メゾン・ド・ミヤビ

凍 りおん

メゾン・ド・ミヤビ

 テナントのカレー屋から漂う匂いは料理ではなく食材の香りだった。ぴったり閉じた自動ドアの隙間から漏れるスパイスの芳香は、果たして何年前から発されてきたのだろうか。

 照明の落ちた店内を覗くと、外の光に反射して私の姿が窓ガラスの表面に映った。「ランチ:12:00~14:00 ディナー:17:00~20:00 定休日:木曜日」半透明になった私の虚像に重なった文字を読みながら、いよいよ状況は言い訳の効かない段階に来つつあるのを感じた。


 煮込み時間を売り文句にしている欧風カレー屋はレストラン街の外周ではなく廊下と廊下の間に陣取っており、ウインドウは横に長く奥行きが短い。ガラスの向こうの壁に辛うじて見えた掛け時計は5時過ぎで止まっていた。今の時間とあまり変わらない。


「えーっと」

 隣に並んだみやびの鏡像が口を開く。

「今日って火曜日だよね?」

 横から聞こえる彼女の疑問はあまりにも今更で、私に理解を促すために驚いてくれたようにさえ思えた。


「定休日が書いてあるパターンは初めてだったね。まあ意味なんてないけどさ」

 そうは言っても、ここに来るまでに見かけたハンバーガー屋と喫茶店に定休日の表示が見つからなかったのは、不親切ではなくそもそも休みの曜日が存在していないからだろう。

 ここは既に廃墟になっているはずだから営業していない事自体は当然だが、その割には一帯が綺麗すぎた。照明と清掃が隅々まで行き届いている廊下と、ここが無人で、地元では廃墟扱いされているという事実がどうしても結びつかない。


 『準備中』の札がかかった入り口と、店内にしまわれたメニューの黒板を雅が交互に見て「うわあ」と声を弾ませる。

「見てこれ、学割適用可能のアボカドシュリンプカレーだって」

「なんでお腹すくようなことを口にするの」

 小さなお腹が訴えを起こす音すら聞こえるレストラン街で、私たちは未だ食糧にありつけないでいた。


 先に言っておけば、私と雅が体験したことは人類の大半が死滅したディストピア社会での出来事でもないし、薄黄色のバックルームみたいな無限ループする空間で顔が怖くて身体がキモくて脚が速い化け物に追われるような顛末もない。

 あの無人レストランで私と雅が体験したことは、都心から二、三時間ほどの距離にある片田舎で起こった、廃墟のような場所にはつきものの奇怪なイベントの一つに過ぎなかった。


§


 私の住む地域が著しい人口減少を始めたのは、私がまだ愛くるしい笑顔を忘れていなかった10年前のことだった。ここに居住することは死と隣り合わせであるという昔からの指摘を、住民は秋口に赤道から生まれた空前絶後の巨大台風をもって思い出すことになる。

 避難指示が功を奏して死傷者は少なかったが、近場を流れていた大河川の氾濫が引いた後の光景は社会科の資料集に残っていて、私には神様が家を使ってサイコロ遊びでもしたかのように見えた。


 授業で私達は災害の悲惨さを繰り返し説かれたが、小学校に上がる頃にはその話を理由に引っ越したがるという人間は既にいなかった。

 他の街に居場所がないと悟ったのか、この土地に愛着があるのか、そのどちらでもあった私は、河川沿いに並んだ廃墟の数々をこっそり探検し始めた。中学のときに思いつき、今の高校二年までその情熱のままに、廃墟の写真データをネット上で二束三文で売るようにまでなってしまった。


 廃墟を訪ねるのは私のライフワークだ。廃墟の中を見るのは怖いけど探究心を刺激される。廃墟でぼんやり時間を過ごすと落ち着く。そして廃墟では時々とんでもないものと出会う。

 値打ちのありそうな骨董品に始まり、生き物の亡骸まで、数え上げればキリがないが、一番の掘り出し物は、宮内雅だ。


§


 元は洋館か何かだった廃墟で雅と出会った時、私は彼女を天使か悪魔か判断しかねたが、少なくともそのどっちかだと思った。多分私が知らないだけで、ああいう構図の宗教画が世界の何処かで大事に保管されている気がした。


 純白のドレスには泥一つ跳ねておらず、両手で包み込むように持っていたのはサバイバル目的を逸脱したサイズのナイフ。私が脚を踏み込んだ部屋にはガラスがちゃんと嵌められていた状況のよい建物であり、窓枠から差し込む夕日が天井に沿った直角三角形になって、腐食したタイル張りの床の影を濃くしていた。

 繊維や砂が微小にほどけて白い埃となって部屋中に散乱していたのすらも、何か天からの啓示めいたものを感じていた。いつもなら雑草だらけの外から聞こえてくる気の早い蝉の声も、その時ばかりは空気を読んでいたのかひどく静かに感じられた。


 どこの誰かも知らなかった――そもそも人間かどうかも怪しかったけど、無意識のうちに首から下げたカメラに手が伸びた。向こうも撮影目的だったらしく、手前に立てられた三脚とスマホは視界の妨げになっていた。

 廃墟というのは足跡がよく響く場所で、ネズミの走る音だって聞こえる。

 階段を登ってヤバげな女子にエンカウントした私と相手の視線が交差した。絶望模様の表情の圧は、私が逃げようとしたところで足を滑らせて背中から落ちても追ってきた。建物に衝撃が伝わって、三脚が倒れるがしゃんという音がする。

 彼女の顔がそばにあった。透き通るような白い肌と長い睫毛。同い年くらいに見えたがこの辺りの子じゃないんだと一発で分かった。メイクの雰囲気が違いすぎるし、こんな美人がいたら絶対噂になっている。


「こ、こ、こんなところで何してるの!」

 「それはこっちのセリフだ」と言いたかったが、泣きそうになりながらがなり立てる彼女の顔を見て「ご、ごめん」と謝ることしかできなかった。

「失敗しちゃった……」

 そして彼女はドレスの袖口が茶色く汚れているのを見ると、緊張の糸が切れたように泣き出した。訳がわからない。


§


 宗教画という私の連想は当たらずとも遠からずだったらしい。片付けを済ませた彼女が落ち着くまで随分長い時間を要したが、やがて着替えを終えた彼女はコスプレイヤーを自称した。とあるゲームのワンシーンを撮影したがっていたという。

 私達は別の部屋で見つけた比較的綺麗な木造椅子を向かい合うように並べて話していた。待合室か何かの美品だろうか。年季ものにふさわしく無駄に重量があってしっかりしている。


「なんてゲーム?」

「え、教えない。どうせ知らないだろうし」

「まあ詳しくはないからいいけどさ。それにしても本当にあるんだ、そういうの。許可は取ってるの?」

「許可……?」

 おいおいマジかよ。こんなの見つかったら一発アウトだぞ。私も人のことは言えないけどあなたのようなマナーの悪い探検家のせいで探索できなくなった事例が〜などと説教の一つでもしたくなった。

 それでも、彼女の手の甲には立派な虫刺されの痕を見つけてしまった時は薬とスプレーを貸してあげずにはいられなかった。


「恰好もそうだけど、ナイフの持ち込みはちょっと度を越してる。そんなのどうやって用意したの。まさか本物じゃないよね?」

「うちの実家、下町の包丁屋をやってて」

「本物なのかよ……」


 真偽を確かめる手段はない。彼女は変身セットが入っているらしいボストンバックを背にしおらしく身の上を語っていた。こちらに心を許しているようでいて警戒心はがっちりと固められており、彼女の美しさがその敵意をカモフラージュしていた。それが東京から来たという彼女の処世術なのかもしれなかった。


「どっちにせよもう来ないでね。廃墟なんて探せばいくらでもあるんだし」

「ここはあなたの家じゃないし、そんな命令はできないでしょ」

「あなたの家でもない……いや、それは違うか。家から持ち主を取り去ったものを廃墟って呼ぶんだ」

「じゃあ先に見つけた私がここを私の居場所にしたってことでいいでしょ。半年くらいかけてようやく見つけた場所なんだから……」

「は? ちょっと待って、ネットとかの情報で見つけた訳じゃないの?」

「違うよ。自分でいろんな廃墟を下見したの。最初はただ綺麗なスポットを探すためだったんだけど、だんだん楽しくなっちゃって」


 まさかの同じ好事家だった。こんなに素人っぽい動きをしているのに、見た目に反してがむしゃらに動くタイプなのか。


 彼女が言うには、ここが彼女の目的のためには一番ふさわしい場所だったそうだ。その言い分はよく分かった。曇ったガラスでセピア色になったレトロな洋室と、羽でも生えているかのように軽やかに佇む彼女のことを、私はまだ忘れられないでいる。鼻から顎にかけての横顔が美しい雅はため息をついた。


「でもどうしよう、10万円なんて持ってないよ……」

「10万円?」

 どうも彼女の話は要領を得ない。独り言の口調で、曖昧な部分を作ってこちらの発言を誘導しているような……

「あの衣装レンタル品だったの。綺麗にして返せないと弁償しなきゃいけなくなっちゃう」

 どんな高級品だったらたかが土埃のクリーニングにそんなにかかるんだ。けど、世の中には本当にそういう私の理解を超えた衣食住が存在するし、私のみすぼらしい長袖長ズボンと比べて、あのドレスはひと目でそういう価値のものであることが分かった。こんな衣装をどうやって洗濯するのかは想像できなかったが、次に続く言葉は容易に想像できた。


「弁償して」

 してやろうじゃないか。

「はあ……とりあえずこれどうぞ。足りないけど」

 仕方なくブーツと靴下の内側に仕込んでおいた一万円札を二枚差し出すと、今度は彼女が狼狽える番だった。嘘泣きも忘れてのけぞっている。

「え? え? 本当にいいの? こわい、っていうかこのお金なんなの……?」

「あなた本当に探検者? 何かあった時のために現金くらい用意しておくものだと思うけど。汚しちゃったのは確かに私のせいだし、面白いもの見せてもらったしね」

「面白いって……」

 今度は絶句する。本人にとっては大事なことでも傍から見たら余興程度のものだったりするものだ。私の廃墟巡りを周囲が見て見ぬふりするのも、そういう理由。


「これで残りが八万円なわけだけど……ねえ、その衣装のレンタル期間ってどれくらい?」

 その時の私がどうしてあんなことを聞いたのかを振り返ると、やはり私は既に宮内雅という人物に、何か親しさに近いものを感じていたのだと思う。本当はそれ以上の感情だったのかもしれないけれど、『親しさ』より上位の感情は恥ずかしくて自分では言えない。


「? 今月末だけど……」

「三週間か、結構長いね」

 なにか引っかかったが、その時の私にとってはどうでも良かった。

「ねえ、残りのお金も返してあげてもいいよ」

「本当!? てかさっきからなんでそんなお金あるの!? あなた実はすごくお金持ちとか?」

「いや……実は私、」

 一瞬躊躇する。自分のことを虚実を混ぜて語ること以上に恥ずかしいことがあるだろうか?


「私、廃墟の写真を撮って売ってるの」

 これは本当。


「背景画像としての需要も結構あって、今でもそこそこ売れているんだけど」

 これは嘘。これまでの稼ぎは1000円もないし、残りのお金を払う準備は別にある。


「人物を写り込ませることはなかった。私はまあ、顔も普通だし自撮りには興味ない。でも人を撮ることには興味がある。もしあなたみたいな綺麗な女の子が被写体になってくれたら、廃墟を使った写真集できっと残りのお金くらいは返せる」

「何を根拠に」

「根拠なんてない。でも確信がある。あなたの儚い雰囲気が廃墟に似合うと思っただけ。この辺で良い場所を知っている私と組めばそこらのモデルの写真集には絶対負けない」

「……人が一番、自分について過大評価する能力って何か知ってる? 審美眼だよ。自分が良いと思ったものは世間的にも価値があるなんて、無邪気に信じちゃってるんでしょ。そんな訳ないのに。私にはあなたの人を見る目がまともだなんてとても思えない」


 私はそんなんじゃない、とかぶりを振る彼女に、段々腹が立ってきた。理屈をこねてはいるが衣装を綺麗にしないと詰むという事情を設定したのは彼女なのだ。

「でも、お金は必要なんでしょ? 十万どころじゃないかも。高校生二人が遊ぶには有り余るくらいのお金が手に入ったりして」

「……それって、大学の学費くらい? あ、ごめん、今の忘れて」

「忘れられるわけなくない?」

 隙を見せているのか、それとも誘いをかけられているのか。私が押しを強くすると彼女の心は揺れた。恋愛経験は生まれてこの方なかったけれど、人の思いが望んだ方向に傾いていくのを見るのは、静かながらも抗いがたい愉悦だった。


「もうなんでもいいよ。今の状況を脱せられるなら」

 彼女は俯きながら裾についた泥の痕をなんども頬に擦って疲れたように笑った。彼女の笑顔は触れれば脆く崩れてしまいそうな作り笑いで、私の脳内に焼き付いた。

 さっきから自分の身に起こっている変化がよく分からなかった。彼女の仕草ひとつひとつがひどく印象に残って離れない。なんだか急に自分の記憶力が良くなったみたいだ。


 彼女は宮内雅と名乗った。忘れることはないだろう。私も乙井三春おといみはると名乗った。


§


 私は一人が好きだとばかり思っていたが、共通の趣味を持つ人間がそもそも身近にいなかったから、勝手にそう思い込んでいるだけだったらしい。


 廃墟めぐりを雅と二人でするようになってから、私が元来この活動に抱いていたセンスオブワンダーはむしろ深まった。掘り出し物が見つかったり写真映えするスポットに出くわすたびに、私の興奮は雅に指摘される。時々、野良犬や湿地に湧く虫、割れガラスなどによってひどい目に合うことは相変わらずだったが、それすら彼女と体験を共有すると笑い話にできて助かった。


 雅は多くのことを知っていた。私からの二万円と自分の有り金をやり繰りしてなんとかこの近辺で寝泊まりをしているらしく、高校に通っていないのは明白だが勉強はできて、大学に行きたがっているというのも本当らしい。過去が暗そうだったので私から詮索することはよしたし、恐らく彼女も同じ考えだっただろう。


 彼女が詳しいのは主にオカルトのこと、美術、哲学のこと、あるいはサブカルのことで廃墟とは直接関係がなかったが、彼女が語る頽廃的な雑学は、漫然と屋内を観察するだけだった私の目を賢くしてくれた。それは撮影のことなんて二の次になるくらい、私にとって幸福な変化だった。


 問題があるとすれば、雅はあの汚れてしまった純白のドレス以外にロクに衣装を持っておらず、仕方がないから私の野暮ったい私服や学校のジャージ姿を画像に収めたくらいのものだ。スタイルの良さを覆い隠すようになってしまったのは忸怩たる思いだったが、それでも十分綺麗だった。


 そんな日々が一週間続いて、夏休みが始まる。

「三春。私、すごい場所見つけちゃったかも」

 雅は日毎に馴れ馴れしくなったが、それが彼女の素の性格であると考えれば、私にとってはむしろ嬉しかった。何しろあんなトンチキな恰好で耽美にひたる彼女の本性がおどおどしたものである訳がない。


「一人で探索しないでってば。また見つかったらどうするの」

「錆びて倒れたバス停があってさ、なんか雰囲気良いなって思って倒れた方向に辿っていったら東京にあってもおかしくないショッピングモールを見つけたの」

 彼女は私を無視して身振りで大きさを表現する。

「ああ……あそこか」

「なんだ、知ってたんだ」

「そりゃね」

 河川の中ほどにあり、高度も高いからかなり目立つが、行ったことはなかった。お楽しみは後に残しておくタイプだ。いつか探索にふさわしい時が来ると信じていた。それが今だという啓示にはまあまあ納得できる。


「確か、災害のある年に着工されたはず。完成したんだったかな。どっちにせよもう関係ないか。建築物になってから廃墟になるまでの最短記録を競えると思うよ」

 私達は三階建ての廃百貨店を地下階から順に探索する計画を立てた。そして話は冒頭に遡る。


§


 カレー屋の扉には営業時間の他に電話番号も書いており、戯れに雅がかけてみると眼の前のお店のどこかから古めかしいベルの音が鳴り始めた。なんと電話線まで生きているらしい。警告めいたメッセージを感じてすぐに切った。


 商業ビルの地下に入ったレストラン街に足を踏み入れてから、私達二人は一度も営業している飲食店を見ていない。しかし電気と電話線と、ひょっとしたら空調も生きているかもしれない。そういうことって本当にあるのだろうか?

「雅、どう思う?」

 もはやこれが本当に廃墟か疑うか以上に、この場所が現実かどうかを疑い始めていた。


 床にも壁にも浸水の痕がない。一応、地下へ入るための階段は踊り場付近まで茶色い水汚れに苔が点々と生えていたが、ひょっとするとそこからレストラン街に入るまでのあのガラス戸が、割れるまでは高い密閉性を保っていて水の侵入を防いだのかもしれない。あるいは最近人の手が入ったか。しかし誰がこんな場所に?

 雅からの返事がないと思ったら、彼女はゾンビ映画の三下みたいにガラス戸に指紋をつけながら呻いていた。

「お腹すいたあ。どこかにカレー残ってないかな」

「正気?」

「カレーって腐らないってどこかで聞いたことある。ハンバーガーとかもさ、何十年も前のファーストフード店のが、作ったそのままの形でアメリカで発見されたってネットのニュースで見たよ」

「そのニュースには発見者のアメリカ人がコーラ片手に実食してデリシャスって親指立てた写真までアップされてたの?」

「うわ、三春の言い回しまで洋風になっちゃった」


 センサーは死んでいたが、雅が自動ドアのボタンに手をかけると、引き戸と化した自動ドアは簡単に開いた。外まで漂っていたスパイスの香りが濃くなった。

 一回躊躇して、結局私も後に続く。雅の説を信じるわけではないが、この場所が超現実的なものかもしれないという感覚が罪悪感を覆い隠したし、それに食欲もそそられていた。

 調度品に埃もあまり積もっていない。密閉された空間ならば埃の入り込む余地は少ない気はするが、果たしてこの直感は正しいだろうか。天井はよくある白地に黒い小点がついたものだった。

 雅は好きなカレーの具材の話などしながら厨房へと歩いていく。私は広く周囲を見渡し、雅が恐れ知らずに奥へと進む。いつの間にかそういうパーティー編成になっていた。かつての私ではやらなかった領域まで踏み込んでくれる雅を危なっかしいと思うと同時に頼りにしている。


「それでさあ、雅も考察してよこの廃墟について。私はやっぱり、ここだけ密閉性が高かったか立地が良かったかで浸水を逃れたのが現実的だと思う。よほど腕のいい人が建てたんだろうね」

 私も人の痕跡を探して今どき珍しい灰皿やカウンターを物色しながら、遠くの雅に話しかける。

「そうかな、じゃあ私は異世界説を推す。そっちの方が信じてみる気になるから。今までもちょっと不思議なことくらいならあったじゃない? 規模の問題だよ」

「私は心霊現象とか信じてないしなあ」

「心霊じゃないよ。っていうかちょっと意外。三春っていつもキョロキョロしてるからなんか見えてるのかと思ってた……だめだ、調味料しかないや」

「そりゃそうでしょうが、っと、こっちにはお宝が」

 レジの鍵の場所までは流石に分からなかったが、揺らしてみると小銭の音がした。

「……いや、洒落にならん」

 見なかったことにしよう。


 それからしばらく無言で探索が続いたが、

「三春! みてみて、ロッカー空いてた!」

 振り返ると、雅はうなぎですらエコノミー症候群になりそうな狭いバックヤードで制服に着替えて出てきやがった。もうなんでもありか。

「似合う?」

「可愛いよ。やっぱりちゃんとした制服とかあるともっと絵になるね」

「ネクタイの締め方分からないや。三春は締められる?」


 そう言って赤色のネクタイを私の手の上に引っ掛ける。私のジャージから、洒脱なレストランの給仕に早変わりした雅は、襟のサイズが合ってなくて鎖骨が顕になっていた。

 それを隠したくて、首元近くのコットン生地を結ぶ手につい力が入った。「ふ」という呻き声にはっとして雅を見る。笑っていた。

「ふふ、なにすんの三春。息できなくなっちゃうよ」

 言いながら、手を背中で組んだまま彼女は私から離れない。青白い彼女の顔がもっと儚く青ざめたら綺麗だろうなと思った。私はネクタイの先を抓んで下へ下へと引いた。生地がボタン一つ分、二つ分下へと伸びていく。

 「ぐえー」とふざけたように悲鳴を上げる雅。その声はどんどん掠れていって、ちゃんと気管が塞がっていっているのがわかる。それでも彼女は私の眼の前で楽しそうにしていた。心臓の鼓動が速くなる。


 眉を下げながら薄ら笑いを浮かべる雅を見て私は、絶対に聞いてはいけないことを聞きそうになった。


 衣装の持ち合わせが他になくてネクタイも結べない宮内雅。

 ――コスプレって、嘘なんじゃないの?

 あなたはあの秘密の場所で自ら死のうとしてたんじゃないの?

 あの死に装束を自分の血で赤くして、三脚の上のスマホに記録だけ残したいという衝動があったんじゃないの?

 あの画を見た時に感じた耽美的という言葉では説明しきれない、思わず立ち止まり呼吸を忘れてしまうような、迫り来る感動の正体はそれだったんじゃないの?


 私の所為で死に損ねた雅が、もしまだ死ぬのを諦めていないのだとしたら、私がそれを何度でも止めるだろう。


 廃墟で死なれるなんてうんざりだ。


 私が廃墟で発見したい死体は、行方不明になった両親の二人分しかない。数少ない台風の犠牲者のうちの二人が見つかるまで、私はただ使命のように廃墟を徘徊するだけだと思っていて、探索に新しい目的が生まれるなんて考えもしなかった。


「……返却まで、あと一週間だね」

 首元に手をかけてネクタイ緩めると、雅は咳き込みながら椅子の上にくずおれた。彼女は「なにか言った?」と目元の涙を拭った。「目がちかちかする」。

 雅が必要としているお金は両親にかかっていた保険金から余裕で払える。

 稼いでみせると言った写真集は売りに出してすらいない。使い道といえば時々画像を開いてはそこに生きている雅を見てうっとりするくらいだ。

 雅の方から売上の話題を振ってくることはなかった。彼女が私の心の遺留品に薄々感づいているのだとしたら、それはちょうど、私が雅の素性を疑っているのと同じだ。

 この停滞した関係が続く限り、私達は向き合わなければならないことを忘れられるだろう。


「……新しい仮説思いついた」

「お? どうぞどうぞ」

「実はこのレストラン街は廃墟ではなくて、最近できたものだったの。一度は甚大なダメージを受けた地元を再生するために、採算を省みず秘密裏に建てられた最後の希望。終わった場所ではなくて始まる場所」

「おーいいね。異世界よりも前向きじゃん。じゃ、今日オープンってことにしようよ」


 見え透いていても構わない。本当のことを問い正す勇気がない私達の言葉は、不格好であっても二人で共にいる理由を組み上げた、誰も住めない言の葉の構えの下で私たちはもう少しの間一緒にいられることを願っている。

「三春も着替えてきてよ!」

 数分後、バイトもしたことない二人の女子高生は誰もいない欧風カレー屋で従業員の真似事をすることになった。不可解の種は尽きないが、それが都合のいいものである限り私は見ないふりをすることができる。


 誰かがここにやってきて、私達二人を見たとしたら、どういう関係だと思うだろうか。その答えが発見者の価値観から見て、より親愛な関係を表す言葉であれば、それはとても嬉しいことだ。

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