世界はカボチャで

 一人の少女が目を潤ませながらもじもじと佇んでいる。

 放課後の教室。黄昏に染まった空間には僕と早見さんの二人だけ。そう、まるで世界には僕たちだけしかしないと断言しても過言ではないくらいの雰囲気を形成している……と思いそうになったところで、

「うおりゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

「ゆうみ! 今日はいつにもまして張り切っているな。感無量!」

 窓の向こうのグラウンドから響くゆうみの怒号の如き鼓舞する声に、世界には人がたくさんいて、一人一人に役割があって、それで地球は回っているんだな、と夢見心地から醒めてしまう。

「田中さん、今日は来てくださってありがとうございます」

 少女もとい早見さんは正面から僕を見据えながら、後ろ手に持っていた紙袋を僕の目前に差し出した。

 見覚えのある紙袋だった。どこで見かけたか記憶を辿ると、すぐに思い出す。一週間前、ジャスコで会ったときに彼女が持っていた物だった。あのときは事態が深刻だったため特に目に留まることはなかったけれど、それが何の紙袋かわかった瞬間に思わず、「あっ」と声を上げてしまう。

 全国に展開している有名なメガネ屋の紙袋だった。

 紙袋を受け取ると、僕は唖然としながらも彼女に促されて中の物を取り出した。僕が欲しかったブルーライトを軽減するメガネが、汗ばんだ掌に包まれながら震えている。

 こ、これは。もしかして。

「あのとき、僕が買おうか迷っていたメガネだよね? どうして?」

 早見さんは僕から視線を外しながら両手の人差し指を突き合わて、「田中さんにはたくさんお世話になっているので、その……感謝の気持ち……です」

「もしかしてジャスコにいたのはこれを買うため?」

「はい。一人では入りづらかったもので、ゆうみさんに無理を言って同伴していただきました」

 そうだったのか。早見さんがゆうみの制止を振り切ってまでジャスコに行きたかった理由を知って、身体の体温が急速に上昇するのを実感した。

「ありがとう。とっても嬉しい。でも高かったでしょ」

 興奮してはいたが僕の中の冷静な自分が現実的な発言をしてしまう。

「感謝の気持ちに比べたらまだまだ足りないくらいです」

 内心では嬉しくもあったが、若干寂しさもあった。彼女は感謝の気持ちを抱くと同時に、それを特別なものだと思って気を遣っているのだろうか。僕は彼女と対等な立場でいたいと強く思っていた。

 こんな私を気にかけてくださって田中さんは優しいですね。だからお礼としてプレゼントさせてください。

 そんなことを思ってはいないだろうか。僕が複雑な感情になっていると、彼女は少し恥じらうように小さな声音で言葉を付け足した。

「それに……どうしてもプレゼントしたかったんです」

「えっ?」

 僕が頓狂な声を出しても彼女は俯くばかりで黙ってしまった。

 僕たちは互いに縮こまりながら、しばらくグラウンドの声に耳を傾ける。

 どのくらい経っただろうか。早見さんは静かに口を開いた。

「自分が犯した過ちに気づいてから、後悔の気持ちで一杯でした。自分のことしか考えられずに部屋に引き籠もりながら、布団の中で動けずにいました。過去は悔やんでも変えることはできない、そう頭ではわかっているのですが……いえ、わかったふりをしていたんです」

 彼女は窓越しに広がる夕空に視線を向けると、何かを見つめるような目をしながら言葉を続けた。

「このまま一人でいた方がいいのかもしれない。逃げたくなりました。そんな考えは甘くて、現実的ではないとわかっていても、自分が辛い目に遭えば贖罪になるのではないか、と本気で考えてしまいました。

 そんなときです。夜、布団を被って現実から逃げていた私の耳に歌声が聴こえてきたんです。懐かしい童謡のような心地良い唄でした。それは小学生の頃に私を良くも悪くも落ち着かせてくれた子守唄と似ていました。似ていたというのは、歌声が田中さん、あなただったんです」

 突然僕の方に視線を戻したので動揺してしまい、「音痴じゃなかった?」とどうでもいいことを言ってしまう。

「いいえ。とても綺麗でした。こんなに素晴らしい人が傍にいて待ってくれているんだ。それを思い出してしまうと、今度は楽しそうな笑い声も聞こえてきて、そこにはゆうみさんがいて、ライヒさんがいて、お母さんもお父さんもいて、気づけば田中さんと一緒に唄を謡っていました。その夜、久しぶりにゆっくりと眠ることができたんです。

 そして朝、目が覚めると昨夜の童謡を謡ってみました。音痴過ぎて、思わず笑ってしまいました。しばらく笑った後、鏡の前で部屋に引き籠もって逃げている自分に言いました。『笑えるじゃない』って。私はまだ頑張れる。

 部屋の窓にひかれたカーテンを開け放つと、眩しい青空が広がっていました。それが今朝のことです。そして今晩、お父さんとお母さんと三人で話し合いをする予定を立てました。正直まだ不安はあります。後悔も残っています。でも、前を向いていきます」

 話はこれでひとまず終わりだという風に早見さんは首を傾けながら微笑んだ。その表情には「私がここに立っているのは皆さんのおかげです」と書かれていた。しかしそれは違う。早見さんは自分の力で立ち上がって前へと歩き出したんだ。

「お帰りなさい」

 僕の言葉に彼女は頬を赤らめながら、「ただいま」と呟きはにかんだ。

 そんな彼女を見ていると、くすぐったい気持ちが沸き上がってきて頬が熱くなってきた。僕はにやけそうになる表情を堪えるために下唇を噛み、髪をかきながら視線を逸らした。

「私には『恋』という感情がどういうものか、わかりませんでした」

 唐突に聞こえてきた「恋」の言葉に僕は固まってしまう。早見さんがどんな表情をしているか見ることができず、僕は胸の動悸が高まっていくのを感じながら、視線を彼女の喉元に向けて次の言葉を待った。

「当然言葉の意味は知っています。辞書もたくさんひきました。小説でも『好き』や『愛』や『恋』などがテーマであることも少なくありません。しかし私にとっては全ての小説がファンタジーであるのと同じように、『恋』も自分には縁遠い感情だと思っていました。田中さんと一緒にいると楽しいし、心がわくわくします。何気ない些細なお話も、凄く面白くて時間があっという間に過ぎてしまいます。でもそれは、ゆうみさんにも同じことで、でしたらこれは『恋』ではないのだと思っていました。

 だけど気づいたんです。田中さんに『好き』と言われたときに。『ああ、私もこの人のことが好きなんだ、恋してるんだな』って。夢にたくさん出るのも、一日の終わりに思い出すのが田中さんのことなのも、恋愛感情からきているんだなって。田中さんへの気持ちとゆうみさんへの気持ち、それは同じものだと思っていましたが、違っていたんです。無理矢理同じものにしていたんです。恋をしても意味がない、自分なんかが好かれるはずがない、って無意識に言い聞かせていたのだと気づきました。

 だって田中さんの気持ちを知ったとき、私の中の田中さんへの気持ちが鮮烈に輝きだしたからです。わくわくだと感じていたのは実はドキドキだったり、お話をして時間があっという間に過ぎた後の、満足感や昂揚感の裏には、田中さんと離れたくないという寂しさが隠れていたり。田中さんとふれあったときの温かさ、忘れられません。その温もりや感触を思い出すだけで、ホッとするんです」

 僕が視線を少し上げると、彼女は待ち焦がれていたかのように頬を赤く、目を潤ませながら、言った。

「田中さんのことが好きです」

 唐突にたくさんの場面が脳裏を過ぎる。全ての場面に彼女はいて、喜怒哀楽どの表情も愛おしくて、僕は胸がいっぱいになる。

 頬に柔らかい感触を感じた。早見さんがすぐ近くにいて、僕の頬にハンカチを当てている。

 僕は涙を流していた。

「ごめん」

 僕は震える声で呟くと、ハンカチを受け取り涙を拭き取った。彼女は小さく頭を振る。

 不意に、僕が彼女に抱く小さな疑問が、静かに溶け出すのを感じた。

 他人行儀、敬語、気遣い、寂しさ、それらに苛立ちや不安を抱いてしまうのは、自分に同じものがあって、それを見たくなかったからだ。僕の中の「対等」は自分を棚上げしたもので、全然対等などではなかった。

 泣いていては慰めることはできない。はたしてそうだろうか? 泣いていても、できることはある。だってたくさん見てきたから。

「ありがとう」

 涙はとても温かい。


 何分経っただろうか。わからなかったが、お互いに無言で佇みながら、窓の向こうの光景を眺めていた。早見さんに視線を向けると、タイミング良く彼女と目が合った。

 そのとき、唐突に早見さんがよろめいて倒れそうになる。僕は咄嗟に彼女の肩を掴んだ。

「すみませんでした。何故か急に頭が朦朧として……」

 疲れたように虚ろな目をしていた早見さんは体勢を整えるとギュッと目を閉じて目頭を押さえた。

 そして細めた目で僕を見た瞬間、いきなり花が開くようにその目が大きくなる。

「……田中、さん?」

 何が起こったのか理解できずに僕は頷く。

「えっ。本当に? えっ」

 口元を両手で覆い隠しながら彼女は僕の顔をじっと見つめた。あまりに驚くから僕も驚いてしまっていると、彼女は口元から離した両手を震わせながら、僕の頬を静かに密やかに包み込んだ。

「カボチャじゃ、ない」

 そう呟くと、彼女は目を細めた。

 カボチャじゃない。

 カボチャじゃない。

 カボチャじゃ……ない。

 聞こえた言葉を復唱して、やっとその意味を理解した途端、思わず僕も早見さんの頬を両手で包み込んだ。

「なんですとッ」

「なんですとです!」

 嬉しさのあまり僕は早見さんを抱きしめた。

「痛いです……」

 早見さんのくぐもった声が聞こえたが、僕の背中に回された手がぎゅっとなって、どれくらいだろうか、一瞬でもあるし永遠にも感じられる時間の中でお互いの喜びを分かち合った。

「はじめましてだね」

 抱きしめながら僕は言った。

「はじめまして、田中さん」

 抱きしめながら早見さんは言った。

「なんだかおかしいですね。はじめましての挨拶より前に告白だなんて」

 その時、はじめましてより前の出来事が走馬燈の如く押し寄せてくる。色々あったな、と少し感慨深げな気持ちになった。

「たしかに」

「これから……ですね」

 早見さんの言葉通り、これからたくさんのことが始まる。それはとても輝かしく、でもときには辛いこともあるだろう。その辛さにのみこまれてしまうこともきっと、ある。

 不安は消えない。

 だから共に歩いていこう。



                                   おわり

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世界はカボチャでできている 松本まつ @matumotomatu

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