蛇足話

千里の先に咲き誇る①

 男性はゆっくりと歩いていた。


 一歩一歩を踏みしめるように、子供の歌声を聴いている観客を掻き分けていく。


 観客席から出ると、ポツンと孤立したベンチに年老いた女性が座っていた。


(また痩せたな)


 まるで枯れ木のように細い四肢に、ギョロリと突き出た目。頬にはモミジのような赤い痕が残っている。


 その姿を見ているだけで、ある人の面影が重なる。


(理咲、これでいいんだよな)


 もういない妻に訊いても、何も返ってこない。しかしそれで十分だった。


 覚悟を決めて、女性の前に立つ。


「ご無沙汰ぶりです。覚えていますか、青木千里です」


 男性――青木父が頭を下げると、女性――青木祖母は顔をゆっくりと上げた。


「あなた……」


 青木父の姿を認識した瞬間、生気のなかった老婆の瞳に炎が燃え上がっていく。


 老婆は立ち上がって、胸倉を掴む。


「娘にどういう教育をしてるわけ!?」


 あまりの迫力に、青木父は一瞬たじろいだ。しかし逃げ出すわけにいかなかった。逃げた先には守りたいものはないことを知っているからだ。


 背中を押してくれなくても、応援してくれなくても、この世界で生きてくれているだけで支えられる。


「僕は、娘たちには自由に生きてほしいと願っています」 

「暴力が自由なわけないでしょ?」

 

(あなたが言えたことじゃない)


 青木父は言いたいことを呑み込んで、冷静な口調を取り繕う。


「違います。あなたが娘たちの自由を、努力を、踏みにじろうとしたからですよ。僕は娘が間違ったことをしたとは思っていません」

「私が間違ってると言いたいわけ!?」


 青木父はふと考える。自分は娘たちのお手本になれているだろうか。自分のちっぽけな背中は、正しいことを伝えられているだろうか。

 考えれば考える程、娘たちに怒られた場面しか思い出せなくて、思わず自嘲じちょうしてしまう。


 そんなダメな父親だけど、自分は娘に愛されている。その自信だけは揺るがなくて、目の前の青木祖母に問いかけたくなった。


「あなたは娘に怒られたことがありますか?」

「あるわけないでしょ。親なんだから。それがなんなの?」

「そうですよね。あなたはずっと、そうやってきたんですよね」


 青木父が不敵な笑みを向けると、青木祖母は不快そうなに眉根を寄せた。


 その顔が、昔の顔――楓に「あなたが死ねばよかったのに」と告げた時の顔に重なって見えて、胸が締め付けられる。


 それほどのトラウマだった。青木父にとっては、青木祖母は恐怖の大王に他ならない。顔を見せるたびに家族をメチャクチャにして去っていく災害だ。


(それでも、娘たちのために……!)


 優男がありったけの勇気を振り絞って、口を開く。


「覚えていますか? 君乃が生まれた日のこと」

「君乃……?」


 まるで初めて聞いたような反応だった。青木父は奥歯を噛みしめながらも、説明を噛み砕く。


「一人目の娘――あなたの初孫です」

「ああ」


 青木祖母は無関心な声を漏らすばかりで、反応が薄い。それでも青木父は淡々と話を続ける。


「あの日、理咲は君乃の顔を見せて、名前をあなたに伝えたはずです」

「それがなんなのよ。当然でしょ」

「当然、ですか」


 なら祖母が孫の名前を覚えるのも"当然"なはずだ。目の前の女性は"当然"を一方的に押し付けている。それが凄く腹立たしくて、つい語気を強まる。


「それが理咲にとって、どれだけの思いだったと思っているんですか!」

「私は親なんだから、それぐらいしてもらわないとね」

「それぐらい……」


 あっさり放たれた言葉に、青木父はやるせない気持ちになった。歯を食いしばると、つい舌の先端を傷つけてしまって、口の中に血の味が広がった。


(きっと考えもしなかったんだろうな)


 妻がどれだけの想いで、出産を伝えたのか、娘に会わせたのか。


 あの時を思い出すだけで胸が締め付けられる。

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