あるのは狂気だけ

「では、麗子様、そろそろ準備いたしますね」

 アサミと呼ばれた女はそう言うと、暗がりに向かって小さく手を上げて見せた。すると、奥の暗がりから、一人の男がコの字型の器具のようなものを運んできた。

 奇妙な形をした器具は、アルミ製らしき細長い板に、三つの丸い穴が空いていた。まん中の穴がいちばん大きく、左右の穴はテニスボール大の大きさだ。板の両端にそれぞれ一メートルほどの長さのポールが付いていて、ポールの先にはT字型の金具が付いていた。

 器具の形状から、用途はすぐに察しがついた。おそらく、人の首と手首を板に挟んで、身動きを封じるためのものだ。

 予想通り、コの字型の器具は美穂のそばまで運ばれ、穴の空いた板が二つに分割されると、美穂の首と手首を挟むようにして板はまた一つに結合された。この間美穂は、まったく抵抗の意思を示すことはなかった。

 板の両端に付いていたポールが地面に垂直に置かれると、ポールの先端に付いていたT字型の金具が、電動ドライバーによって地面にネジ止めされていく。電動工具が鳴らす不快な音が倉庫内に響き渡る。

 ネジ止めが完了すると、美穂は地面に尻をつけた状態で完全に身動きをとれなくさせられた。彼女は実に弱々しい視線をこちらに向けてきたが、拓海はその視線を長くは受け止められなかった。

 続いて、ステンレス製のカートが押されてきた。カートの上には、あらゆるアダルトグッズが置かれていた。大小さまざまな電動バイブを見て、拓海は目がくらみそうになった。このあと美穂が何をされるかは容易に想像がついた。

 麗子が笑みを浮かべて言った。

「拓海さん、あなたの彼女さんを、どうしようかアサミさんと相談したんだけど、とりあえずあなたの見ている前でレイプさせようと思うの。それも徹底的にね。容赦ない感じでやってもらうわ。彼女さんが壊れるまでね」

「そんな……」

 わかってはいても、言葉にされると現実味が増して胃がよじれそうになった。

 ここでアサミと呼ばれる女が、再び、奥の暗がりに向けて合図を送った。

 すると、暗がりから、裸の男が十人ほど現れた。

「ああ……」

 思わず悲痛な声が漏れた。拓海は彼らを見て、絶望的な気持ちになった。

 男たちは三十代から四十代くらいの年齢層で、黒い下着しか身につけていなかった。風貌からして、風俗でしか女を抱いたことがなさそうな者ばかりだった。脂肪でたるんだ体つきをしている者が目立ち、頭髪が乏しい者が多かった。中には完全に禿げ上がっている者もいる。変態という形容詞がぴったりの男たちだった。

 風貌以上に不気味だったのは彼らの目だった。爬虫類を思わせる、無感情な目をしていた。おそらく彼らは何のためらいもなく、人を傷つけることができる連中に違いない。男たちは興味津々しんしんといった様子で、ねっとりとした視線を美穂に向けている。

 麗子はというと、男たちの登場に手を叩いて喜んでいた。

「わあー、いい感じー。いかにもって感じの人たちが集まってくれたわね。これなら充分期待できそう。ふふ。拓海さん、あなたの彼女さん、本当に壊れちゃうかもね♪」

 見た目が白豚みたいな連中に、美穂がどうにかされるのかと思うと発狂しそうになった。気づくと声を上げていた。

「麗子、頼む! 彼女は関係ないんだ! 頼むから彼女だけは見逃してやってくれ!」

 懇願の言葉に、麗子は冷笑を浮かべて答えた。

「関係ないわけないじゃないの。あなたと佐藤さんほどじゃなかったにしろ、彼女さん、あなたの計画に全面的に協力してたじゃない」

 麗子の冷笑を見て、美穂だけは助けたいという願望すら叶いそうもないと思った。美穂に目を向けると、彼女の腰回りに水たまりができていた。どうやら失禁したらしい。

「あら、彼女さん、お漏らししちゃったみたいね。それもそうよね。わたしですらこの人たち不気味ですもの」

 男たちは目の前で侮辱されても、いやな顔一つしていなかった。むしろ、気味悪がられていることを喜んでいるようにも見えた。きっと本物の変態なのだろう。また興奮してきたせいなのか、白くて醜い体から体臭が立ち昇りはじめていた。彼らの獣じみた体臭でむせそうになる。

 アサミと呼ばれた女が、麗子に申しわけなさそうな顔をして言った。

「あの、麗子様、実はですね、前に十人用意すると伝えてたかと思いますが、急遽一人だけ、体調不良で参加できなくなった者がおりまして」

「問題ないわ。九人でも十人でも同じよ」

 麗子の言葉に、アサミと呼ばれた女はほっとした顔をして見せた。

 それから女は麗子に向かって説明をはじめた。

「こちらの者たちは、おもに違法なポルノ動画に出演しているプロの男優たちで、本物のレイプ動画を主戦場にしている者たちを集めました。まあ顔つきを見てもおわかりの通り、真のアブノーマルな者たちですから、きっと麗子様の期待に応えてくれると思いますよ」

「ええ、間違いないわね。もう見た目からして、いい感じですもの。やだ、わたし、このシチュエーションに興奮してきちゃった。かなり上がってきてるんですけど」

 麗子のテンションが妙な感じになってきていて、拓海はますます絶望的な気持ちになっていく。

 この間、美穂は、放心したように虚空を見つめていた。この状況をまだ、受け入れられずにいるのかもしれない。もしくはすでに受け入れており、あきらめの境地にいるのかもしれない。

「沢尻さん、アサミさんから許可はもらってるから、あなたも彼女が陵辱される様子をスマホで撮影したらいいわ。こういうの、嫌いじゃないでしょ?」

「ええ、そうですね」

 沢尻は表情を変えることなく答えた。

 麗子がこちらに向き直ると言った。

「拓海さん、そろそろはじめましょうか。で、いい? 今から大切な注意事項を伝えておくわ。当然あなたは、レイプされるとこなんて見たくないわよね。でもそれじゃ、罰ゲームにならないでしょ。だからいい? よーく聞いてね。あなたが目を閉じたり、顔を背けるたびに、彼女さんの首に高圧電流が流れるから。見てて」

 麗子はそう言うと、隣に立つ沢尻に小さくうなずいて見せた。すると沢尻が、右手に持っていた何かを親指で押した。

 次の瞬間、美穂の首から耳障りな電子音が鳴り響いた。すぐに彼女は悲鳴を上げた。

「やめろ! やめろ! やめてくれー!」

 拓海は声の限りに叫んだ。

 数秒後、電子音が止まると同時に悲鳴も止んだ。美穂は白目を剥いて頭をけいれんさせている。口からは泡が噴き出ていた。

「わかった? もう一度言うけど、あなたが顔を背けたり目を閉じたりすると、彼女さんが痛い思いをするから。それがいやなら、目を離さないことね」

 拓海はすでに、謝罪する気力すらも残っていないことに気づく。残っているものはといえば、絶望感だけだった。

 麗子が下卑た笑みを浮かべながら続けた。

「あともちろん、避妊なんてしないから、妊娠する可能性もあるわね。むしろそれを期待してるんだけど。彼女さんにはここでしっかり妊娠してもらって、元気な赤ちゃんを産んでもらうの。拓海さん、あなたの子どもじゃなくて、あのちょっとキモい人たちの誰かさんの子をね。どう? これって最高の罰ゲームだと思わない?」

「異常だ。異常すぎる……」

 思わず口から非難の言葉が漏れた。ところが、麗子は腹を立てる様子を見せなかった。

「異常? そうね、そうかもしれないわね。少しは自覚してるわ」

「麗子様、そろそろ、はじめましょうか」

 アサミと呼ばれる女に、麗子は微笑を浮かべてうなずいた。

 と、そのときだ。すさまじい爆音が響き渡った。壁か扉かが爆破されたような音だった。続いて、騒々しい振動が重なった。音がするほうに目を向けると、暗がりから男たちがなだれ込んできた。自動小銃を手にした機動隊員のような集団が威圧感たっぷりに登場すると、続いて背広姿の男たちがあとに続く。総勢で二十人くらいか。

「動くな! 警察だ!」

 拳銃を構えながら背広姿の男が叫ぶ。突如現れた男たちによって、この場はあっという間に制圧された。場の空気は一瞬で様変わりした。

 拓海は呆然としながら成り行きを見守った。見ると、アサミと呼ばれる女が焦った顔をしていた。クールな女が動揺している姿は滑稽に映った。沢尻も同様だ。彼は麗子を守るように彼女の前に立っていたが、落ち着きのないように視線をあちこちに泳がせている。常に冷静沈着だった男でも、この状況下では平常心ではいられないようだ。彼の背後にいる麗子はというと、驚いてはいるが、この状況を面白がっているようにも見えた。

「ここに警察が来たわ! 今すぐすべてのデータを消去して!」

 アサミと呼ばれる女がスマホを耳に当てて、叫ぶような声で指示を飛ばしていた。かなり切羽詰まった表情をしている。

 下着姿の男たちも当然動揺していた。今しがたまで醜悪な視線を美穂に向けていただけに、彼らの狼狽ぶりは見ていて小気味よかった。そんな中、下着姿の男の一人が、刑事たちとは反対方向に走り出した。他の者たちも、慌てた様子でそれに続こうとする。

 次の瞬間、耳をつんざく銃声が庫内に轟いた。刑事の一人が、天井に向けて発砲したのだ。鼓膜が破れるのではないかと思うほどの爆音だった。銃声にたじろぎ、男たちの足がいっせいに止まる。銃の効果は絶大だった。彼らは銃を持つ刑事を怯えた目で見る。その姿はまるで、屠殺を待つ家畜のようにも見えた。

 刑事の一人が麗子に向かう。彼女の前に立つ沢尻が、不承不承といった顔で刑事に場所を譲った。

「新庄麗子だな。誘拐の容疑で現行犯逮捕する」

 刑事が手錠を見せた。麗子は苦笑しながら両手を前に出した。

 拓海は手錠を掛けられる麗子を呆然としながら見つめた。銃声による耳鳴りは、いまだ続いていた。

 麗子以外の者たちは、一か所に集められた。沢尻、ビデオカメラを手にしていた者、アサミと呼ばれる女、それと彼女の部下らしき黒服の男たちが数名、そして下着姿の変態たちだ。機動隊員が彼らの周りを取り囲んでいる。機動隊員たちは、自動小銃の銃口を床に向けていたが、いつでも発砲できるようにと気を張っているようにも見えた。

 刑事の一人が、吊るされている佐藤のもとに歩み寄っていく。刑事は佐藤の股間を見てすぐに視線を外した。刑事の顔は苦悶に歪んでいた。それは当然だろう。あんなものを見て平気でいられるわけがなかった。

 美穂はというと、彼女は天井を見上げながら涙を流していた。

 拓海は今の一連の出来事に、脳が追いつけないでいた。展開があまりにも急激すぎたからだ。

「助かった……のか?」

 ここで麗子と目が合った。

 麗子が苦笑まじりに言った。

「拓海さん、あなた意外と、強運の持ち主なのね」

 敗北宣言ともとれる彼女の言葉に、胸の底から安堵感が湧き上がってきた。本当に助かったようだ。そんな中、屋内に高い声が響き渡った。

「はっはぁ! ざまあみろ! お前はそのまま、刑務所でくたばればいいんだ!」

 佐藤が吠えていた。この状況に、息を吹き返したらしい。どうやら罵倒だけでは飽き足らないらしく、麗子に向かって唾も吐きかけてる。それも当然だろう。彼は男のいちばん大切なモノを奪われたのだから——。

 足首の怪我はいずれ治る。しかし、切り取られた陰茎は二度と元には戻らない。命は助かったはいいが、彼は残りの人生を、生殖器のないまま生きていかなければならないのだ。まともな性交渉はおろか、放尿にも苦労することだろう。ならば、このままここで殺されていたほうがマシだったのではなかろうか——。

「お前らよぉ! 何突っ立って見てんだよぉ! 早くおろせよぉ! おろせって言ってんだろぉ!」

 今度は刑事らに向かって罵声を浴びせていた。刑事たちも、固く結ばれた鎖を見て、どう下ろせばいいのか思案に暮れている様子だ。

 刑事の一人が、スマホを耳に当てて救急車を要請していた。

「はい。三台寄越してください」

 救急車の要請を終えた刑事が、拓海の背後に立った。背中側に回されている両手の拘束を確認している。

「もう少し我慢してください。切断する道具を用意させるんで」

 拓海は力なく刑事にうなずいて見せた。

 視線を美穂に移す。彼女は生気のない目で虚空を見つめている。まるで電源が落ちたテレビのように、単なるとして存在しているかのようだった。

 刑事たちが美穂を拘束している器具を確認している。外すためには工具が必要なのかもしれない。早く美穂のそばに駆け寄りたかった。

 佐藤はいまだ吠えまくっていた。だが、どうやら、体が揺れるたびに激痛が走るようで、苦痛の叫びをたびたび上げている。彼と共謀して麗子を殺そうとしたことは、いずれ明るみになるだろう。だが、罪に問われたとしても、麗子の罪よりは軽いだろうと思った。彼女は佐藤のペニスを切り落としているのだ、軽い刑では済まないはずだ——。だが、どちらにせよ、今は命が助かったことを素直に喜びたかった。

 麗子が二の腕を刑事につかまれながら連行されていく。その様子を目で追っていると、彼女は腕をつかむ刑事に何やら話しかけた。そして刑事が渋々といった様子でうなずいたかと思うと、麗子と刑事が並び立ってこちらに向かってきた。

 麗子は手錠を掛けられながらも、内面からにじみ出る神々しさがあった。生粋の資産家令嬢ならではの高貴さだろうか。彼女の佇まいに畏怖いふの念を抱かずにはいられなかった。

 彼女が目の前に立ち、何を言われるのかと少し身構えた。

「拓海さん、今どんな気持ち?」

 そう聞かれても、言葉が出てこなかった。今は何とも形容しがたい気持ちだった。助かったのだろうが、椅子に縛られた状態では手放しには喜べなかった。

 彼女の顔に悲壮感はなかった。黙っていると、麗子は手錠の掛かった両手を掲げて言った。

「あーあ、わたし、こんなのつけられちゃった……。でもまた、すぐに会えると思うわ。すっごい優秀な弁護士をつけて、無罪を勝ち取るの。だってあなたは佐藤さんと二人して、わたしを殺そうとしたんですもの。ある意味、正当防衛だと思わない?」

 確かにそうかもしれない。隠し撮りされた映像が山ほどあるのだ、殺害を企てた証拠は掃いて捨てるほどあるに違いない。麗子側にとってそれが有利に働きそうだ。それに、遺産目的での結婚のほうが陪審員の受けは悪いに決まっている。だからあながち、麗子が無罪になる可能性はゼロではないと思えた。むしろ、今の麗子の自信に充ちた顔を見ていると、確実に無罪を勝ち取りそうな気がしてしまう——。

 そんなことを考えていたところで、そこまでだ、と刑事が言って、麗子の腕をつかんで連れていこうとした。

「あ、待って、最後に一言だけ」

 麗子は強引に踏みとどまると、招き猫のように手を上げて見せた。彼女の手に、赤いボタンのついたスイッチのような黒い機器があった。

 彼女が勝ち誇った顔で言う。

「これ、何だと思う?」

「そ、それは——」

 それは先ほどまで沢尻が持っていたものに違いない。いつの間にか受け取っていたようだ。

 刑事に警告するよりも早く、麗子が親指で赤いボタンを押した。

 すぐさま甲高い悲鳴が響き渡った。美穂の首に電流が流れたのだ。刑事が異変に気づいて麗子につかみかかった。しかし麗子は地面に転がると、体を丸めてスイッチを取られまいと必死に抵抗して見せる。美穂はその間ずっと、すさまじい叫び声を上げ続けていた。

「麗子、放せ! 頼むから放してくれ!」

 拓海は声の限りに叫んだ。そこに美穂の悲鳴が重なる。

 別の刑事が加勢に入る。一人が麗子を羽交い締めにして仰向けにさせたかと思うと、他の二人が両腕を引き剥がしにかかる。この間も、美穂の悲鳴は続いている。そしてようやく三人掛かりで、刑事たちは麗子から電流のスイッチを奪い取った。同時に悲鳴も止んだ。とたんに不気味な静けさが訪れた。

 美穂に目を向けると、刑事の一人が彼女の安否を確認していた。彼女は口から泡を出して白目を剥いていた。腰回りには黄色い水たまりが広がっている。さらに汚物の匂いも漂ってきた。どうやら今のショックで排便してしまったらしい。

「刑事さん! 美穂は、美穂は大丈夫ですか!」

 拓海は美穂に寄り添う刑事に向かって叫ぶ。

 刑事はこちらに顔を向けると、弱々しくうつむいて見せた。どうやら、あまりいい状態ではないようだ。

 立ち上がっていた麗子が、こちらを見下ろしていた。勝ち誇った顔をしている。

「この……!」

 殴り殺してやろうと思い、拓海は後ろで縛られている両腕に力を込めた。この怒りをもってすれば拘束を断ち切れそうな気がした。だが、ステンレス製の椅子が、ミシミシと鳴っただけだった。代わりに思いっきり睨みつけてやった。だが彼女は、意に介する様子もなかった。

「これで少しは気が晴れたわ」

 麗子は卑屈な笑みを浮かべて鼻を鳴らした。そして彼女は、険しい顔をした刑事に乱暴に腕を引っ張られながら連れていかれた。

 沢尻とアサミと呼ばれていた女も、麗子に続くように連行されていった。下着姿の男たちだけはいまだ、数名の機動隊員たちによって包囲されていた。彼らは膝を抱えてしゃがみ込み、完全に怯えきっている。

 拓海は美穂に視線を向けた。まだ意識を取り戻していないのか、力なく首を垂れていた。

「美穂……」

 早く彼女を抱き締めたかった。そして謝りたかった。今回の計画に巻き込んでしまったことを——。

 果たして美穂は、ぼくを許してくれるだろうか。こんなことがあっても、以前と同じように愛してくれるだろうか。


 自分はどこで間違ってしまったのだろうか。佐藤の提案に飛びついたときか? それとも、佐藤が店にやって来たときに、安易に舞台に誘ってしまったときだろうか。今思えば、ろくに素性も知らぬ男を舞台に誘ったのは軽率すぎた。あの男と関係を持たなければ、麗子と出会うこともなかったのだから——。

 麗子とはまた、裁判などで顔を合わすことになるのだろうか。できれば彼女の顔は、もう二度と見たくなかった。

 美穂の声にまったく耳を貸さなかったことが悔やまれた。何度か計画の中止を求められたというのに、大金欲しさに聞く耳をもたなかった。彼女の忠告に従ってさえいれば、今日のような最悪な事態は避けられたかもしれない。今さら後悔しても遅かったが、彼女のほうが正しかったのだ。

 今さらではあったが、早々に芝居の道を諦めて定職に就き、美穂と幸せな家庭を築けばよかったのだ。ちっぽけなエゴに固執することなく、何者でもないことを認め、平凡な幸せを目指せばよかったのだ。もし美穂が今回のことを許してくれるならば、芝居はきっぱりと辞め、彼女のためだけに生きようと思った。いつも舞台の最前列で、輝く目を向け続けてくれた彼女のためにも、もう一度人生を一からやり直すのだ。今後芝居は、趣味の一つとして続けていけばいい。数人の仲間たちと、金をかけずに気軽な感じでやるのだ。堅実な生き方をして、彼女を二度と危険な目には遭わせないようにするのだ。

 今回のことでようやく気がついた。自分は美穂と出会えたことで、すでに最高の幸せを手に入れていたのだ。それが見えていなかった。今回一歩間違えれば、彼女を失うことになっていた。奇跡的に大切な人を失わずに済んだが、これは神様がもう一度やり直すチャンスを与えてくれたのかもしれない。だったらこのチャンスを絶対に無駄にしてはならないと思った。

 だからもう、これ以上は何も望まない。彼女がそばにいてくれさえしたらそれでいい。それだけで充分だ。もう絶対に彼女を離しはしない——。


 未来に想いを馳せていたところで、機動隊員の一人がおもむろにズボンを下ろした。

 思わず息が止まった。血の気がさっと引いていく。

 他の隊員たちも、腰のベルトを外して紺色のズボンを下ろしはじめていた。床に座って編み上げブーツの紐を解いている者もいる。

 拓海は自分の目を疑った。味方だったはずの者たちが一転して敵に回っていた。最高潮に達した不安が胸を強く締めつけてくる。すでに、ほとんどの隊員が、ズボンを下ろして下着を見せていた。中には下着も下ろして巨根をさらけ出している者もいる。ヘルメットで顔が隠れているだけに異様さが際立っていた。背広姿の刑事たちはというと、その様子を面白がって見物していた。

 どうやら意識を取り戻していたらしい美穂が、異変に気づいてこちらに絶望的な視線を向けてきた。拓海は彼女の視線をまともに受け止めることができなかった。

 佐藤はというと、この状況に無言で顔を硬直させていた。刑事の一人が笑いながら彼の腫れた足首を蹴り上げた。佐藤が悲鳴を上げた。いや絶叫だ。

 目の前で繰り広げられている光景を見て、拓海は震えが止まらなくなる。強い吐き気とめまいに襲われ、視界が白くぼやけていく。今では自分がどんな体勢でいるのかもはっきりしなくなっていた。

 意識が落ちかけたところで突然、目の前の液晶テレビが白く光った。眩しさで一瞬目を細める。

 画面を見ると、麗子の顔が大きく映し出されていた。満面の笑みに、悪い顔が貼りついている。

 麗子が自身の手に繋がっている手錠をかざして、おどけた調子で話しかけてきた。

「拓海さん、これ見て。わたし、悪いことしちゃったから、こんなのつけられちゃった」

 恐怖が最高潮に達して、胸が張り裂けそうになった。

「なーんてね♪」

 と言って、麗子は両手を広げて手錠を断ち切った。どうやらまた、見事に騙されたようだ。地獄はまだ、終わっていなかったのだ——。

 目が回り出す。目の前の光景が、夢か現実かもあいまいになっていく。この短時間で起こった展開に、思考が追いつかないでいる。今は息をするのさえ辛く感じた。麗子が何やら喋っている。ところが、彼女の声は、どこか遠くから聞こえてくるようで頭に入ってこない。しばらくすると、今度は胸がえぐり取られたかのような辛い苦しみに襲われた。窮地を救われたはずだったのに、すぐさま地獄に突き落とされた。今はコンクリートの壁が目の前に迫って来ているというのに、押し潰されるのをなす術もなく待ち構えているような気持ちだった。逃げ場はなく、希望はゼロだ。本当の絶望を知った気がした。

 テレビ画面を見ると、麗子の隣にアサミと呼ばれる女が立っていた。もとのクールな顔に戻っている。

「——というわけで、アサミさんにもお願いして、一芝居打ってもらったってわけ。助かったと思ってほっとしてたでしょ? あなたも馬鹿ね、こんなところに警察が来るわけないじゃない」

 麗子はここで、こちらの顔を覗き込むようにして言った。

「拓海さん、大丈夫? 今あなた、すごい顔してるわよ。人って絶望すると、そんな顔になるのね。すごい面白いわ。わたし、そんな顔が見たかったの。徹底的に打ちのめされて、絶望した人の顔をね」

 このまま消えてしまいたかった。今駅のホームに立っていたなら、迷わず向かってきた電車に飛び込んでいただろう。

 得意げな顔で彼女は続けた。

「ちなみにあの変態さんたち、すごいリアクションだったでしょ? だってあの人たちには、何も教えてなかったんですもの。おかげで期待以上のものを見せてくれたわ」

 麗子に変態と言われた男たちは、いまだとまどいを隠せない様子で地面にしゃがみ込んでいた。

 気づくと、屈強な体をした機動隊員たちが、美穂を取り囲んでいた。すでにみな、下着を脱ぎ捨て男性器をさらけ出している。下半身の筋肉が異常にたくましく、常に鍛えているアスリートのような脚をしていた。男性器のサイズもそれに比例しているようだったが、何人かは自分のモノをしごいてさらに大きくさせている。その様子を、ビデオカメラを手にした男たちが静かに撮影している。

 拓海は美穂の顔を見た。死人のように虚空を見つめている。すべてをあきらめたかのような顔だ。おそらく心は崩壊寸前だろう。もしくはすでに崩壊しているのかもしれない。

 これから行われることを思えば、一思いに美穂を死なせてやりたかった。できればいっしょに死んでやりたかった。だがここでは、そんなささやかな願いすらも叶いそうもなかった。

「ではでは、仕切り直しといきますか」

 麗子が手を叩きながら言った。

 テレビ画面の向こうに、二つの赤いソファが映し出された。二つのソファの間には小さな丸テーブルがあった。

 丸テーブルには白いクロスが掛けられていて、ワインボトルと二つのワイングラス、さらに中央には、クッキーのようなものが入った白い皿が置かれている。

 赤いソファに麗子が座った。もう一つのほうにアサミと呼ばれる女が座る。

「わたしたち、ここから見物させてもらうわ」

 麗子はそう言って、皿の上のクッキーを一つ口に放った。

 テレビ画面に沢尻が現れた。彼はワインボトルを開けて二つのワイングラスに注いでいく。拓海はワイングラスが赤い液体で満たされていくのを力なく見つめた。

 今さら遅かったが、を敵に回してしまったことを心底後悔した。とにかく何から何まで手が込んでいた。ドッキリの域を完全に超えていた。背中に、「POLICE」と白い文字で書かれた機動隊員はどう見ても本物にしか見えなかったし、背広姿の刑事たちも同様だ。みな迫真の演技をしていた。驚くことに、麗子が刑事と揉み合った場面でさえ演技だったのだ。何もかもがフェイクだったのだ——。

 麗子が楽しそうに沢尻と、計画を練っている姿が脳裏に浮かんだ。今思えば、顔に火傷を負ったと偽ったあの特殊メイクも、ハリウッド映画ばりのクオリティーだった。普通の人間はあんなことはしない。あの時点で、

 ここで麗子が、少し悲しそうな顔をして語りかけてきた。

「拓海さん、わたし、あなたがそんなに悪い人じゃないってこと知ってるわ。あなた、根はかなりいい人よね。でもね、やっぱりわたしは、わたしのことをお金のために殺そうとした人を許せるほど寛容ではないの。あなたが逆の立場だったらどう思うか考えてみて。きっとわたしと同じことをすると思うわ。そうなの、人って、やられたらやり返したくなる生き物なの。自分のことになると、人って簡単には人を許せないものなのよ——。だからごめんなさいね。あなたには、しっかりそれ相応の罰を受けてもらうわ。あと最後に、一言だけ言わせて。騙されたフリして騙し続ける生活は予想以上に楽しかったわ。今日でそれも終わりかと思うと、少し寂しい気もするくらい。もうあなたと遊べないとなると、しばらく退屈な日々が続くかもしれないわね。それくらいあなたは、最高の遊び相手だったってこと。これ褒めてるのよ」

 自分はどこで間違ったのか——。佐藤の提案に飛びついたときか? いや、そもそも才能があると信じて役者を目指した時点で、自分の人生は狂い始めていたのかもしれない。何者でもない自分が何者かになろうとした時点で、きっと歯車は狂い出したのだ——。

 麗子が慈愛に充ちた視線を向けてきた。

「改めてお礼を言わせていただくわ。拓海さん、わたしを楽しませてくれてありがとう。わたしを殺そうとしてくれて本当にありがとう。感謝してるわ」

 麗子がここで、手招きするような仕草を見せた。どうやらあちら側にいるカメラマンに合図を送ったようで、テレビ画面が近づいていって、すぐに画面いっぱいに彼女の顔が映し出された。

 画面越しに麗子と目が合う。その目に釘づけとなった。

 そして彼女はニコッと笑うと言った。

「拓海さん、覚悟はいいかしら? 地獄のうたげの、はじまりよ——」



〈了〉






【あとがき】

 最後まで読んでくれてありがとうございます。

 もし、「これ、面白いんじゃね?」と思ってくれ方は、SNSでの拡散をよろしくお願いします。

 また他の作品もそこそこ面白いと思うので、ぜひ目を通してください。


 終盤に登場したアサミという女は、拙著『セーフワード 狂気、増殖。』で、メインキャラクターとして登場してるので、興味のある方は是非そちらも!

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