千里の先に咲き誇る②

 妻は——青木理咲りさは、強い女性だった。


 若のように臭くても、自分ののために生き、最後には必ずき誇るような笑顔を浮かべる女性だった。


 いつでも破天荒だった。だけど、それは結婚した後のことで、出会った頃は物静かな令嬢だった。


 その生き様の変化は、生みの親に対する反発心のせいだった。


 青木祖母――赤石あかいし君依きみえから生まれた理咲の人生は、最初から明るかったわけではない。


 むしろ暗い期間の方が長かった。


 最初の悲劇は、最初の父親が亡くなったことだ。帰宅途中、交通事故に巻き込まれたのだ。物心がつく前での出来事で、理咲は何も覚えていなかった。


 それからしばらく、君依は女手一つで理咲を育てた。しかしすぐに限界を感じたのだろう。新しい父親が迎え入れた。


「やあ、私が新しいパパだよ」


 初めて家に来たときは、とても優しそうに見えたらしい。理咲はすぐに懐いて、正式に家族となった。


 経済力があり、社会的地位も高く、見た目も気立てもいい。


 それだけ見れば父親として理想的な存在だっただろう。しかし大きな問題を抱えていた。


 数年は平穏な日々が続いた。


 だが、二回目の悲劇は突然起きた。


「お母さんには内緒だよ。いいことを教えてあげる」


 理咲は血の繋がらない父親に押し倒された。まだ初潮も迎えていない時期だった。

 

 されている行為の意味も分からず、イヤという感情を押し殺す日々が続いた。夜になるたびに逃げまわったり、抵抗しようとしても意味はなかった。それどころか、新しい父親の嗜虐心しぎゃくしんを刺激してしまっていた。


 行為は徐々にエスカレートしていき、抵抗をやめて恐怖を受け入れ始めた頃だった。


「なんで……?」


 君依に、行為の現場を目撃されてしまった。


「なんでわたしじゃないの!?」


 最初に出てきたのは、娘を汚された母親としての怒りではなく、裏切られた妻としてのひがみだった。


「ぁ……」


 二人の大人が言い争っている中、理咲はポロポロと静かに泣いていた。


 絶望とともに、どこか安堵していた。


 どんな形であれ、悪夢から解放されたのだ。


 その後すぐに家族は破綻した。新しい父親はどこかへと消え、二人だけになった。いや、もう二人の間の家族や親子という関係は壊れていたのかもしれない。


 君依は何かにとりつかれたかのように、仕事に打ち込みだした。元々仕事に対する適正があったのか、めきめきと頭角を現し、昇進し続けた。


 そして、理咲を束縛するようになった。


「わたしにはあなたしかいないの」


 それが君依の口癖だった。


「わたしにはあなたしかいないのっ!」


 中学生から大学生の間。思春期も反抗期も、ずっと監視されていた。反抗すると食事すら与えられず、独りで生きていけない理咲は我慢し続けるしかなかった。


「あなたはわたしの言うことだけを聞けばいいの!」


 携帯電話の履歴を盗み見ることなんて序の口だった。机の中どころかノートの隅々まで確認された。


 女性の家庭教師をつけ勉強時間を管理し、進路は名門の女子校と定めていた。挙句の果てには友人関係までも監視されていた。


「あなたはわたしのものなんだから!」


 徐々に、抗う気力は無くなっていった。間違っていると分かっていても抜け出す気すらおきなくなった。


 女子短大を卒業すると、君依は理咲を自分の会社に就職させた。


 そして、そこで千里と理咲は出会うことになる。


 僕——青木千里と赤石理咲が出会ったのは、会社の給湯室だった。


 その時の千里は就職したばかりで、理咲のことは何も知らなかった。幹部の娘であることも、彼女の境遇も……。しかし一目見た瞬間に目を離せなくなってしまった。


「あぁ……ああ……ァアアアアア!」


 一目惚れだった。その時の理咲はとても儚い雰囲気をまとっていて、まさに深窓の令嬢で、どストライクだった。その内にそんなはかなげなイメージは粉々に砕け散るのだが。


 気づくと理咲の姿はなかった。とっさに時計に目を向けると、三十分も過ぎていた。それほどまでの衝撃だったのだが、その後すぐに上司の怖さを知ることになった。


 次の日から、猛アタックが始まった。


「付き合ってください!」

「……え?」


 恋愛経験のなかった千里には駆け引きという考えはなくて、とことん押し続けた。


 何も知らない状態から告白しても、色良い返事がもらえるわけでもなく、何度も玉砕した。かと言って、告白以上に自分の愛情を表現する方法がわからず、壊れたラジオのように繰り返した。


「付き合ってください!」

「またですか……?」


 どんなに猛暑の日でも、寒波の日でも、転勤の辞令が出ても、顔を合わせれば告白をしていた。なお、転勤は仕事をおろそかにしてしまったせいだ。


「付き合ってください!」

「はいはい。おはよう」


 そんなことを繰り返しているうちに、千里の告白は挨拶のような扱いになっていた。


 そして、理咲は千里に対して打ち解けるようにもなっていた。


 理咲が花よりもパワーストーンを好むような女性だとわかった頃。関係性が大きく変わるような事件が起きた。


「やあ、偶然だね。付き合ってください」

「おはよう。ストーカーだよね?」


 その日、いつものように偶然を装って、外出先で待ち伏せをしていた。その時期、君依が病気にかかっていて監視の目が緩んでいたのだ。


「まあ、来ると思ってたけど」


 理咲はクスクスと笑って、手をつないでくれた。


 それからしばらく、二人でいろんな店を回った。だけど、夕日が顔をのぞかせたタイミングで、ポツリと大粒の雨が落ちた。


 ザアアアアアアアァァァァァ、と。突然雨が降り出したのだ。


 夕立ち――狐の嫁入りだった。


 雨宿りとして入った宿泊施設がラブホテルだった。


「なんだかドラマみたい」


 千里は顔を強張こわばらせていたのだが、理咲はどこか楽しそうにしていた。


 それからは、まるで台本があるかのように自然な流れだった。


 部屋に入って、シャワーを浴びて、カビ臭いベッドの上で抱き合った。


「いいの?」


 千里がそう訊ねると、理咲は頬を膨らませて顔を胸板に押し付けた。


 それからのことはあまり覚えていない。とにかく無我夢中で、行為に及んでいた。


 その中で覚えている数少ない光景は、理咲の表情だった。


 欲情しているのではなく、怯えていた。


「――――――」


 その時、千里は何かを言った。ほとんど無意識に出た言葉で、記憶に残っていない。


 それでも、その後の顔はよく覚えている。


「ありがとう」


 お礼を告げると、理咲の表情は少しずつとろけていった。

 

 行為後。


 誰にも促される訳でもなく、理咲はポツポツと話し始めた。自分の身の上話を、だ。


 早くして実父を亡くしたこと。養父に襲われた話。母親の束縛。話せば話す程、言葉に嗚咽が混じっていった。


「ごめんね……ごめんね……汚くて……ごめんなさい」


 話し終えると、理咲はひたすら謝っていた。親の逆鱗に触れてしまった子供のように見えて、千里の体がゾクリと震えた。


 衝動的に抱きしめて、頭を撫でた。


「ありがとう。ありがとう。ありがとう」


 自然と感謝の言葉が漏れ出ていた。何に対しての感謝なのか、口にしている本人もわからなかった。


 ただた、感謝の言葉を述べたかったのだ。


「わたし、なにもしてないよ……?」


 理咲が涙声で言うと、千里はしばらく呆けてから


「生きてて……出会ってくれてありがとう」と答えた。


 千里の目には、理咲という女性が奇跡の存在に見えていた。


 これほど美しく生まれてきたことも、つらい目に遭っても生きてきたことも、そしてなにより自分の目の前にいることが、奇跡以外に表現できなかった。


「そっか、わたし、よかったんだね……」


 そうつぶやいた後、笑顔で涙を流していた。


 それからの行動は早かった。


 一緒に遠くに駆け落ちして、数か月後に籍を入れた。


 そして理咲は一皮むけた。いや、剥けすぎてしまったのかもしれない。


「今日もお仕事?」

「うん、今大きな仕事を任せられてて」

「それでも最近帰りが遅いよ。つらくない?」

「ううん、今すごく楽しいよ!」


 今まで我慢してきたものが跳ね返った結果だったのだろう。かなり活発的に働くようになった。


 出会った頃の深窓の令嬢然とした雰囲気は微塵もなくなっていて、人懐っこい笑顔を見せるようになっていた。


「なに? わたしの顔に何かついてる?」

「いや、今の理咲もステキだなって思って」

「でしょ?」


 理咲のはにかんだ顔を見て、千里は思わずキスをした。


 この時期の日常は幸福に満ちたものだったが、とことん振り回されていて、とても刺激的だった。


 例えば。


 少し帰りが遅いと思って電話した日のことだ。


「ねえ、今どこにいるの?」と千里が訊ねると

『沖縄』と理咲はサラリと答えた。

「オキナワ!?」


 こんなことはしょっちゅうだった。


 職は転々とするし、沖縄から北海道まで、縦横無尽に駆け回っていた。あまりにも忙しい時は、全く連絡がないこともあった。


 それでも理咲は常に楽しそうに笑っていて、千里はそんな姿が大好きだった。


「ただいまー。疲れたぁ」

「おかえり。お疲れさま」


 千里は理咲が家に帰ってくる瞬間が好きだった。


 まるで暖炉が灯ったかのように明るくて暖かくなる。その瞬間、僕の居場所はここなんだ、と強く信じることが出来た。


 そんな暖かい日々は永くは続かず、大きな転機が訪れる。

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