ローリエ
水奈川葵
ローリエ
「おい、葉っぱ入ってんぞ!」
夫が怒鳴ってきて、ポイとカレーの中からつまんだローリエの葉を、テーブルの上に投げ捨てた。
「カレーもまともに作れないのかよ。っとに、お前は何もできない奴だな」
夫がイライラした様子で言っている間に、私はテーブルの上、ちょうど真ん中に敷いたテーブルランナーの端にペッチョリ落ちたローリエの葉を拾い上げて、キッチンへと向かった。三角コーナーへとポイと投げると、内側の側面にペトリとついた。
軽く手を洗って席に戻ると、テーブルランナーについた茶色い汚れをぼんやり見つめた。
祖母の形見の袋帯をリメイクしたテーブルランナー。
これを初めて夫に見せたとき、リメイクだと言うと「貧乏くさいことするな」と言われた。白からグレイにグラデーションがかかった、私としてはシックで格好いい帯だと思ったが、夫の思う帯のイメージと違っていたらしく「金がないから、こんな地味なものしか買えなかったんだろう」と言ってきた。
後に夫の会社の同僚で、男の人にしては珍しく着物を着るのが趣味だという人が来て、このテーブルランナーを見るなり、すぐに食いついた。
「これ、いいですね。もしかして、リメイクされたんですか?」
「えぇ、そうなんです。祖母が着道楽で……そのまま二束三文で売るのも勿体ない気もして……」
その後に話の流れで、そのテーブルランナーが桐生織の一点ものだったと言うと、夫はムッとなって言った。
「なんだ、なんだ。いいものだったんなら、どうしてこんなつまらないもの作ったんだ。どうせお前、帯の価値も何も知らずにやったんだろう。馬鹿が」
吐き捨てるように言って私をなじる夫に、その同僚の人はひきつった笑顔でとりなし、それとなく話題を変えた。
やさしそうな人だった。丸顔で、少しだけお腹の出た、背も夫に比べると低い、いわゆる冴えないタイプに見えたけど、笑う顔がやさしくて安心できた。なんとなく、父と重なった。
父もその人と同じように、そのへんを歩いていても誰も見向きしないような、平凡な人だった。
年々、太っていったけども、他人の目を引くほどではない。背も163センチで成長の止まった娘よりはかろうじて高い程度。物持ちが良くて、私が生まれる前からしている黒眼鏡を、レンズだけ時々変えて使い、三足の革靴は自ら丁寧に週末に磨いていた。
これといった趣味もないが、家にいればずっと本を読んでいた。基本的には無口で、おしゃべりな母の話も聞いているのか聞いてないのかわからない感じで、それでも絶妙のタイミングで相槌を打った。
特に言わなかったけれども、母の作るもったりとしたカレーが好きらしく、帰ってきて玄関にまで匂いが漂っていると、ちょっと嬉しそうに「今日カレーか」とつぶやいた。
母は雑な人だったので、カレーで材料を煮込む際に入れるローリエをいつも抜き取るのを忘れ、そのままルーを溶かし、たいがい家族の誰かの皿にローリエが迷い込んだ。小さい頃には私も文句を言ったかもしれない。けれど、もう大きくなるに従って、カレーにローリエが混ざり込んでいることなど通常運転で、自分の皿に入っていたら、ソッと皿の隅に追いやるだけだった。
父も、そうだった。
文句を言うこともなく、もちろん嫌味を言うこともない。母のカレーをおいしいと言ったこともなかったが、必ずおかわりした。そうしてカレーでも、それ以外の食事においても、必ず食べ終わるときには「ごちそうさま」と丁寧に手を合わせて言い、皿を水洗い場まで持っていくのだ。
それから居間のソファに鎮座すると、続きの歴史小説を読み始める。静かに読書する父に構うことなく、私や弟がテレビを大音量でつけて大笑いしていても、まったく聞こえてないかのように読み耽っていた。
平凡で、当たり前のことを当たり前のようにしていた人だった。
高卒で働きだして、二度目の転職で入った会社には勤続二十五年。そうしてようやく係長になれた……そんな人生。
父がもし夫に会うことが会ったならば、どういう反応をしていたのだろう?
残念ながら、父は私が大学生のときに脳溢血で死亡した。
母と弟は、父と真逆の、いわゆるイケメンで背の高い、営業で成績一番の高給取りだった夫(もちろん当時は彼だった)を紹介され、すっかり舞い上がり、私達の結婚に諸手を挙げて喜んだ。父があの場にいたら、きっともっと違った雰囲気になっていただろう……。
私は食べ終わったカレー皿を洗いながら、三角コーナーの側面に貼り付いたローリエを見た。
「……ウチの家のカレーには、ローリエ入れっぱなしだったの」
なんとなく言ってみると、案の定、夫は軽蔑もあらわに私を見た。
「やっぱりそうか。お前の母親、雑そうだものな。本当に、親子して無神経だよな。今度からはちゃんと取り出せよ。それが料理するモンの当然の気遣いだろ。大してうまくもないカレーを食べさせられるほうの身にもなれよ。店だったらクレームがくるぞ」
「そうね」
私は頷いてから、小さなビニール袋に三角コーナーのゴミを捨てた。カンカンとシンクの縁で叩いて、中身を袋に落とす。ほとんどが袋の中に落ちたのに、なぜかローリエだけは頑固にへばり付いて取れていなかった。
私はなんとなく、そのまま三角コーナーを元の位置に戻した。
「……クレームとか、言わなかったわ」
ボソリと言うと、スマホでゲームを始めた夫が「あぁ?」と面倒そうに返事する。
「ウチのお父さんは、言わなかった」
私は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
夫はもうゲームに夢中で、私の声は聞こえない。
いわゆるキャラクターやアイテムを手に入れるために回す『ガチャ』がハズレだったらしく、ブツブツと文句を言い、新たに手に入れたキャラクターの、(たぶん)胸の大きい女の子に向かって、口汚く罵っていた。
「お前なんか要らねーわ。ハイ、売る売る。オークにでもレイプされてろー」
父の口からは一度として出てくることのなかった台詞を、ソファに寝転がってスマホをいじっている夫は、毎日のように平気で口にする。そばで私が聞いていることもお構いなしに。
私は三角コーナーに貼り付いたローリエを水で洗うと、手に持って、ソファにうつ伏せに寝転んでいる夫の近くまで行った。夫好みの上質なスリッパのお陰で、足音はしない。もっともしたところで、夫が私のほうに振り返ることなど有り得ない。
背を向けた夫の、最近薄くなりだした…と気にしている頭頂部近くに、ローリエの葉をペトリと落とす。
「うわッ! なんだ? オイ!! 水が落ちてきたぞ! スマホ壊れたらどうしてくれんだ? っつーか、なんだコレ? さっきの葉っぱじゃないか。なにしてくれてんだよ!? とっとと捨てろ!」
「捨てたの」
「はァ!?」
「捨てたの。ゴミなんでしょ? だからゴミと一緒に捨てようと思って」
「はぁ? なに言ってんの、お前? 頭沸いてんのか?」
「…………」
夫と出会って初めて、私は彼を見下ろした。
よくよく見れば、大してイケメンでもない。髪型と、月イチのメンズエステで雰囲気的にイケメンというだけだ。
夫はローリエをむしるように取ると、私に向かって投げつけた。
「鬱陶しいことしやがって! フザけたことすんなら、出ていけ!! ここは俺の金で買った、俺の家なんだからな! お前に権利があると思うなよ!!」
その言葉は初めてではなかった。夫にとっては通常運転だ。だから今の私にとっては、渡りに舟だった。
「はい、わかりました」
頷いて、私は部屋から出た。リビングの扉を閉めると、夫が放ったクッションがドアに当たった音がした。それからは、きっとまたブツブツと文句を言いながら、衝動買いよろしくガチャを回しまくるのだろう。お気に入りの女の子が出てくるまで。
私は寝室に入ると、クロゼットを開け、ボストンバッグを手に取った。それはある日、出て行こうと用意したまま、それでも踏ん切りがつかずにそのまま置いてあったものだった。
この家で、私が持っていきたいと思うものは、このバッグの中にすべて詰まっていた。これ以外のものは、何一つ要らない。
祖母の形見で作ったテーブルランナーも、夫がつけたカレーの染みのせいで、途端に価値を失った。持って行ったとて、あの染みを見るたびに祖母ではなく、夫を思い出しそうで嫌だった。祖母には申し訳ない気もしたが、おそらく鷹揚で鉄火肌の祖母であれば、許してくれるだろう。
私はそうして『夫の家』を出た。
私の家ではないから、帰るつもりはない。
【FIN】
ローリエ 水奈川葵 @AoiMinakawa729
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