攻撃を浴びせる、茶色い剣はなんとかそれをはじいているが、戦況は絶望的に見えた。


まずいのは残りの2匹のカジキが、私の方へ向き直って攻撃態勢に入っていることだった。


私が何をしたというんだろう。この部屋にいたのが悪いのだろうか。この部屋を契約したのも私じゃなくて夫だ。夫とは広島の平和記念公園で出会った。ベンチに腰掛けて空を眺めていたら、「 今日は冷えますねえ 」と声をかけられた。私は何よりも戦争が嫌いで、そういうところがあの人と波長が合って話が弾んだ。あの人はパワフルプロ野球が大好きで、家でデートするときは二人でよく選手を育てた。私がダイジョーブ博士に依頼するといっつも失敗して選手の能力が下がるんだ。


片方のカジキが鋭い上顎を真っすぐ突っ込んでくる。もうだめだ。


諦めた瞬間、後ろから茶色い剣がカジキの頬を切り付けて私の手にすっぽりと収まり、襲い掛かってきたもう片方のカジキの上顎を払いのける。


また信じられないことが起きた。この剣はなんなんだろう。剣というのは金属の塊だから、重いに決まってる。それなのに目の前の茶色い金属の塊は驚くほど軽く、重さを感じなかった。それだけでなく、手に収まった瞬間から水中とは思えないほど簡単に身体が動く。まるで10代の頃に戻ったように全身にエネルギーが漲っていた。


カジキたちはゆっくりと部屋を泳ぎ回りながら、次の動きに向けて準備を進めている。一斉攻撃の態勢は整いつつあるようだ。初期装備みたいな不格好で茶色い剣が腕の先できらりと光る。泣きたくなってきた。


「 なんだっていうの、なんだっていうのよ。なんで私が真夜中にこんな剣で得体の知れないカジキたちと一戦交えなきゃいけないのよ 」


5匹のカジキたちが呼吸を合わせて襲い掛かってくる。あんなに元気だった身体から血の気が引いて、腕がマネキンみたいに動かない。殺意に満ちたカジキの顔が視界いっぱいに広がる。


猛烈な力で全身を弾き飛ばされる感覚がした。足がなすすべもなく浮き上がって頭が何かに引っ張られる。不思議と痛みはない。


見ると、目の前のカジキたちも同じように弾き飛ばされている。狭い部屋を満たす水が狂ったように回転して渦を巻いているらしい。


もうわけが分からない。信じられないような力で部屋中のものが引きずり回されている。私は反射的に「 鯨だ! 」と叫んだ。カジキも、剣も、画集も、何もかもがいっしょくたに混ぜ合わさっていく。


ああ、今度こそ死ぬんだ。なにもかもがめちゃくちゃになって、真っ暗になって死ぬんだ。身体が引き延ばされて、手足がちぎれる予感がした。




「 うわあああ! 誰かああー! たすけてえええええ きゃあああああああああ 」




「 うるさい 」




誰かの声が聞こえて、気が付くと水が消えていた。青白い電灯が、狭い室内をぼんやり照らしている。カジキたちも、茶色い剣も消えていた。金色の剣も画集も、いつもの位置で元通りになっている。


「 ……へ? 」


呆然として体の力が抜ける。手にしていたグラスが足に落ちて転がった。ひび一つ入ってない。おかしい、最近幻覚みたいなものをけっこう見るけれど、終わった後いつもならグラスは粉々に割れている、しかも、さっき見た猫が何食わぬ顔でテーブルの上に座りながら目をつむって首の横を後ろ足で掻いている。私は今までいったい何を見ていたんだろう?


「 あなたのしわざなの? 」


「 …… 」


金色の猫はにゃあともすんとも答えずに私の顔を通り越して窓の外を見ている。


「 ねえ 」


「 …… 」


はあ、もう何か月もまともな返事をしてもらえてない気がする。人から無視されるのが私の運命なのかしら? 目の前にいるのは人ではないけれど。


それにしても黒猫は熱心に何かを見つめているようだ。なんとなく私も振り返って窓の外を見る。雨は止んでいた。濡れたアスファルトが外灯の光にきらきらと輝いている。なんだろう? 光に照らされた夜道を人々が走り回っている。


ルーベンスの上にかかった銀時計が午前二時の報せをカチリと打つ。




「………… 燃えている…… 駅が、線路が燃えている…… ああ……列車が燃えている。あなた、列車が燃えているのよ。運んでいた燃料に火が付いたんだ」


「 …… 」


「 あぁあ!なんてこと、車輪が、車輪が動いている。動くはずのない車輪が……なんてこと、なんてこと、なんてこと…… 」


火の海に包まれた列車の下で、真っ赤に焼けた車輪が震えるように動いている。列車が、列車が行ってしまう。


「 あぁうあー! 」


夫が叫んで勢いよく立ち上がる。椅子が驚いたように倒れた。


「 描けた? 何を言ってるの、あなた、車輪が動いているのよ、信じられる? ほら、私とあの列車に乗るの、絵が何だって言うのよ、早く、急がないと間に合わなくなるわ! 」


私は夫のシャツをひっつかんで半開きになった扉の前に連れ出した。よたよたと倒れ掛かる夫の腕を肩に回して支える。急がなければ。列車が、列車が行ってしまう。


腹に力を込めて、扉を開けて外に一歩踏み出す。早く、早く、駅に行くんだ、乗るんだ、あの列車に。遠くまで、次の燃料のある街まで、光が射す街まで。


「 うーーーーn…… 」


背後から聞こえた声に驚いて振り返ると、金色の猫がテーブルの上から夫の描いた油絵をじっと見つめている。




「 下手…… 」




落ち着いた大人の声で、猫が呟いた。

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燃える列車 草薙流星 @kusanagiryuusei

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