千里の先に咲き誇る④

 千里は風化した妻の温もりを思い出して、身を震わせた。


 表情はいつの間にか、穏やかな父親の顔ではなく、愛しい人を守る男の顔になっていた。


「僕は理咲の夫としてあなたと話しに来ました」

「あなたを理咲の夫だなんて認めてない!」


 あまりにも予想通りの反応で、千里はわらいたくなった


「それよりも、あの子いいじゃない。楓ちゃん。ちょっと貸してよ。いくらいる?」


 まるで買い物をするような軽々しい口調なのに、内容は残酷だった。あまりもの不快感に、千里の顔が自然と歪む。


「子供はペットじゃないんですよ。おもちゃじゃないんですよ」

「私が娘を産まなければ、あの子たちは生まれなかったのよ。これぐらいの権利はあるはずよ」

「それなら、僕がいなくても娘たちは生まれなかったでしょう」


 千里は感情を出来るだけ押し殺して、淡々とした口調で言い返した。対照的に君依は


「腹を痛めたこともない男が知った口を言うんじゃない!」と感情的に怒鳴りつけるばかりだ。


 どれだけ威嚇されても、千里は一歩も退かなかった。


 千里は理解していた。この女性とは会話をできないことを。きっと生半可な言葉では何の意味のないことを。


「理咲は、あなたに良い感情を抱いていませんでした。死ぬ寸前も、全くあなたの名前は出てきませんでした」

「そう。それが何なの。嫌われてもいいじゃない! あの子が生きててくれれば!」

「親のことが、たった一人の親のことを嫌いになる苦しみが、あなたにはわかるんですか!?」


 脳裏に浮かんだのは、最愛の女性の笑顔。そして寂しげに諦めた顔だった。


 そのどちらも、思い出すだけで胸が締め付けられる。


「それに、理咲はもう死んだんですよ……」

「死んだ……」


 突然、君依の動きがピタリと止まった。


「死んだ……? 死んだ、死んだのに、私はなんで……?」


 明らかに異常だった。周囲を見渡して、手足が小刻みに震えている。見えない何かにおびえているように見える。


(まさか、実感がないのか……?)


 理咲が死んだ時、千里はずっとそばにいて、見届けていた。病院ではずっと寄り添っていたし、葬式の喪主だってこなしていた。

 それに対して、君依はずっと理咲に会っていなかったのだ。葬式や法事にも出ていない。普段顔を合わせない人が死んでも、実感は湧きにくいだろう。


 だからこそ、まだ理咲の死を受け止められていないのだ。赤ちゃんが中学生になる程の時間が過ぎても。


 千里と君依。二人の差は、たったそれだけのことだったのかもしれない。


(それなら、伝えないといけない)


 深呼吸をしてから、穏やかに言葉を紡いでいく。


「理咲が最期に言い残した言葉は三つあります。一つ目は妻としての、僕への感謝。二つ目は母親としての、子供たちを心配する言葉。

 三つ目は、娘としての、産みの親に対する言葉でした」


 虚空を見つめていた君依の瞳がゆっくりと動き、千里の口の中を覗き込む。 


「『産んでくれたことは感謝してる。でも、あの人よりも先に天国に逝けることに、ちょっとだけホッとしてる』」


 聞いた瞬間、君依の顔がグニャリと歪んだ。ムンクの叫びのようで、ひどく醜い。


「あの子は、本当に……?」


 千里が静かに頷くと、君依は目を見開いたまま、首をゆっくりと回した。


 何もない場所を見ながら、歪に口角を上げて


「なんだ、いるじゃない」と震えた声で呟いた。


 その姿はあまりにも不気味だった。


「何を言ってるんですか……?」

「理咲よ。ほら、そこにいるじゃない」

「理咲は死んだんですよ」


 千里の言葉を――現実を、君依は強く拒絶する。


「嘘よ! だって、あそこにいるでしょう!?」


 君依が指さした先には、誰もいない。ただ、虫が群がる街灯だけがたたずんでいる。


「ほら、あそこにも、あっちにだって、こんなにいっぱいいるじゃない! 私の理咲っ!」


 あちこちをデタラメに指さしては、理咲の名前を叫び続けている。もちろん、どこにも理咲の姿はない。きっと君依の瞳には本当に映っているのだろう。


(もう話はできないだろうな)


 もう君依の心は壊れている。どんな言葉を投げかけても無駄だろう。それでも、言わないといけないことがあった。


 君依の目線の先に立った後、屈んで視線を合わせて、虚ろな瞳をみつめた。


 そして、淡々とした口調で告げる。

 

「あなたには、理咲に出会わせてもらえて感謝しています。

 ですけど、もう僕たち家族に関わらないでください。娘たちの前に現れないでください。声を掛けないでください。

 もう僕の家族をメチャクチャにしないでください」

「そんなこと、言わないでよ。人でなし!」


 君依の悲鳴に対して、千里はまくし立てる。


「人でなしで結構です。僕は人である前に、楓と君乃の父親です。娘たちを守れるんだったら、鬼にだって悪魔にだってなります。

 それが親ってものでしょう」


 千里の言葉を受けて、君依の瞳が激しく揺らいだ。自分の顔をペタペタと触り、手の平をぼんやりと見つめた。その手のひらには、剥がれた化粧がべったりと付いていた。


「そう、あなたもなのね……」


 君依は力なく呟いた後、抜け殻のような瞳を千里に向けた。


「ねえ、最後に聞かせて」


 まるで遺言をささやくような、穏やかな声色だった。


 千里は儚い老婆を直視することが出来ず、月を見上げて、息を吐いた。


 君依はじっと暗い地面を見つめながら、口を開く。


「あの子、よい子だったでしょう。最高の、かわいらしい女の子・・・だったでしょう?」


 君依の問いかけに、千里は迷いもよどみもなく答える。


「僕にとっては、最高の女性でした。彼女以外のことが考えられなくなる程、この上なく素晴らしくて、力強く輝いた女性・・でした」


 愛に満ちた顔から、幸福にあふれた声が響いた。


 その言葉を聞いた瞬間、君依の目端から、ツー、と水滴が零れていく。


「お願い。どっか行って」


 とても弱々しい声だった。もう普段の過激な姿はどこにもない。


「あなたには、あなただけには、見られたくないの。だから、お願いします。お願いします」

「……そうですか」


 青木父は踵を返して、一歩一歩進み出す。


 ふと、背中越しにしわがれた声が聞こえる。


「あのとき……あのこ……りんご……ち……だから守ら……ない…とって……」


 それは、たった一人しか覚えていない思い出だった。理咲すらも忘れていた、些細で純粋な優しさだ。


 ドン、ドン、ドン、と。君依は地面を叩き続けた。まるで地底にいる何かを叩き起こすように、何度も、何度も……。


 音だけで、かなりの力で叩いていることがわかる。握りこぶしは血が滲んでいるかもしれない。


「…………」


 千里は振り向かなかった。


 声が聞こえなくなるまで、ひたすら歩き続けるのだった。

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