猫の女王
鹽夜亮
猫の女王
僕の周囲には、あらゆる毛並みを持つ猫たちが各々散り散りに重い思いの時を過ごしていた。寝ているもの、何やら虚空を見つめているもの、羽虫を捕まえようとするもの…そこに畏敬の念はない。
正面、ゆらりと体を横にした、一際長い毛並みのどこか荘厳な雰囲気を纏う猫がいる。僕は、彼女への謁見を許された。
「人の子よ、私と話がしたいとは、変わり者だ」
彼女が口を開く。当たり前のように人の言葉が、日本語が溢れ出した。
「人の言葉が喋れるのですか」
「当たり前だ。我々はあらゆる言語を操る。人の世では話さぬだけだ。それは我々の利益にならぬ。さて、何故人の子は私との対話を望んだ?」
語り口もまた、ゆったりとしている。揺蕩うように、まるで消えゆく紫煙のように、それは空間を漂う。
「僕は、貴女方のようになりたいのです」
「ほう。猫のようになりたい、と」
彼女はほんの少し、身を乗り出した。
「人の子よ。それは、我々への愚弄か?」
「いえ、決して…」
「ならば問おう。何故それを望む?」
答えは決まっていた。
「貴女方の在り方は、孤高だからです。高貴で、自由で…決して僕は貴女方を軽んじて言っているわけではありません」
「ふむ…」
彼女ばもう一度ゆったりと、体勢を戻した。沈黙が漂う。それは厳かで、それでいてどこまでも柔らかい。
「よかろう。されど、人の子は猫にはなれぬ。だが、お主ならば我々のことを教える価値はあろう。何、気を緩めよ。ただの雑談だ」
その間にも、彼女以外の猫たちは各々好き勝手にしている。欠伸をするもの、眠りこけるもの…女王とされた彼女への敬意は見受けられない。
「我々は他を尊ぶことをしない。我々の尊ぶのは、ただ自身のみだ。人の子と違い、宗教もなければ、確固たる生の目的も持たぬ。繁殖は…あくまで各々の好き好きによる」
彼女は静かに、語り始めた。僕は、一言もそれを遮らず、ただ聞く。
「ただ唯一、我々の全てに共通する信仰のようなものがあるとすれば、それは『暇』だ。我々が最も重要視するのは、何もない時間だ。すべきこともなく、したいこともない。何か意欲に駆られることもなく、何ものかに急かされることもない。ただそこにある、時間だ」
「左様」
彼女の隣で欠伸をしていた猫が、相槌を打った。
「人の子はそれを休息と捉えることが多いようだが、我々にとってはその休息こそが最も我々たる所以の時となる。我々は、その時に、あらゆることを想う。思考は、何ものにも捉われぬ時にのみ翼を広げる。弱き人の子にとっては、それは見えぬ地獄だ。あらゆる思考、苦悩、その渦はその『暇』を逃さない。だが、我々はそれを含めて、尊ぶ」
「然り。そのために我々は在る」
「ふん、爺が口を挟むとは珍しきこともあるものだ」
「何、面白き話題故」
「異論はない。私とて楽しんでいるに相違ない…さて、話が逸れたな」
僕は聴き入る。緩やかな音楽のように揺蕩うこの声に、言葉に、雰囲気に。空気に。完成された生物。自然。それらが脳裏に浮かんだ。
「人の子は強く、弱い。人の子は我々の数倍も長く生きるが、そのうちに『暇』を十全に過ごす期間などどれほどであろう?耐えられるのだ、大抵の人の子は。動かぬことに、急かされぬことに、絶望せぬことに、希望せぬことに、何ものもない自由に、耐えられぬのだ。それが愚かとは言わぬ。ただ我々と異なるだけの話だ。しかし、稀に貴公のような変わり者が現れる。人でありながら、人になりきれぬもの…悲しき性と呼んでも良かろう。そこに無窮の葛藤が生まれる故。そしてそのようなものは、人の生を終えることを選ぶか、恵まれた環境と素質を持てば人を超え、生物として羽ばたく。後者はそう多くはあるまいがな」
夜が明ける。にわかに空が白み出した。
「…ふむ、夜が終わるか。ならばそろそろ終いにせねば。貴公には貴公の人の世での生活があろう。たとえそこが葛藤や、苦悩に満ち満ちているとして、貴公は人の子だ。戻らねばならぬ。我々に、貴公はなれぬ。そして、我々も貴公にはなれぬのだ」
「わかっております」
「ふふ、であろう。であるからこそ話した故。さて、そろそろ戻るがよい。我々は、無窮の『暇』のうちに貴公を見守るとしよう」
……………
猫の女王 鹽夜亮 @yuu1201
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