千里の先に咲き誇る③
「……え、なにしてるの?」
駆け落ちしてから二年が過ぎた頃、理咲はリビングで奇妙な踊りをしていた。その手には体温計のようなものが握られていて、魔法の杖のようにブンブンと振り回していた。
「みてみて!」
体温計のようなものを手渡されると、一本の赤い線がくっきりと表示されていた。
妊娠検査薬、陽性。
「あなたとの子供ができた!」
それからはお祭り騒ぎだった。
自分たちで赤飯を炊いて一緒に食べたり、これからのことを話し合った。
もっと広い部屋に引っ越そうとか、兄弟は何人いた方がいいよねとか、他にもいろんな人生設計を語り合った。
妊娠発覚から三か月ほど経った頃。定期診察に行くと、赤ん坊は女の子だと判明した。その病院からの帰り道、理咲は珍しく悩んでいた。
「ねえ、どうしたの?」
「ちょっと子供の名前で悩んでて」
「そんなことなら言ってよ」
「ごめんね。わたしの我が儘だから……」
理咲は娘に『きみの』と名付けたいと言った。
「不思議な名前」
「"杉"って漢字から取ったの」
「え? どこにも入ってないけど」
千里が不思議そうな顔をすると、理咲は不敵な笑みを浮かべながら語り始めた。
「"杉"って漢字は、"
千里は感心して、ほうっ、と息を吐いた。
「でも、なんで杉なの?」
「あなたっぽいから」
「僕が? 杉っぽい?」
「だって、老け顔だし」
「ちょっ!?」
突然コンプレックスを刺激されたことで、千里は涙目になってしまった。そんな夫を気にすることなく、理咲は話を続ける。
「それに、杉の花言葉を知ってる?」
「杉に花言葉……? 杉に花があるの?」
「杉で花粉症になるんだから、あるに決まってるでしょ。春前にある黄色いツブツブのやつが花。
それで、杉の花言葉は『雄大』『堅固』『あなたのために生きる』」
千里が突然足を止めると、理咲は夕日を背に振り向いた。
「ほら、あなたっぽいでしょ」
無邪気な笑顔を浮かべて、にししと笑っていた。
「それで、『きみの』」
「うん。杉にしては女の子っぽいでしょ」
千里は生暖かい息を吐いて、理咲の顔を愛おし気に見つめていた。
「どう?」と理咲が子供のように訊ねると
「すごくいい」と千里は吐息のように漏らした。
「それでね……」
それともう一つ理由がある、と今度は神妙な顔持ちになる。
「お母さんとちゃんと話したい。だから、お母さんの名前の『君依』から一文字もらって――」
理咲は携帯電話を操作して、メモ帳の画面を千里に見せた。
『
夫への愛と、母への尊敬がこめられた名前だ。
「いいの?」と千里が驚愕すると
「このままじゃいけないから……」と理咲は決意のこもった目をしていた。
駆け落ちしてから、理咲が母親について言及することは一度もなかった。それどころか、何度も悪夢に出てきてうなされていた。
それでも、彼女は話し合おうとしている。
「わたしだって、母親になるんだから」
子供を身ごもったことで、理咲の意識は大きく変わっていた。ようやく巣立ちの時が来たのかもしれない。
それから半年が過ぎて、陣痛が始めった。
その日はとても長かった。
昼から陣痛が始まったのに、生まれたのは日を跨いだ頃だった。
おぎゃあ、おぎゃあ、と君乃の産声が響く中、理咲が声を絞り出す。
「お母さんを呼んで……!」
その言葉を聞いて、千里は涙をぬぐいながら、電話を掛けた。
相手は君依ではなかった。千里が連絡先を知っているわけがない。
『ん? なんだ、珍しいな』
電話口に聞こえたのは、若い男の声だった。
「君依さんに伝えてほしいことがある」
『どうせ、理咲さん関係だろ、大変なんだぞ』
「僕に貸しがあるだろ? 元同僚」
『
千里の元同僚は出世しており、今は君依の右腕ともいえる存在になっている。パイプ役としては最適な人物だ。
尚、その地位は、千里が理咲に手を出そうとしていることを密告して、君依の信頼を得たことで手に入れたものなのだ。千里は図太くも、
連絡して二時間も経たないうちに。
「理咲!? 理咲はどこ!?」
院内に金切り声が響いた。
病室にいた千里と理咲は、近づいてくる足音を、緊張した顔で待ち構えていた。
ガシャン、と。
勢いよくドアが開かれると同時に、君依の姿が目に入る。
「あっ……!」と理咲が声を上げた。
君依は最後に出会った時よりも大分痩せこけていて、皮と骨しかないように見える。顔はコピー用紙のように青白く、髪の毛もボサボサに乱れている。まるで昔話に出てくる
その姿に
「お久しぶりです」
「…………」
声を掛けられても、君依は千里に目もくれなかった。
ズンズンと大きな歩幅で進んでいき、目線を合わせるように、理咲の前で屈んだ。
「家に帰りましょう?」
赤ん坊に語りかけるような、甘ったるい声音だった。
「久しぶりにカレーを作ってあげるから。おねがい」
手を取って、撫でまわし始める。
その感触があまりにも不快で、理咲は歯を食いしばった。そして、抱いている赤ん坊を見せつけるように突き出す。
「子供が産まれたの、女の子っ!」
君依は生まれたての赤ん坊を
「ブサイクね」と吐き捨てた。
「えっ……」
理咲は言葉を無くしていた。
君依は興味を無くしていた。赤ん坊に対して。
手を掴んだ途端に、君依は鬼の形相になって、千里に向けて吠える。
「こんなに痩せて、顔色も悪いじゃない。あなた一体何をしたの!?」
「そうじゃない!!!」
理咲が悲痛な声で否定した。
「聞いてよ」
縋るように手首を握って、瞳を見つめ合う。理咲は涙ぐんでいるが、君依の瞳は黒オニキスのように真っ黒だった。
「ねえ、お願い、聞いて。お願いだから……!」
「何なの、一体」
娘の懇願が少しは響いたのか、君依は大人しく耳を澄ます。
「赤ちゃん、生まれたんだよ。わたし、結婚したんだよ。いっぱい仕事したし、色んなものを見てきた」
「だから、何なの」
「子供が出来て、ちょっと分かった気がしたの。お母さんのこと。だから、仲直りしたくて……」
重々しい雰囲気の中「はぁ」と深いため息が響いた。
「何言ってるの。あなたが駄々をこねてるだけでしょ。もう満足した?」
「え……」
理咲は目を伏せて、母の手首を握る力を強くした。そのまま握りつぶしてしまいそうな程に、強くなっていく。その時だった。
おぎゃあ、おぎゃあ、と。
赤ん坊の君乃が泣き始めた。不穏な気配を察したのだろう。その声を聞いてようやく、千里はハッと気づいた。自分が守らないといけない、と。
「もういい加減にしてください!」
千里が肩を掴むと、君依は面倒くさそうに振り向く。
「何、あなた。邪魔だから」
千里は自分に向けられた冷たい視線に、理咲が縋りついた。
「わたし、好きなの。この人がこの世界で一番好き。
ねえ、お母さんはどうだったの? 死んだお父さんの事が好きだったんでしょ。別れたお父さんのことも……」
君依の顔を見た瞬間、息を呑んだ。
瞳が揺らいでいた。しかしそれは愛情のせいではない。憎しみがメラメラと燃え上がっていた。
「あの人達の話はするなって言ってるでしょ!」
まだ怒りが収まらないのか、矢継ぎ早にまくし立てる。
「あなたはわたしが守らないと生きていけないの! ほら、実際こんなにやせ細って髪もボサボサ。昔はあんなに小綺麗でかわいかったのに……!」
そう言いながら、そっと理咲の髪を撫でた。妊娠や出産のせいで痛んでいる。
「ねえ、わたしはお人形なの?」
「そんなわけないじゃない。あなたは大事な大事なわたしの娘なの」
その言葉を受けて、理咲の抑え込んできた感情が爆発した。
「じゃあ、もっと、わたしの言葉を聞いてよ! 見てよ! お母さん、わたしのことを叱ってばかりで褒めたことないよね!?」
「だから、それはあなたが言うことを聞かないからでしょ!」
「聞かないのはどっちなの!?」
理咲が唾を飛ばして、悲鳴じみた声を上げた。すると、君依の様子が変わっていく。
「なんで、そんなこと言うの……? ひどいじゃない」
突然、泣き出したのだ。さめざめと、悲劇のヒロインのように。さらには――
「ねえ、お願いだから帰ってきて。もうわたしにはあなたしかいないのよ」と涙まじりに訴えかけていく。
君依の弱々しい姿を見て、理咲の目尻が自然と下がる。
「わたしはわたしの幸せを見つけたの。だから、もう大丈夫」
「あなたの幸せはこんなものじゃない。もっといい
一瞬、世界が凍った。唯一動いていたのは君依だけだった。
理咲は理解してしまった。君江が流す涙も嘘で、道具に過ぎないのだ、と。君依という人間は同情を誘って、自分の言うことを聞かせることしか考えていない。
それに、娘の気持ちを考えても、察してもいない。
そんな人間が、唯一残った親なのだ。
「あなたなんて、わたしの――人の親じゃないっ!」
「なんですって!?」
君依は金切り声を上げながら、理沙に飛びかかろうとした。しかし千里がすぐに羽交い絞めにして取り押さえた。理沙は体を丸くして、子供を守ることしかできなかった。
騒ぎをききつけて看護師たちが部屋に入ってきて、更に騒動は大きくなった。
結局、君依は警備員に連れ出されていった。
「いいわよ! 後悔するわよ! あなたは私がいないと生きていけないんだから!」
最後にそう言い残していった。
事態が落ち着くと、理咲はポロポロと大粒の涙をこぼした。
「わたしがワガママを言ったから、ごめんなさい」
「大丈夫。理咲のせいじゃないよ。大丈夫。大丈夫だから……」
千里はささやき続けた。
繰り返し、何度も、何度も。
自分のふがいなさを噛みしめながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます