千里の先に咲き誇る⑤
タタタ、と。
音が聞こえなくなる場所までつくと、ようやく人心地がつけた。
「はぁ……」
チクリと胸の奥底に痛みを感じた。今すぐにでも理咲にこれでよかったのかと聞きたかった。しかし迷いを振り切るように大きく足を上げる。
『
ふと看板が目に入る。
(青木だからブルージュかぁ。変な
"青木"から"青樹"に変換して、"青"は英語で
そんな経緯だから、ベルギーなんて一切意識していないし、日本の王道な喫茶店がコンセプトだ。
(本当、変なところで母親に似たなぁ)
どんどん娘に会いたい衝動を抑えきれなくなって、『CLOSE』の札が掛けてあるドアノブを回す。
ゆっくりと開けると、カランコロンと軽快なベルが鳴る。
「あ、お父さん、おかえりなさい」
「おかえり」
娘たちの顔を見た瞬間に、さっきまで抱えていた鬱々とした気分に晴れてく。
(ああ、いつになっても、この瞬間は――)
娘たちの顔を見ているだけで、自分に「おかえり」と言ってくれるだけで、この世界の全てに感謝したくなる。
それほどの多幸感が、心を満たしてくれる。
「ただいま」
涙がこぼれそうになりながらも、微笑んだ。
しかしある人物の姿を見つけてしまって、さっきまでの感動がどこかへ飛び去ってしまった。
(ああ、そういうことか)
チッ、と舌打ちを隠すことなく、その人物の前に立つ。
「それで、なんで君がいるのかな? 清水くん」
冷や汗をかいている青年を前に、千里は薄ら笑いを浮かべた。
清水はガチガチに固まりながらも、必死に舌を回す。
「お、お久しぶりです」
「またね、とは一度も言ったことはないんだけどね」
「あ、あははぁぁ」
千里の皮肉を受けて、清水は引きつった愛想笑いを浮かべるしかなかった。
「ほら、お父さん!」
男二人がギスギスしていると、呆れた様子の君乃が割って入ってきた。
「そのくらいにして! 今日の主役は楓でしょ」
千里は娘に逆らうことが出来ずに、渋々ながらも娘についた虫への嫌がらせを中断した。
改めて、楓に向き直る。今日は楓の『のど自慢大会お疲れ様パーティー』なのだ。
「楓。いい歌だった……ヨ」とつい片言になってしまった。
「お父さん、無理しなくていいから。ダメダメだったのは、わたしが一番わかってるから。
それに、ごめんなさい。お母さんの浴衣ボロボロにしちゃって」
「いいんだ。いつか捨てないといけなかったんだし」
千里はとにかく頑張った娘を褒めたくて、必死に思考を回す。でも何も気の利いた言葉は浮かばず、結局は
「それよりも、よく頑張ってたと思うよ。うん、えらい」とぼかした。
「お世辞下手すぎ」
楓からの容赦ない毒舌に、千里はズーンと落ち込んだ。そんな父をよそに、パーティの準備が整っていった。
数分後。準備が整って、全員がグラスを掲げていた。
「それじゃあ、楓、のど自慢大会お疲れ様!」と千里が音頭を取ると
「「お疲れ様!」」と清水と君乃が声を揃えた。
「……ありがとう」
楓は照れながらオレンジジュースを口に含んだ。
それからは、のんびりとしたパーティーだった。
君乃が作ったビーフシチューやオムライスに舌鼓を打って、思い出話に花を咲かせた。単身赴任のせいで普段は娘と会えない千里にとって、この上ない幸福だった。
だが――
(ちっ、これが問題だ)
なぜかテーブルの向かい側に清水が座っていた。一瞬でも顔を見たくなくて、常に顔を横に向けている。
それでも、清水は挫けることなくゴマを
「どうですか、このビーフシチュー、君乃と俺が一緒に作ったんですよ」
「娘を呼び捨てにしないでくれないかな」と千里が嫌味を言うと
「こら、お父さん!」と君乃に怒られてしまった。
大人しくビーフシチューを口に運んだ。予想以上においしくて、つい夢中で食べてしまった。
(一気に食い過ぎた)
一旦お腹を休めて、オレンジジュースを飲む。
(うまいな、これ)
スルスルと喉を通っていき、一瞬で飲み干してしまう。すると、すぐにコップに新しいオレンジジュースが注がれた。
「お、助かる」と言いながら顔を上げると、営業スマイルを浮かべる清水の姿があった。
「どうぞ。お酒が飲めないと聞いたので、評判のいいオレンジジュースを用意させてもらいました」
「ふん、お前が注いだジュースなんて何が入っているかわからん」
「お父さん、いい加減にして」
今度は楓にたしなめられてしまった。
いじけた千里は、オレンジジュースをチビチビと飲んで、楓の顔をジーッと見つめた。
(楓はこっち側だと思っていたんだけど……)
いつの間にか不利な状況になっていることを察して、しばらくは大人しくことに決めた。
それからは穏やかに時間が進んでいき、ある程度料理を食べ終えた頃。
「ねえ、提案があるんだけど」
楓が控えめに手を挙げて発言した。
「お母さんのビデオレター、皆で見ない?」
「「なんで知ってるの!?」」
千里と君乃の声が重なった。
お母さん――理咲が遺したビデオレターの存在は、楓に秘密にしていたのだ。
慌てふためいている二人を見て、楓は不敵な笑みを浮かべた。
「二人とも、わたしに隠し事できるわけないじゃん。誰がいつもお片付けしてると思ってるの?」
(入念に隠してたんだけど)
千里としては、絶対に見つかる訳がない、と思った場所に隠していた。仏壇の収納で、テーブルで隠してもいた。
それでも見つかってしまっていたのだ。気まずく思いながらも、楓に語り掛ける。
「ごめんね。楓。隠し事をしてて」
「いいよ。気にしてはいるけど……。多分、わたしに気をつかってくれたんだよね」
「お母さんの話をすると、いつも酸っぱい顔しかしないから……」
「そんな顔してた?」と楓は少し眉を歪ませた。
「してた」
千里が短く答えると、楓は少し困った顔を浮かべた。それから皺だらけの手を握って、柔らかく表情を変える。
「もう大丈夫だから、一緒に見よ」
はにかんだ笑顔がとても眩しくて、理咲の面影が重なって見えた。たったそれだけのことで、頬がほころんでしまう。
「ああ、そうだね。もう大丈夫そうだ」
それから喫茶店スペースからリビングに移動した。しかし準備をする中、どうしても気になることがあった。
「清水くんまで見る必要があるかい?」
「あ、はい、そうですよね。すみません」と清水が寂しそうに出ていこうとすると
「私が見てほしいの」と君乃がすぐにフォローを入れた。
「……君乃がそう言うなら」
千里は渋々ながらも、清水の同席を受け入れることにした。
「すみません。ありがとうございます」
頭を下げられても、千里は無視を決め込んでいた。
「大人げない」
楓がボソリと呟くのが聞こえて、千里は苦虫を噛んだような顔になった。
いくら偉ぶろうとも、娘たちには絶対に勝てないのだ。また大人しくすることにした。
「これとかどう?」
楓がディスクを取り出して掲げると
「あ、ぴったり!」と君乃が反応した。
『君乃 婚約した時用』と書かれたディスクだった。ちなみに『結婚式用』と『ハネムーン用』まで揃えられている。細かく用意しているものだから、ビデオレターは二十枚以上もあるのだ。
早速プレイヤーに入れて、再生する。
キュルルルルルルル、と。ディスクが回る音とともに、テレビに映像が映りだす。
『あー、見えてる? 聞こえてる? お母さんだよ。君乃』
画面いっぱいに、理咲の顔が詰まっていた。
「あ、お母さん」と君乃は弾んだ声を上げ
「こんな声だったんだ」と楓は意外そうにしていた。
しかし突然、画面が激しく揺れた。おそらくはカメラが落下しかけたのだろう。
『おっとっと、ごめんね。手持ちで撮影してるから』
理咲はそう謝りながら、画角を調整した。
(ちゃんと教えてくれれば、撮影を手伝ったのに)
当時、ビデオレターを撮影していることを、千里は知らなかった。初めて知ったのは死後、病室の理咲の荷物を整理した時だった。
(いや、知ってたら反対してたか)
理咲本人は死ぬ覚悟を持って楓の出産に挑んでいた。しかし千里はそうではなかった。当時の千里が知っていれば、残酷な選択をしてでも出産を止めていたかもしれない。
思いを馳せている内にビデオレターは進んでいき、衝撃的なセリフが聞こえた。
『多分、お父さんが猛反発してると思うけど、気にしないでね』
「ゴホッ!」
いきなり図星をつかれて、思わずせき込んでしまった。
「流石お母さん。よくわかってる」と君乃は大きく頷き
「おかしい」と楓がクスクス笑い
「大丈夫ですか!?」と清水だけが千里を気遣ってくれた。
『話を聞かない人じゃないけど、一度決めるとかなり頑固だから。そうだ、ちょっとした魔法を残すね』
画面の中の理咲は、背筋を伸ばして、真剣な顔つきを取り繕った。
『千里さん、子離れしないと嫌われちゃうからね。子供はいつまでも子供じゃないの。私はそんなあなたを見たくありません』
(だったら、傍にいて注意してよ)
そんな子供っぽい感想を抱いてしまって、ハッとした。
ふと自分の手のひらを見つめる。皺だらけで、到底子供の手には見えない。それどころか、神経質な老婆の手が重なって見えた。
(僕も、
『じゃあ、君乃。幸せになってね』
ビデオレターが終わって、少しだけの沈黙があった。君乃は懐かしさの余韻に浸り、楓はしばらく呆けていた。そんな中、清水が声を上げる。
「すみません、千里さん」
一瞬無視しようと考えたが、あまりにも真剣な声音で、つい振り向いてしまう。
目に入ったのは、好青年のこの上ない程熱意のこもった顔だった。清水の顔立ちがあまりにも良いものだから、まるでドラマの一幕のように見えてしまう。
「今日お伺いしたのは、大事なお願いがあったからです」
(ああ、わかってるよ。頼むから言わないでくれよ)
青年のまっすぐな瞳に気圧されて、嫌味の一つも口に出せなかった。
「千里さん、お願いします。君乃さんをオレにください。一緒に生きていきたいんです」
清流のように澄み切った声で言い切って、深々と頭を下げた。
その場にいる全員が息を呑んだ。
(そういえば、僕はこんなことをしてなかったんだよな)
理咲も千里も一般的な家庭では育ってこなかった。理咲は君依という一人親に育てられ、千里は親と反りが合わずに絶縁状態だ。だから、相手の親に挨拶することもなかった。
ゆっくりと首を回して、娘たちの様子を眺める。
「お父さん……」
楓が心配そうな顔をしながら呟いた。
その横で、君乃がひたすら目で訴えかけている。瞳には怒りも威圧もなく、純真な懇願の想いがこもっていた。
(理咲や娘たちにここまで言われたら、さすがに……)
心の中では色々な葛藤が渦巻いていた。そう簡単に整理できなくて、目を閉じて考え込む。
「……………………」
千里が黙っている間、空気は重苦しかった。息を吐く音や身じろぎする音が聞こえる程だ。
(……よし)
5分ほど考え続けて、ようやく覚悟が決まった。
乾いた唇を開き、重々しく舌を動かす。
「少しだけ、娘をよろしく頼むよ。清水くん」
ぶっきらぼうに告げた。すぐに態度を変えるのが気恥ずかしかったのだ。
「「「え?」」」
まさか色よい返事がもらえると思っていなかったのだろう。三人は素っ頓狂な声を上げた。
最初に我に返ったのは清水だった。
「あ、あああ、ありがとうございますっ!」
まるでライオンに命乞いを認められたかのような喜び様だった。
整った顔が台無しになるほどに大声で叫んで、何回もガッツポーズをしている。
その姿を見て、衝撃を受けた。
(僕、そんなに怖かったのか)
さっきまでの自分が途端に恥ずかしくなって、居たたまれなくなった。目の前の青年を直視できなくなって横を向くと、君乃と目が合う。
「お父さん、何かあったの?」
その問いに、千里は曖昧な表情をするしかなかった。
(
なるべく表情筋を動かさないように意識して、答える。
「何もなかったさ。何も」
「そう?」
君乃は不思議そうにしながらも、興奮状態の清水をなだめに戻った。
「ちょっとお母さんと話してくる」
簡単に言い残して、騒がしいリビングから出た。
ガラリ、と仏間の扉を開けて入る。仏壇の前に座り、線香を立てて、流れるように手を合わせる。
「ただいま、理咲」
――おかえりなさい
突然、声が聞こえた。千里が聞き間違えるはずがない。理咲の声だった。驚きのあまりに周囲を見渡した。しかし遺影と仏壇しか見当たらない。
(さっきまでビデオレターを見てたり、心が弱ってるせいかな)
ふと天井を見上げる。背伸びすれば届く天井。その先には広大な空が広がっていて、そのずっとずっと先には天国があるかもしれない。
(はあ、これでいいのかなぁ……)
突然、キリリ、と心臓が痛んで胸を抑える。
(あぁ、もう、この体は――)
千里は心臓を患っている。普段は薬で安定させているが、飲み忘れただけで発作が起きる時がある。おそらくは健康的な人よりは長生きできないだろう。
(僕もそのうち娘たちを置いていくのか)
後二十年か、もっと早いか。その時はいずれ来てしまう。
徐々に実感が湧き始めていた。特に今日は大きな転換日だったのだ。君乃の婚約が決まって、親の手から離れてしまった。
後は楓だけだが、いつの間にか大きく成長していた。
肩の荷が下りたような、もの寂しいような、嬉しいような、複雑な気持ちになる。
それでも娘たちとの時間を大切にしたくて、自然と前を向く。
(後悔しないようにしないとな)
そうでないと、あっちにいる妻に笑われてしまう。
「理咲。もうちょっと待っててね」
モナリザ風の遺影に向かって、もう一度手を合わせた。
モナリザを真似た遺影。本人に頼まれて撮影したものだが、その時の千里は遺影になるとは予想もしていなかった。遺書を見つけて初めて本当の意図を知った。
(本当、これを遺影にするなんてなぁ)
切ない気持ちで見ていると、ある光景がフラッシュバックした。
理咲がやる気を出す時の仕草。それはいつの間にか、娘たちにも受け継がれている。
(やってみるか)
「どっこいしょ、っと」と立ち上がって、背筋を伸ばす
バチン、と自分の頬を叩いて気分を入れ替えた後
拳を天に突き上げる。
そして、叫ぶ。
「「やってやるぞ! おー!」」
千里は目を丸くした。
「……え?」
なぜか声が重なって聞こえたのだった。
チョメチョメ少女は遺された ~変人中学生達のドタバタ青春劇~ ほづみエイサク @urusod
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