きよしこの夜

みずまち

きよしこの夜

 まだ人がいた温もりを感じながら、がらんとした教室をマアルは見渡した。

「はあ」

 自身の細い肩をぎゅっと抱きしめると、マアルは揺らぐ青い瞳を二度まばたかせる。

窓の外では雪がつらつらと降っているが、マアルのまばたきをする音が聞こえてもおかしくないくらいに教室内は静かだ。

(やっぱり先に帰ったのね。どうしましょう、このままだとビアンカは本当に寮へ入ってしまうわ)

 親指の薄い爪先をかりっと前歯でかじり、マアルは床下へ視線を落とす。


 ビアンカはマアルの幼馴染であり、最も大切な友人だった。

細身で長身、色白で鼻高い先についたソバカスを気にしている繊細なマアルとは違って、ビアンカは平均的な身長でどちらかと言えばふっくらとした体系だ。その上彼女は前髪をすっぱりと眉の上一直線に切り落とし、丸い鼻を恥じる事なく高々に上げてはっきりとした姿勢を見せている。

 どこか厭世的で儚げな風貌を持つマアルと、情熱的な黒い瞳を持つ誇り高いビアンカの二人は、この女学院でも注目されているペアだった。

『シュシュ、あたし寮へ入るわ』

 シュシュとは昔からビアンカがマアルを呼ぶあだ名であり、愛称だった。

マアル自身、幼い頃はその名で呼ばれる事を嬉しく思っていたが、十七歳と成長した今はそう呼ばれる事を嫌がっていた。

『ビアンカ、その呼び方はやめてって……え?』

 ビアンカはずっと自宅からの通学生だ。

幼い頃から当たり前のようにビアンカと二人、入学させられた今の女学院は十三歳を迎えると強制的に寮生活を余儀なくされる。それはこの女学院の昔からの古い方針だった。噂によると別館にある聖堂への信仰心を、成長していく女学生たちの心の中でずっと貴いものにする為らしい。

 しかしビアンカには事情があった。

彼女は生まれてすぐに生死を彷徨うほどに肉体が弱かったのだ。常に隣にいたマアルも、よく幼い頃は突然発作を起こし倒れかけたり、鼻血を出すビアンカを背負って屋敷まで駆け込んだものだ。いくら成長したからと言ってビアンカの身体は毎食後の薬と月二回の点滴で安定しているようなものであり、身体を強く動かす授業は毎回欠席届を提出している。

 一見するとマアルの方が身体は弱く見え、ビアンカの方が健康的に見えるが逆だった。

それなのにビアンカは幼馴染に高々と宣言したのだ。学院全生徒の大半が皆苦痛に顔を歪ませる寮生活へ入門するのだと。

 普段あまりビアンカへ強く意見を主張しないマアルも流石に思い留まるよう説得した。しかしそれが裏目に出て二人は今朝方、何年か振りの喧嘩をしてしまったのだ。

 ぷっくりとした下唇を下げて大きな瞳をより大きくしてビアンカに見つめられると口下手なマアルはより口篭ってしまう。

黒く長い髪に同色の瞳。自分とは正反対であり、あまりにも強すぎるその色を真正面に受けてマアルは顔をふいにそらす。するとビアンカはますます彼女を咎める。

『またそうやって顔をそらす。あなた自身の言いたいことをちゃんと言いなさい、聞いてあげるから』

 ぷいとこちらを強く向いたと同時に、ビアンカの高く結んでいたポニーテールの髪先がマアルの鼻先をかすむ。ほのかに甘い花の香りがした。

 聞いてあげる、ですって?

そうしてマアルはたまらずビアンカの大切にしていたブローチを奪い、その場を走り去ったのだ。


(大人気なかったかしら。でも)

 教室で一人、マアルは今朝奪ったブローチを掌にのせて見つめる。

クラスは違えど毎日マアルとビアンカは校舎を出るまで一緒にいた。

 朝、マアルは寮で目を覚ますとまだ霧のかかった校舎まで迎えに行き、家から通学してくるビアンカを待つ。

彼女が登校して来ると、マアルはとても嬉しそうに目を細めて挨拶をし、ビアンカの手を取り互いの教室まで行く。背が高く髪の短いマアルの後ろ姿はスマートな紳士にも見え、隣に寄り添うビアンカを優しく守るナイトのようにも見えた。

 そんな二人の朝の姿を、学院の女生徒たちは光射するステンドグラスを眺めるように、ほうっとため息を漏らしながら見つめるのが日課だ。二人が学院の憧れのペアとして見られているのはこういった外見や距離の近さだけではなく、関係性もあった。

 例えばビアンカが普段身につけている物は殆どマアルが彼女へ贈ったものばかりで、これ以上はあなたの物でいっぱいになるわと言いながらもビアンカはそれを日替わりに身につけている。

時計、リボン、ぬいぐるみやブレスレットにネックレス。冬になるとマフラー、手袋、帽子、膝掛けとさまざまな物にビアンカも断りもせずマアルの為に身につけていた。

 中でもビアンカが一番気に入っているのがブローチだった。

青紫色の夜を混ぜて溶かして銀色の星屑をぱらぱらとふりかけた大きな石は、人工的に作られた物でも角度によっても深く輝いており、この深い青色がシュシュの瞳の色によく似ていると毎日制服の胸ポケットへつけていたのだ。

 クラスメイトたちからはよく服装指導のシスターから没収されないものだと指摘を受けたが、ビアンカはいつもの魅力的な笑顔で『これは私のお薬箱なの』ときっぱりと言い切っていた。

 そんなビアンカが大切にしていたブローチを怒りに任せて奪ってしまった。あの時の大きく見開いたビアンカの熱い瞳をマアルは忘れられず、今日は一日中ずっと後悔の念にさいなまれていた。

(確かにこのブローチは彼女にとって薬みたいな物なのかもしれない、あの子は私と違って心は強いけれど体はまだ弱いままだもの。またいつ発作が起きて倒れるかもしれない、私がいないとあの子ったらお薬を忘れて登校してきちゃうし。予備のお薬、まだあったかしら)

 はっとしてマアルは自分のスカートのポケットを上からおさえ、かさりとした錠剤の感触にほっとする。

聖堂からパイプオルガンと聖歌が流れはじめた。それぞれの部活動が動き始めたのだ。

 ブローチを胸ポケットへ入れ、何となしに窓際まで足を進めて窓を少し開くと、風が小さな雪を教室内へ送り込みマアルのみじかな髪先をぱらぱらと揺らす。

か細い聖歌が今はとても心地いい。

(駄目だわ、今日は部活動休もうかしら。このまま少し雪にあたりながら頭を冷やして、寮へ帰ろうかしら)

 悲しみにまつ毛の影を下瞼へ落とした瞬間、背後から甘いコロンの匂いがした。

そちらへ振り返る前に見慣れたブレスレットをつけた左手が伸びて窓を閉める。

「こんな真冬にいくらあなたでも風邪を引くわよ」

 聖歌よりもずっと強い口調だが優しい声色。

今マアルが一番聴きたかった声だ。

「ビアンカ」

 隣に立つビアンカはマアルの方を見ず、真っ直ぐに強い視線を窓の外へ向けている。

「……ビアンカこそ、風邪を引くわ。マフラーも手袋もしてないなんて。待って、私のを」

 鞄から自分のを出そうと動くマアルの肩に片手を置き、ビアンカはそれを制した。

「ブローチ」

 一言だけ言うと、顔を向けないまま肩に置いた手をそのままマアルの前に出し催促する。有無を言わさない態度のビアンカは凛としており、その横顔は子供と大人の狭間の表情で危うい美しさを出していた。

その美に屈したくなく、マアルは「いや」と一言だけ言って顔を伏せる。

 そんなマアルの様子に出していた手を下げ、ビアンカは彼女をこれ以上傷つけないように肩で小さくため息を吐いた。

「あなた、今日部活動はどうしたの」

「今日は休むの」

「はあ⁉︎」

 すましていた態度は一変し、マアルの返答にビアンカは思わず彼女へ身体を向けて大きな声を上げる。

「何をやっているのよ、あなた時期部長でしょう! いくら人少ない地学部とはいえちゃんと出席しないと、来年本当にあなたのファンの後輩ちゃんだけになるわよ。そんなの実質廃部じゃない」

「余計なお世話よ」

 むっすりとしたマアルの顔を改めて見つめ、はああああ、と今度ははっきりため息を吐く。

「そんな事したって寮は諦めないから」

 再び窓へ身体を向き直し、少しずつ強くなっていく雪を見守る。そんなビアンカの強い視線を窓ガラスの反射でこっそり見て、マアルは眉間にしわを寄せる。

「わかってる」

 わかってるわよ、ともう一度繰り返し言いマアルもビアンカへ身体を向けぬまま真っ直ぐに雪降る校庭を見守った。

「でも、やっぱり私は怖いの。ビアンカがいつまた発作を起こして倒れて、その時に同室の子がいなかったり、何もできなかったらって」

「あなただって人混みが駄目で集会の時に貧血でよく倒れていたでしょう。そのたびに介抱させていた私にそれを言うの」

「そっ、それはまだ入学したばかりの頃じゃない」

「そうよ。私が発作を起こして高熱出していたのもその頃」

 はっとマアルは言葉に詰まる。それを機としてビアンカはまた強い目を彼女へ向けた。

「あなたならもう分かっているんじゃないかしら、シュシュ。私はもうここ何年も発作を起こしてない」

「……その呼び方やめてちょうだい」

「いいえシュシュ。あなたはいつまで経ってもシュシュのままだわ、ねえシュシュ」

 ついに身体をマアルに向けるとゆっくりビアンカは彼女の胸ポケットからブローチを探り取る。マアルは抵抗せず、青い瞳を揺らしながら奪われた同じ色のブローチよりもビアンカを見つめた。

「あなたは今までに色んな物を私に贈ってくれたけれど、それでも唯一贈ってくれない物があるわよね」

 ビアンカの続く言葉を避けるように再びマアルは視線をそらす。

「今だって、窓を開けて風が吹いて。あなたやっと私に気づいたみたいだった」

「ビアンカ」

 やめて、と両耳を塞ぎ、長身の身体を丸めて小さくする。そんなマアルを憐れむようにビアンカは初めて眉を下げて悲しい笑みをした。マアルには見えていないが、その表情はもう大人の女性だった。

 昔のビアンカはいつもアルコール薬品の匂いをさせていたが、成長するにつれその匂いは花の甘い香りへと変化していった。マアルはその香りを良しとせず、特に朝つけたての強いコロンの匂いには少し表情を暗く落としていた。

そこには知らないビアンカを認めたくない自身もあり、女性としての魅力が生まれ出てくるビアンカを止めたかったのかもしれない。

「私がコロンをつけるの、そんなに嫌? 私が大人に、女の人になっていくの、そんなに気持ちが悪いの」

「違う、ちがうちがう。違うの」

 何かに怯えるように長いまつ毛を震わせ、色白な肌を青白くするマアルの姿を、今度はビアンカが美しいと思う番だった。

しかしビアンカもまた、彼女のそんな美に屈してはならぬと一度目を閉じマアルの姿をぶらす。

「私、ビアンカとずっと一緒にいなきゃいけないの。守らなきゃ、だってあなたは身体が弱いのよ。周りはみんなあなたが元気な素ぶりするから元気だと思って」

「マアル」

 マアルの言葉を止めては青白くなった頬に両手で包み込み、ビアンカはぐっと喉を動かして溢れそうになる涙を飲んだ。

「マアル。ねえ私の可愛いシュシュ、聞いて。私はね、もう元気なの。そりゃまだまだ長く走ることは出来ないけれど、でももう自転車だって長くこげるのよ。ああ、あと学院の階段。最近は四階まで一気に上がれるようになったわ」

 ビアンカの冷えた両手を、ぽたぽたとマアルの透明な涙が温めていく。

「だからねマアル、もう寮に行っても平気。あそこの階段は二階まででしょう。それにあなたと同じ階にだってなるかもしれない。そうしたら時々あなたに会いにいくわ、ねえマアル」

「いや、嫌よビアンカ」

 頬と鼻先を赤らめ、涙を止めずにマアルはずっと顔を横に振り続ける。それでもビアンカは彼女の頬から両手を離すことはしなかった。

「マアル、シュシュ、私の大切なお友だち。大丈夫よ、なあんにも怖いことなんてないんだから。いい? もうあなたを怖がらせるものなんてないの。今から私とあなたは平等な友、大人と大人の、一人と一人としての友だちなの。わかる?」

 もう小さく繋がったままの友だちではない、あの頃のままの幼馴染ではないのだとビアンカは宣言した。


 マアルと遊ぶ場所はいつもビアンカの部屋のすぐそばにある広い庭だった。

身体の弱いビアンカは遠出を禁止されており、マアルはいつも彼女の屋敷まで来ては庭や、彼女が横になるベッドの側で遊んでいた。

『ビアンカ、手をつないでいっしょにここでねむってもいい?』

 まだ二人とも幼い頃。その日も朝からビアンカは発作を起こしてベッドへ横になる一日だった。

彼女の部屋中にはまだアルコール薬品が漂っていた。

 ビアンカの小さな手を庭からやって来たマアルは握りしめて無邪気にそう言ったのだ。庭からの日差しでマアルの青い目は怖いくらいに深く光っており、ビアンカは幼心に危機感を感じた。

『だめ。手はつないでもいいけれど、いっしょにベッドでねむるのはだめなの』

 少しきつく言ってしまったかもしれない。そんなビアンカの思いとは裏腹に、マアルは彼女の握った手に頬をくっつけてくすくすと無邪気に笑う。

『寝ているビアンカ、とってもかわいいの。ずっとずっとこのままだと私たちはしあわせね』


 校舎を一歩出ると、ビアンカは振り返る。

雪はまだやまないらしい。聖歌はもう聴こえず、教室の光はもう殆ど消えていた。

 こうして一人で校門を出たのは初めてかもしれない。隣にはいつも幼馴染のマアルがいた。

線が細く、すらりとした長身で色素が薄い彼女は昔から誰もが一度足を止めて振り返る存在であり、共に成長した学院でもそうだった。羨望の眼差しは必ず彼女といる時に向けられていたが、マアル自身は自分を特別だと思うどころかビアンカを庇護することに日々生き甲斐を感じているようだった。そのせいかビアンカ自身も何故お前がマアルの隣にいるのか、と強く咎められた事はあまりなかった。

 今も涙を流しながら帰り際に自分の傘を差し出そうとしたマアルの悲しい愛情に、ビアンカはただ静かに首を横に振り立ち去ったのだ。

(私はいつだってあなたにとって弱い存在でなければならなかったのかしら。ねえ)

 心弱いマアルの象徴である自身の立場に窮屈さを感じたのはいつ頃だったか。

 ふう、と白い吐息を冷たい空気に一度流し校舎を出る。こんな聖夜は二度とごめんだと思いつつも、早く訪れた冬の星空の美しさにビアンカは神に感謝した。




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