赤いカーテン

 麗子はここで、手をパチンと叩くと言った。

「はい。前置きはこの辺でおしまい。拓海さん、今日はもっともっと、あなたを驚かせるつもりなんだから」

 緊張しながら見ていると、麗子は十メートルほど前方に設置されている赤いカーテンに近づいていった。あのカーテンの裏には、やはり何かが隠されているようだ。

 麗子はカーテンをつかむと、こちらを見てニコッと笑う。

「いい、見てて。いくわよ」

 赤いカーテンがさっと開かれた。

「なっ——!?」

 拓海はカーテンの向こう側を見て絶句した。全裸の男が吊るされていたからだ。佐藤良彦だった——。

 天井から吊り下げされている鎖に、革製らしき拘束具で彼の手首が繋がれていて、足先が地面に着くか着かないかくらいの高さで吊るされていた。

 意識を失っているのか、首はだらんと下がっている。かなりの暴行を受けたらしく、全身があざだらけだ。両足首の状態がとくに酷かった。どうやら骨折しているようで、両足首は不自然な形でねじ曲がり、テニスボール大に赤黒く腫れ上がっている。

 完全に一線を超えていた——。拓海は震え上がった。

「ねえ聞いて、拓海さん。佐藤さんてひどいのよ。酷い顔のわたしを見たあと、その後一度も連絡をくれなかったんだから。結果別れるにせよ、もう少し、心配してほしかったな」

 と、そこへ、白衣を着た男が現れた。

 拓海は驚く。麗子の主治医だったからだ。どうやら彼もグルだったようだ。医師は佐藤の前に立つと、彼の胸に聴診器を当てはじめた。

「どう、先生?」

「うん、命に別状はないね。これならまだ、たいていのことには耐えられると思うよ」

「よかった」

「あと、足に注射した麻酔は、そろそろ効果が切れるころだよ」

「わかったわ」

 もう用は済んだとばかりに、主治医は暗闇にすっと消えていった。

 麗子は、佐藤の頬を軽く叩くと言った。

「ねえ起きて。ねえ佐藤さん、起きてちょうだい」

 どうやら佐藤が意識を取り戻したようだ。

 彼は、しばらく寝起きのようなぼんやりした顔をしていたが、目の焦点が麗子に合ったとたん、ギョッとした顔をして大きく身をよじった。

 いつも強気だった男が、今では別人のように見えた。血の気の引いた顔は涙で濡れ、怯える仔犬のような目で麗子を見つめている。口にはSMプレーなどで使われる穴の空いた樹脂製の黒い球体が詰め込まれていて、大量のよだれが滴り落ちていた。

 拓海は今だけ佐藤に同情した。彼のことも殺す気でいたというのに、あんな姿を見せられては気の毒としか思えなかった。

 麗子がこちらを見て言った。

「拓海さん、もしかして今あなた、佐藤さんに同情してない? でも人の心配をしてる場合かしら? あなたも同罪だってこと、わかってる?」

 麗子の言葉に、ぞわっと全身があわ立った。自分の顔が、どんどん青ざめていくのがわかる。足も震えている。もう少しで、泣き出してしまいそうだった。

 拓海はここで、あることに気づき、心臓が跳ね上がった。思わず口から変な声が漏れてしまう。そして体が文字通り凍りついた。

 吊るされた佐藤の横には、腰ほどの高さの、ステンレス製の台座が置かれていた。その上に、円筒形のガラス瓶があった。中には黄色い液体が入っている。その液体の中に、ふやけたソーセージのようなものが浮遊していた。物体の正体はすぐに察しがついた。男性器だ。この状況下では佐藤のものに違いない。ガラス瓶の中に、佐藤の男性器がホルマリン漬けにされていたのだ。

 拓海はどうしても確認せずにはいられなかった。恐る恐る、視線を佐藤の股間に向けた。予想通り、陰茎が根元から切り取られていた。生い茂った陰毛のせいでわかりずらかったが、どうやら根元で縫合されているようだ。

 あんな姿にはなりたくないと強く願った。陰茎を切られるくらいなら、足首を折られるほうがまだましだと思った。

 麗子が瓶に視線を向けてから言った。

「あ、これね。これは佐藤さんが、もうができないようにチョン切ってあげたの」

 拓海は、彼女の笑顔を見て背筋が凍った。

 この状況下で今できることは命乞いしかなかった。

「麗子、すまなかった! 許してくれ! ぼくはそいつに騙されただけなんだ! 君を殺すつもりなんてなかったんだ! 全部そいつが悪いんだ! 悪いのはそいつなんだ! 麗子、だから頼む! 頼むから許してくれ!」

「もっと言って! もっと言って! 気の済むまで言ったらいいわ!」

 麗子は瞳を爛々らんらんと輝かせて叫ぶように言った。

 拓海は口をつぐんだ。命乞いは通用しないと悟ったからだ。

 身体中の至るところから、いやな汗が噴き出ていた。振り向けばすぐ後ろは、切り立った崖になっているのではないかと思えるほど、ひっ迫した身の危険を感じた。彼女に少しでも体を押されたら、まっ逆さまに崖の下に落ちていく——。そう。もう自分の命運は、完全に麗子の手に委ねられてしまったのだ。

 麗子はここで、一転して大人しい口調に戻って言った。

「拓海さん、わたしが騙されたフリをしてたってことは佐藤さんには伝えてあるわ。それも、恋人役だった女の人の前でネタバレしてあげたの。あなたにも見せたかったわ、この人の驚いた顔を。信じる人から裏切られたときの顔って、けっこう見ものよ。でもね、佐藤さんは騙されてたとはいえ、いい思いはできたはずよ。だってその恋人役の人、学生時代にはモデルをやってたくらいの美人さんで、そんな人と偽りとはいえ恋人でいられたんだから。それに、あなたが毎月渡してたお金で、綺麗なお姉さんがいるとこで豪遊してたみたいだしね。あとそうそう、あなたの彼女さんともエッチなことができたわけだし、人生最大のモテ期がきたんじゃないかって勘違いしたんじゃないかしら」

 拓海は、再び佐藤に同情していた。話を聞いていて彼のことが、つくづく憐れに思えてきた。

「あ、そうだ。拓海さん、面白いもの見せてあげる」

 麗子はそう言うと佐藤に近づいていく。心拍数が否応なく上がっていく。

 ほら見てて、と言って、彼女は佐藤の腫れた足首をパンプスの先で軽く小突く。

「はうっ!」

 佐藤が白目を剥いて悲鳴を上げた。顔からは血の気が引いている。痛みで意識が遠のいているようだ。強烈な痛みがこちらにまで伝わってくるようで、拓海は強い吐き気を覚えた。

「どう? 笑っちゃうでしょ、この痛がりよう」

 狂ってる、狂ってる、狂ってる! あの女、心底狂っている! 拓海は心の中で叫ぶ。

 恐怖を打ち消すために、拓海は再度ダメ元で懇願した。

「麗子、許してくれ。君のためなら何だってやる。だから頼む。頼むから許してくれないか」

「ほんとに何でもしてくれるの?」

「ああ、本当だ。何だってやる。だから命だけは助けてほしい」

 麗子は意味深な視線をこちらに向けてきた。不安がかき立てられた。悪い予感が募る。

 拓海の不安をよそに麗子は続けた。

「実はね。今日は佐藤さんの他にもう一人、スペシャルゲストを用意してるの。何となく察しがつくんじゃない? もう一人いるわよね、今回のメインキャストが」

 どうやら、悪い予感は的中してしまったようだ。

 麗子が芝居がかった調子で言った。

「はい! 新たなゲストの登場!」

 ドアが開く音が聞こえた。そしてすぐに、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「やだ、放してよ! あたしをどこに連れてくの! 放してよ、放してってばぁ!」

 黒服の男たちに引きずられるようにして美穂が連れてこられた。部屋着姿の彼女の細い首には、アルミかステンレス製らしき太い首輪が巻かれていた。

 美穂はまず、佐藤の存在に気づいたらしく絶句していた。佐藤も彼女を見て驚いている。次に美穂は、麗子を見て目を見開いた。

「な、なんで……」

「美穂!」

 呼びかけると、美穂が驚愕した表情を向けてきた。

「たっくん!?」

 拓海は彼女に駆け寄ろうと試みるが、椅子が少し前に進んだだけに終わった。今は美穂を助けることはおろか、自分の身さえも自由にできないのだ。何もできない無力感が全身を包み込んでいく。

「はじめまして、山口美穂さん」

 麗子に声をかけられて美穂は固まってしまう。この場の支配者が誰なのか理解したようだ。彼女が絶望感ただよう視線をこちらに向けてくるが、拓海は彼女の視線を正面から見据えることができなかった。

「これでメインキャストは揃ったわね。山口美穂さん、あなたがここにいる理由は、当然わかってるわよね。ええ、そうよ。あなたも同罪ってこと」

 男たちの間に挟まれていた美穂が、へなへなと崩れ落ちていく。

 麗子はさらに続けた。

「山口美穂さん、あなたもすごいことしたわよね。薬の効果を確かめるために会社の上司を殺しちゃうんだから。でもわたし、そういう人、好きよ。なりふり構わずっていうか、目的のためには手段を選ばないっていうか、そういうの、好きなのよね。何か人間味があっていいじゃない。でもね、今回ばかりは、狙う相手を間違えたわね」

 美穂は放心したように首を横に垂れ、顔は死人のように青ざめている。それも当然だろう。佐藤の姿を見れば、絶望的な状況なのは一目瞭然だ。

「ねえ山口美穂さん、わたしたちって、共通点があるのよ。同じ男に抱かれたっていう。沢尻さん、こういうの何て言うんだっけ?」

 沢尻は少し考える仕草をしてから答えた。

竿姉妹さおしまい、ですかね」

「そうそう、それ。竿姉妹ね。わたしたち、竿姉妹なのよ。何だかすごく卑猥な響きよね、竿姉妹って。ねえ沢尻さん、こういう場合って、どっちがお姉さんになるのかしら。やっぱり年齢に関係なく、先に入れられたほうがお姉さんかしら?」

「さあ、どうでしょう」

 沢尻は肩をすくめて答えた。

「佐藤さんと先にしたのはわたしだけど、拓海さんとしたのは彼女のほうが先だから、何だかややこしいわね。まあいいわ。ちょっと沢尻さん、佐藤さんの口についてるの、外してもらえる?」

 指示を受けて沢尻は、佐藤の口を塞いでいたボールギャグを外した。

 佐藤は口元が解放されると、肩で息をするようにぜえぜえと喘ぎはじめた。麗子を見る目は怯えたままだ。

 麗子が意味ありげな視線を佐藤に向けて言った。

「佐藤さん、今までのやりとりで、山口美穂さんと拓海さんが知り合いだってことはわかったわよね?  そう、あなたはこの二人に、まんまと騙されてたのよ」

 説明を聞き、佐藤の顔がまっ赤になった。男性器を切り取られた上に、さらに不都合な真実を聞かされたのだ。精神的ショックは甚大だろう。

 佐藤が怒りの形相で美穂に罵声を浴びせはじめた。

「美穂! この野郎! ずっとおれを騙してやがったんだな! お前、絶対に許さないからな! 桜井、お前もだ! てめえら二人とも、ぶっ殺してやる!」

 美穂はガタガタと震えていたが、佐藤の罵声に対してではないのは明らかだ。鎖に繋がれた佐藤など、取るに足りない存在なのだから。美穂が恐れているのは麗子に対してだ。この場で脅威となり得る存在は麗子以外にいなかった。

 佐藤の罵声はその後も止むことなく続いた。

 麗子がうんざりしたように割って入った。

「佐藤さん、いい加減うるさいわ。ちょっと黙ってて。じゃなきゃ、こうしちゃうわよ」

 再びパンプスの先が、佐藤の腫れた足首を襲った。

 佐藤が悲鳴を上げた。そして全身を震わせながら痛みに悶絶している。拓海はそれを見て、胃の中のものがせり上がってくるのを感じた。

 麗子はそんな佐藤に関心を失ったかのようにこちらに顔を向けると言った。

「拓海さん、あとであなたのスマホから、好きな人ができたから別れようみたいなメッセージを、わたしのスマホに送らせてもらうわ。もし、あなたの家族か友人がわたしのとこに訪ねてきても、それを見せれば納得してもらえると思うの。でもあなたって、ご両親とは疎遠だものね。だからご両親が訪ねてくることはしばらくないかもだけど。あと、友人にしたって、本気であなたのことを探そうとする人が出てくるかは疑問よね。だって、人ってびっくりするほど、他人には興味のない生き物だから。劇団の人たちにも、あとで適当な理由を作って退団のメッセージを送っておくわ」

 拓海は麗子の言葉に、どんどん絶望的な気持ちになっていく。劇団の仲間とは、べつだん強い絆で結ばれているわけではなかった。拓海は美穂以外の人間には距離をおく傾向があったからだ。ゆえに、彼らが自分を探してくれることは決してないだろうと思った。ここにきて今さらではあったが、浅い人づき合いをしてきたことを悔やんだ。

 麗子はここで悲しそうな顔をして言った。

「言っとくけど、悪く思わないでよね。先に仕掛けてきたのは、あなたたちのほうなんだから。でも改めてひどいわよね、お金のために、わたしのことを殺そうとするなんて……。拓海さん、ベッドでの優しさが、すべて演技だったかと思うと少し悲しくなるわ……。正直言ってね、わたし、あなたに何度も抱かれていくうちに、少しだけじょうみたいなものが湧きはじめていたのよ。これ本当よ。だからちょっとでも、わたしになびいてくれて、計画を中止にしてくれたらわたしも考え直したんだけど、でもあなたは、わたしに対して情が移るなんてことはなかった。せっせと毎日、毒をわたしの飲み物に入れてたわよね。それってちょっとショックだったなぁ……。あと傑作なのは、あなた、わたしが危篤になったって連絡を受けたあとも、彼女さんとエッチなこと始めちゃったらしいじゃない。それ聞いて、本当にわたしって、あなたにとってはお金のための道具に過ぎなかったんだなって実感して悲しくなっちゃったもん……」

 麗子の告白を聞き、拓海はえも言えぬ気持ちになった。危篤との連絡を受けたあとの行動も筒抜けとあっては、もうどんな言いわけも通用しないだろうと思った。

 と、そこで、コンクリートの床を叩く、小気味いい足音が聞こえてきた。

 新たな人物の登場だ。人目を引く、黒髪の女だった。女は全身、赤一色のコーディネートで、際立った美貌とモデル顔負けのスタイルの持ち主だった。自信ありげで、実に堂々とした佇まいだ。

 麗子は、隣に立った女に親しげに話しかけた。

「アサミさん、この人たちが、遺産目的でわたしを殺そうとした人たちよ」

「そうですか。なら徹底的に、懲らしめてあげないとですね」

 アサミと呼ばれた女は悪魔じみた微笑を見せて答えた。

 拓海はまだ、助かる望みを捨ててはいなかった。タイミングを見てもう一度、説得を試みるつもりでいた。何としても、美穂だけは助けたかった。

 麗子がこちらを見て言った。

「あのね拓海さん。ここはね、まあ簡単に言えば、悪さをした人をお仕置きするための場所なの。で、こちらのアサミさんはね、その道のプロの人なの。ね、アサミさん?」

 アサミと呼ばれた女は笑顔で小さくうなずいて見せた。

 拓海はここで、許しを請うべく口を開こうとした。だが、思うように声が出てくれなかった。

「そうだ、拓海さん、覚えてる? 青山のレストランで、窓際の席に案内しなかったウェイトレスのこと。あの子、今すごいことになってるわよ。生まれてきたことを後悔するくらい、ひどい目に遭ってるから。そりゃ当然よね。わたしに対してあんな態度とったんだから。わたし、基本Mだけど、わたしに敵意を向けてくる人に対しては徹底してSになれる性格だから」

 拓海は震えが止まらなくなった。連動して涙が流れ出す。ウェイトレスの末路は予想通りだったが、予想が当たったことは何の慰めにもならなかった。むしろ悪夢でしかない。これが夢であってほしいと強く願った。

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