第3話
前の日曜日の夕方、ましろは姉である下倉部長の部屋に来ていた。
数学の場合の数がどうしてもわからなかったのだ。
自身も試験勉強中であるにも関わらず、姉は快く迎えてくれ、昔のノートを引っ張り出してまであれこれと教えてくれていたのだけれど、途中でお腹が痛くなったからと席を外した。
そのまま姉の部屋に残って勉強していたましろは、ふと隣の部屋から何か声がすることに気付いた。
もちろん、ましろ自身も寮生だから壁の薄いことや、隣人が常田先輩であることも知っていたから気に留めなかったし、特別驚きもしなかった。
「でも、何度も同じ文章を繰り返されるので、覚えちゃって……。そ、それでも生徒会の会議の原稿か何かなのかなって考えてたんです。そうしたら今日の『わたりこ』の更新で……」
「先輩の呟いていた文章がそのまま書かれていた、というわけなんです」
話の間も、終わってしばらくの間も、床に座った私たちの周りを常田先輩はぐるぐると歩いていた。
難しい顔をしているので私は不安に思ったのだけれど、やっと顔を上げた先輩はきっぱりとした顔でうなずいた。
「なるほどね。言い逃れはできないみたいだ」
「それじゃあやっぱり先輩が?」
「うん。そうだよ、私が紅星ゆきの」
「じゃ、じゃあ、取材を受けてくださるんでしょうかっ!」
ましろが身を乗り出すようにして言う。そのせいでさっきまで抱えていたクッションが太ももの上で潰れてしまっている。
「それは、できないかな」
と常田先輩はすまなさそうに首を振る。
「どうしてですか……?」
「うーんとね、明星ゆきのはずっと交流を避けてきた。SNSもやっているけれど、更新の告知用に使っているだけで、読者とも、作家仲間ともやり取りをしたことがない。インタビューを受けたこともない。何故だと思う?」
「身バレを避けるため、ですかね……?」
「それ、あるかも。エッチな描写とか結構あるし」
「ははは……。それもあるけれど、一番大きいのは、実在の人々をモデルにしているからだよ。『わたりこ』の牧村先生が英語の牧岡先生だってバレたら、牧岡先生はどう思うだろう、周りの人はどう思うだろう」
そうですね……とましろが小さくなるのが横目にもわかった。こんな風にすぐに納得してしまうのが彼女の欠点でもあり、長所でもあり、そして私の好きなところでもある。
無茶を通すのは私の仕事だ。
常田先輩の目を見つめる。
わかってくれたかい、と微笑む彼女に、私は声を張り上げた。
「だったら、作品については書きません。『紅星ゆきの』について書かせてください」
「えっと……」
構わずに言葉を続ける。
「紅星先生がどうして小説を書こうと思ったのか、なんで百合ものにすることにしたのか、ネタはたくさんあります。私も小説家を目指していますので、ネタを膨らますのなんて朝飯前です。出来上がった原稿を提出する前にお見せします。駄目な箇所を削ってしまっても大丈夫です。だから、どうかお願いします! 少しで良いので取材を────」
「それでも私はできないよ。少なくとも時間が欲しい。別の日にもう一度話そう」
私は答えずに立ち上がって、お尻を乗せていたクッションを退け、もう一度座り直した。
「かくなる上は……」
うろたえる先輩の前で、私は額を床につける。
「この通りです!」
「ちょっ……」
「わわ、わ、私も────」とましろも隣で土下座する。「お願いしますっ!」
「もう後がないんです! 明日が締切なんです!」
「さーちゃんが一面を貰えるなんてもう二度とないかもしれないんです!」
「そんなことないけど! いや、そうかもしれません!!」
「だからどうかっ!!」
「どうか!!」
「二人とも顔を上げて……」
私は言われた通りにして、だけど代わりに懸命に先輩の顔を見つめる。彼女は逃げるように顔を背けた。これは何とかしてあげたいけれど……と内心思っている証拠だ。できないのならさっさと断るはずで、困っているということは承諾してもらえる余地がある。
これはいけるぞ、とましろに目配せした瞬間に先輩が言った。
「代わりの原稿はないの? 今日まで何もしていなかったわけじゃないよね」
今度は私が目を伏せる番だ。
「それはそうなんですが……」
「ほら、あるんじゃない」
「えっ、そうなんですか!? 私も初耳です」
「それが……。準備していた記事は一応あるんですが、その、先輩の隣人の方に、もっと万人受けするものをって没にされちゃって……」
「それで黙って……。お姉ちゃん、文章に厳しいですもんね……」
「ああ……」と先輩は額に手を当てる。「それは、知ってる。あの子は拘りが強くて、頑固で……、うーーん……」
先輩はさっきと同じように目を閉じて考えごとを始め、そしてやはりさっきと同じような表情でうなずいた。
「いいよ。取材を受ける。でもボイレコは駄目。私の名前をメモするのも禁止」
「ありがとうございます!」
私たちは声を揃え、目を輝かせてそう言った。
「さあ、ペンを取り出して。早く始めよう。締切は明日なんだよね?」
そうして始まった取材なのだけれど、私はどうしても集中できなかった。
何か違和感があるのだ。
記事と夢のために意識を研ぎ澄まさなければならないのに、それが気になって仕方がない。
私の異変を察してか、いつの間にかましろが取材を進めてくれていて、私は隣でぼんやりとメモを取るだけだった。
「書く時に心がけていることは?」
「読む人みんなが楽しめること、かな。あれ、もういいの、棚橋さん」
「え?」
自分でも気付かないうちに私は突然立ち上がっていたみたいだ。
「はい、十分です。本当にありがとうございました。それから──」
私は言葉に力を込めて続けた。
「記事、よろしくお願いします」
「さーちゃん? 一体どうい────」
ましろが言い終える前に、私たちの後ろでドアが開く音がした。
続いて聞き覚えのある声がする。
「こと〜〜! 次の話もできたよ〜〜〜! いっっっぱいよしよしし……て…………」
そうやって入ってきた声の主は、私とましろを見つけると驚きのあまり立ち尽くしてしまった。
喉のところまで来ていた言葉だけが止まらずに漏れる。
けれど、突然のことに呆然としてしまったのは私たちも同じだ。
口をぽかんと開け、お互いの姿に目を丸くする。
長い沈黙を破ったのは、ましろの小さな声だった。
「……おねえ、ちゃん……?」
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