風船と男
佐藤柊
風船と男
そこに男は立っていた。
そこは白い靄が立ち込め、それでいて明るく、何も無い。ただ真っ白で不可思議な所だった。
「ここは何処だ?」
男は辺りを見渡し注意深く目をこらした。靄のせいか、何となく息苦しい。
男は、毎日着ているようなヨレヨレの紺のスーツを着ていた。ワイシャツは第1ボタンを外し、エンジ色と紺色の斜めストライプのネクタイをだらしなくしており、靴は磨いた事など無いように汚れている。
男は少し離れたところに、黒い板のような物が立っているのに気付いた。それは少しずつ姿を現し、最終的にドアになった。靄がそこだけ晴れたのか、男の目が慣れてきたのか分からない。
(ここから出られるのだろうか?)
男はドアの様子をみていた。ドアが音もなく少しずつ開いた。するとそこからピエロが現れた。男はギョッとした。
ピエロは黒と白のストライプの帽子を被り、ズボンが白と黒のストライプの燕尾服を着ていた。ミッキーマウスのような大きな黒い靴を履き、ドアから何か大きなものを引っ張り出そうとしている。その様子はコミカルで、まるでパントマイムのようだが、どこか不気味で笑えない。
ピエロがやっとドアから取り出したのは風船だった。街で子供達に配っているような色とりどりの風船の束。ピエロは浮かぶ風船に紐を繋いだ束を白い手袋をした左手で持ち、男の方へコミカルな歩調で近付いてきた。
男が怪訝な顔で様子を見ていると、ピエロはまだ膨らんでいない、新しい赤い風船を男へ差し出し、膨らますようジェスチャーをした。
「俺に膨らませって?」
男の問いにピエロは2回頷いた。
男は赤い風船を膨らませた。思い切り息を吐き出したからか、胸が苦しくなった。
(これだけで息苦しくなるとは。情けない)
男は自分が膨らませた風船をピエロに手渡すと、ピエロはあっという間に紐を繋ぎ、頭の上に風船をフワフワ浮かばせた。そして、その赤い風船を繋いだ紐を男へ差し出し、男は右手で受け取った。
「これはもう1つのあなたです」
男の頭の中で声がした。
「え!?」
男が驚いて辺りを見渡すが、目の前にピエロがいるだけだ。
「これを離すとあなたは死にます」
ピエロは話していない。声は直接頭の中に響いているようだ。
「はなさないで」
そしてピエロの姿がドアの中に消えると、ドアも消えた。
男は、気が付くと横断歩道の真ん中に立っていた。人々が男を怪し気に見ながら行き過ぎる。
(中年の男が赤い風船を持ち突っ立っているのだ、そりゃそうなるだろう)
男は自分の思考にハッとして、自分の右側に赤い風船がフワフワ浮いてるのを見て驚いた。
信号が点滅した。男は急いで横断歩道を渡った。
(あれは夢?でも風船は現実…これは…なんだ?)
混乱した思考と共に男は歩き出した。人々が小走りになり出した。
雨だ。
風船に雨が当たる。
男は小走りで近くのデパートに駆け込んだ。
デパートに入ると、男はボサボサの白髪交じりの頭をブルブル振るい、雨粒を飛ばした。近くにいた高齢の女性が顔をしかめた。
入口の自動ドアを抜けると、着ぐる
みのクマが子供に風船を配っている。男が通り過ぎようとすると
「すいません、風船はお子様限定です」
クマが男に声をかけた。
「え?あ、これは私の風船なんです」
男が慌てて答えた。
「あのおじちゃん、ドロボウ!」
近くにいた子供が男を指差し叫んだ。すると周りにいた人々が一斉に男に注目した。
「違う、違う!」
男は急いでデパートを出た。
雨は土砂降りに変わっていた。男は左手に持っていた鞄を頭に乗せた。その拍子に鞄が風船を突いた。男は鞄を頭に乗せるのをやめた。
(そういえば、仕事の途中だった)
男は自分が鞄を持っていることを忘れていたようだ。男は歩道の隅に移動して鞄を足元に置き、風船の紐を左の手のひらに3重に巻き付け胸のところで赤い風船を抱いた。
(あったかい…)
不思議なことに、赤い風船は体温があるかのように温かみがあった。そしてトクントクン、と脈打つかのような音と振動がある。
(生きてるのか…)
男はスーツの上着を脱ぐとその風船を覆って抱いた。
ドン!
突然、背後から物凄い衝撃を受けた。男は咄嗟に風船を庇うように身体を捩って、肩から地面に倒れた。知らない若い男が走り去る様子が見えた。その手には男の鞄を持っている。
「あ、鞄!オレの!ちょっと!」
若い男の姿はドンドン小さくなり、やがて見えなくなった。鞄には財布も携帯も入っていた。それよりもまずいのは会社の書類だ。これから得意先に届けるはずの重要書類が入っている。
「会社に連絡しないと…」
立ち上がった男はポケットを探った。小銭がいくらか見つかった。公衆電話を探そうとキョロキョロ辺りを見渡しながら走った。倒れた時に打った肩と腰が痛む。走ったせいか脇腹も痛み、胸が苦しい。
男の足が止まった。
(こんなずぶ濡れで、転んで汚れて、しかも風船を抱いた男が営業に行ってどうすんだ…)
男は走るのをやめた。
男はトボトボ歩き出した。
(会社、首かなぁ…。どうせ首になるならどっか遠くへ行こうか…)
男は駅に向かうことにした。
(持っている小銭で行けるとこまで行こう)
男は駅で料金表を眺めた。
(なるべく人気のない路線。なるべく田舎。なるべく遠くに…)
男は切符を買った。
列車が動いた。
男が乗った車両は、男性客が2人と、親子連れが1組しかいなかった。男はシートには座らず、風船から上着を外し、右腕に上着を掛け、右手でドアの手すりを掴んだ。
しばらくすると、小さな女の子がそばに来た。男が下を向くと
「風船ください」
女の子は手を差し出し、男に言った。
男が親子連れの母親の方に目をやると、母親は笑顔でこちらを見ていた。
「この風船はあげられないんだ。ごめんよ」
男が答えると、女の子は悲しそうな顔で母親の方に戻って行った。そして母親の前まで来ると、大声で泣き出した。
母親は物凄い形相で男を睨んだ。
「あの人ね?あの人に泣かされたのね?」
車両の中で母親の声が響いて、他の客の目を引いた。男はギョッとした。
母親は通りかかった駅員に男を睨みながら話しかけた。
「あの人がうちの子を怒鳴りつけたんです!風船が欲しいと言っただけなのに!あんなの持ってたら、子供なら皆欲しがるの当たり前じゃないですか!」
駅員が男に近づく。
「私は何もしてません。ただ、この風船はあげられないと言っただけです。怒鳴りつけてなんか…」
男は慌てて駅員に言った。
「どうしてダメなんですか?いい大人なんだから、子供にあげたらいいでしょ。相手は子供なんだから」
駅員は男に迫った。自分の命がかかってるなんて、信じてもらえるはずが無い。
列車が駅に到着した。男は咄嗟にドアを開け、飛び降り、ホームを横切って反対車両に飛び乗った。
(はぁ、はぁ、走ると苦しくなるんだよな…運動不足か)
男は駅に降り立った。無人駅のようだった。雨はすっかりあがって、日の光が心地よかった。男はあてもなくトボトボ歩いた。
公園があった。誰もいない公園だ。
(丁度いい。休もう)
男は公園のベンチに腰を下ろした。
左手に巻いていた風船の紐を解いてみた。すっかり紐の跡が付いている。男は風船の紐を右手で握った。
男はフワフワ浮いている赤い風船を眺めた。
(美代…)
本当にこの風船を離すと死ぬのかなぁ。死んでもいいかな。どうせ仕事しかすることないしな。別れた女房に養育費支払う為に働いてるだけだ。美代に会わせてもらえるわけでもない。いつか会いに来てくれるかも、と思ってたけど、母親から悪口聞かされてたら来ないだろうな。…金を稼ぐ事がオレの責任だと思っていた。生まれた美代を抱いた時、絶対に守らなければと思ったんだ。何不自由なく暮らせることが幸せだと思ってた。だから必死で働いた。家族が寝ているうちに会社に行き、寝静まったあとに帰宅した。休みの日は接待を優先し、空いた日は身体を休ませる為に使った。そうすることが家族のためだと思ってたんだ。女房に三行半を突き付けられるまでは…
オレの保険の受取人、美代になってる。死んだら気付いてくれるだろうか…
男の手から風船の紐がスルスル抜けていった。
「あ!」
男は慌てて掴もうとしたが、赤い風船はフワフワと空に上っていく。
(なんだ。死なないじゃないか)
男は上っていく赤い風船を眺めた。風船は太陽に向かってだんだん小さくなっていく。
男は眩しさで目を閉じた。
「ダメだな」
医者がペンライトを患者の目に当てながら呟いた。医者の言葉を合図に医療器具が次々外されていった。
医者は手袋を外しながら電話をかけた。
「あー、もしもし?先程運ばれてきた患者ですが….ええ 急患の、横断歩道ではねられたという男性…はい、そうです。死亡しました。はい…肩と腰の打撲の他、内蔵の損傷が激しくて、中でも折れた肋骨が肺に刺さって出血が酷くてですね…わかりました。では後ほど、お願いします」
風船と男 佐藤柊 @d-e-n
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