第二章 変化

 3


 ピピピッ、とアラームは鳴った。僕は眠たげな目を擦り、死にたげな体を起こす。外はまだ薄暗く、窓越しに肌を刺すような寒さが伝わった。今日は八時に新宿駅西口にいなければならない。僕は必死になって、朝支度を始めた。

 部屋のロッカーには、僕がいかに服に対し無頓着であったかがよく現れている。そんな悲しい服たちの中から、僕は思いつく限り最高の組み合わせを探して一つ着衣した。そして、窓際で軽く水を飲んでみた。冷蔵庫の中で極限まで冷やされた天然水は、冷え切った僕の体には大きな刺激を与えるものだった。こんなに早起きをしたのも久しぶりだなと思い、僕は窓から住宅地の先に見える小さな朝日を眺めていた。


 僕は厚めのコートを羽織ると、極寒の世間は待ち受けている。冬の厳しい寒さは、体調が芳しくない僕にとってはあまりに辛いものだった。

 僕は中野に住んでいたから、割りと新宿駅西口まではすぐに着いた。なぜか、僕が乗った中央線の上り列車にはサラリーマンやオーエルくらいしか乗っておらず、まだ閑散としていて、その情景は、日本の首都とは思えない、まるで地方のローカル鉄道の一部の車内のようにすら見えたのだった。新宿駅西口も普段の三割ほどしか人は行き交っておらず、どことなく心細さや孤独を感じさせた。僕は一つ、これについて疑問に思った。


 明は僕が着いてから五分ほどしてから来た。

 「悪い、待たせちまったな」明は申し訳無さそうに言った。全然気にすること無いよと僕は彼を宥めた。目当ての映画館はここから少し歩いたところにあるので、僕らはゆっくりと新宿の道沿いを歩き始める。僕らはそこへ向かうまでにおいて軽く雑談を交わしたわけだが、僕は一言、ましてや一歩を踏み出すだけで、とつてもない痛みと気だるさに襲われた。しかし、明にバレてはまずいと、僕は最新の注意を払い続け最後まで歩みを続けるのだった。


 十分ほど歩くと、ようやく目当ての映画館が見えてきた。普段、僕らが映画を見る際はここと暗黙の了解とも言えるほどに決まっていた。いつも歩いていた道が、今日だけはどうにも長く苦しいものになっていた。

 映画館自体は少し古びたものであったが、ここのオーナーの人柄や値段設定の安さは他のものとは比べ物にならないほどであった。僕らはチケットを購入すると、明はコカ・コーラ、僕は烏龍茶を頼むと、他の鑑賞客と一緒に二番のスクリーンに向かった。かなり良い座席のチケットを買えたので、スクリーンは勿論非常に見やすかった。


 映画「銀河鉄道の夜」は百二十分の割りと長めの映画であった。しかし、その内容はあまりに濃密なもので、時間の経過を忘れるほどだった。

 主人公、宮沢賢治は東北の人々のため、農学の道で学んだことを活かし、農業を教えた。また、その傍ら、小説や詩などといった高価な文学作品を数多く残し、急性肺炎になって三十七という若さで死ぬまで、人のために生き続けた。

 映画は宮沢賢治の人生を回想するような内容であった。宮沢賢治という人物の側面に触れていくうちに、僕は自然と感動していた。そして、気づけば今の自分と比較していた。

 ――今の自分は、一体、何のために生きているのだろうか。

 僕は、この答えを見つけられずにいた。そして、同時に、また死への恐怖が蘇ってきてしまったのだ。『まだ生きられれば、僕だって何かできるのではないか』と。『時間があまりにも少なすぎたのだ』と。それはやがて、『まだ生きたい』や『まだ死にたくない』といった、純粋な願望へと変貌していった。

 気づけば僕は、涙していた。映画の力なのか、単純に感情からなのか、僕にはよく分からなかった。ただ幸いにも明も、映画に感動して涙していたので、僕の涙の理由が追求されることはなかった。


 映画が終われば、僕らは感想を言い合ったりした。そして、まだ十一時も回っていないことに気づくと、ここで帰るのはもったいなさすぎると言って、新宿の街をぶらぶら歩いた。 今日だけは神様に見守られていたのか、僕の体調は著しく良くなったので、僕らは夜まで楽しく遊ぶことができた。アルバイトで稼いで溜め込んでいた貯金を使って、僕は明と一緒にボウリングに行ってみたり、思い出の母校に訪れてみたりして、夜までの時間を有意義に過ごした。最後は二人で、新宿のレストラン街の一角で夕食を済ませた。なぜだか分からないが、その日の夕食は、今までの人生で食べてきた食事の中で、最も美味しかった自信があった。


 そうして、僕らは新宿駅で別れた。僕は行きと同じ中央線で中野まで帰った。行きに比べるとサラリーマンやオーエル以外にも大学生や塾帰りの中高生なんかもいて、まさしくそれは東京の風景であった。

 中野駅で僕は周りの人と同じように、改札を出て、家へと向かう。自宅のマンションに着く。階段を上がる。扉を開く。

 家に帰ってきたのだ。部屋は温かい。保温性のおかげだな、と僕はマンションに感謝した。


 今日一日、僕は人生で一番楽しかったと言えるぐらいに幸せだった。なぜ、こんなにも幸せなのだろう。いつもと同じように、明と映画を見たり、遊んだり、食事をしただけだったのに......。気づけば、僕はまたもや涙していた。右目に、気づかぬうちに頬を伝う雫があった。なぜだろう、一度流れてしまった涙は、堤防を乗り越えてしまったかのように、一気にたくさん押し寄せてくる。心が温まったんだ。幸せとか、喜びとか、嬉しさとか、そんな、色々なプラスの形容詞が入り混じった液体が心を満たすように。

 僕は神様に感謝した。いや、周りの環境に。正直、あの余命を宣告された日、僕の人生が一気に奈落へと落とされた日から今日まで、憎かったんだ。神様が、世界が。周りはいつも通りの日常を過ごしているのに、なぜ自分だけが、こうも苦しい思いをしなければならないのだと。環境はこうも残酷なものなのかと。

 「ありがとう」僕は一つ呟いた。なんだか、僕は一つまた幸せになれた気がした。そんな充足感の中、僕はシャワーを浴び、着替えをして、就寝準備をした。ここまで丁寧に眠りにつくのもかなり久しぶりのことだ。僕はゆっくりと目を閉じた。

 暗闇の世界で、僕は今日なぜこんなにも幸せを感じられたのか、ぼんやりと答えを見つけることができた。そして、これからどう生きてみようかということも。

 死への恐怖も、今だけはそこまで感じることがなかったんだ。

 「明日、明後日、明明後日」。苦しかったこの言葉たちが、今では少し、希望に溢れて見えた。『あと、二十三日』。


 4


 明と遊んだあの日から、僕の残り僅かな時間に、光が差し込み始めたような気がした。

 僕は、残りの時間における「具体的目標」が決まったんだ。それは、僕が残りの時間でどこかに迷わないための道標であった。

 時間というのは、あまりに平等すぎる存在だ。早く流れてほしくても、遅く流れてほしくても、あるいは止まってほしくても、飛ばしてほしくても、いつも誰一人の感情を汲まずに一定のペースで流れ続ける。だから、その時間一つ一つが有意義になるのか、無意義になるのは、その人の裁量、心持ちに任せられているのだ。僕は、残り少ない時間を「賢治」のように、生きてみたいと思ったんだ。あまりに小さなものだとは思うけれど。


 ある時、僕は研究室に向かった。どうしてもやらなければと思うことがあったからだ。けれども、僕の体調は日に日に悪化していて、もうじき動けなくなるのではとも思えるほどであった。一歩歩くだけで、倒れそうなほどの倦怠感、頭痛が襲う。また話そうとしてみれば、喉には激痛が走る。どれも、「喉風邪」ではありえないほどにだった。

 それでも僕は、歩こうとした。できる限り動いてみようと思った。大学の最寄り駅、水道橋駅まで、僕は中央線に乗る。中央線の車内はあの日の朝以外、初めて乗ったときから変わらない。そんな風景に、僕は謎に愛着感が湧いた。

 水道橋駅で降りると、大学のある場所までは五分ほどかかる。僕はその一歩一歩を慎重に、大切に歩いた。冬の寒空の下、乾いた日光に照らされたキャンパスが見えると、僕は一棟の世界史コース研究室に入った。まだ明は来ていないようだ。むしろ、そちらのほうが好都合だ。僕は書架から何冊かの文献を取り出し、持ってきたノートパソコンを取り出すと、作業に取り掛かった。


 二時間ほどが経った頃だろうか、明は研究室にやってきた。僕は文献を書架に戻すと、明の元へ歩いた。おはよう、と軽く明と挨拶を交わすと、僕は明の作業を手伝い始めた。世界史コースは卒業論文の発表がもうじきあるのだが、生徒は殆どがもうすでに終了させていて、他の文学部のコースに行ったりしているので、研究室には僕ら含め数名しかいない。だから、あまり大きな声で話すことができない。今の僕にとって見れば、それはかなり好都合な話であるのだが。


 明の作業を手伝い、一通りそれを終えると、明は感謝した。僕は、「いいえ、それほどでも」と言った。明は「お礼にランチ奢るよ」といってくれたので、お言葉に甘えた。大学付近には少しばかり飲食店が立ち並んでいるので、ランチをするには良い立地なのである。

 僕らは大学の生徒からも愛されているかなり人気の高い定食屋を訪れた。明はアジフライの定食を、僕は焼き魚定食を頼ませてもらった。明は「お前そんなのでいいのかよ。もっと違うのでも良いんだぞ」と言ってきた。たまにでるこの明のデリケートのなさには少し腹が立つものもあったが、今日となってはこの明らしさが妙にも僕の笑いを刺激した。僕は少しはにかむと、「良いんだよ。気にしないで」と言った。あまりのに笑ってしまうと、喉が痛くて死にそうになってしまう。まだここで死ぬわけには行かないので、僕は笑いが覚めるのを待った。

 焼き魚定食はオーソドックスではあったが、あまりに満足度のあるメニューであった。艶のある白米と食欲を掻き立てる出汁の風味、そして真ん中にあるボリューミーな焼き鯖は僕の腹を満たすのに十分すぎた。喉を食が通過するときの痛みと言ったら言い表せないものであったが、明にばれないように、僕は細心の注意を払った。

 明に感謝すると、僕らは渋谷方面に行ってみた。今日は雲ひとつない快晴で、平日といえどもこの時期暇な僕らからしたら絶好のお出かけ日和だったのだ。僕は重い体を引きずりながらも、笑みを忘れずに明と歩いた。また僕は、勿体ないほどに幸せを痛感した。


 総武線にのって代々木まで出ると、僕らはそのまま山手線で渋谷を目指した。渋谷の街は僕らと同じような目的で来たであろう大学生や高校生で溢れていた。僕らは渋谷になんて縁のないような大学生だったので、正直、どんなところが穴場スポットで人気なのかなんて何一つ知らなかったが、とりあえず知っていたシブヤ一◯九やシブヤスカイなんかを訪れては、流行を感じたり東京の町並みを楽しんだりした。夕方頃になってきたので、僕らはまためぼしいレストランに入り夕食を取った。夕食後、今回は僕のおごりで、と言わんばかりに僕は財布を取り出し会計をした。今度は逆に、俺が明に感謝された。なぜだか、とても誇らしいような、嬉しいような、幸せな気持ちになった。思わず、また右目から涙が出てきてしまい、堤防は再度涙に飲み込まれ、大粒の涙が僕の頬を伝い始めてしまった。これはまずいと思ったが、もう止めようはなかった。明は僕を見るなり心配そうに言った。

 「おい大丈夫か?何かあったのか?」吹き荒れる明の疑問の数々に僕は応じた。

 「気にしないで。嬉しくてつい涙が流れてしまっただけだよ」僕は正直に、ちゃんと質問に応じることができた。すると、明は急に笑顔になって、いじらしく言ってきた。

 「良かったな、俺と一緒にいられてな」そんなこと言ってくるから、僕はますます愉快になってしまい、同時に幸せになりつつあった。普通に、純な心で、こうも楽しいことばかりをしていると、僕は死ぬのがいつの間にひどく怖くなりつつあった。


 楽しいことはすぐに終わってしまう。だから、渋谷で明と過ごした時間も、あっという間に過ぎ去ってしまった。渋谷駅。また、あの時と同じように、僕らは別れた。帰りの山手線も、中央線も、僕には少し特別に見えていた。この景色をあとどれだけ見られるだろうかと、気づけばそんなことを頭の中で投げかけていたからだ。

 中野駅に着いて、周りの人々と同じように、僕は家へと向かう。真っ暗な空の下、街頭や家の明かりを頼りに、僕は歩き進めるのだ。......僕はここが嫌いだ。そう思った。 

 ――暗くて、寂しくて、何より、怖い。この場所は、僕に死を連想させた。つい先日、死への恐怖など無くなったはずだったのに、と思う。でも今は、ひどく恐れている。多分これは、明のせいだ。

 見当は付いていた。彼と一緒にいると、生きるのが明るく見えたのだ。死ぬのが、怖くなるのだ。もっと生きたいと、思えてしまうのだ。一度壊れた堤防は、当分治らない。僕の死への恐怖は、そこから流れる水のように、徐々に周りを飲み込んでいった。


 気づけば、いつもの家の前に来ていた。階段を登る。自分の部屋にたどり着く。ドアを開ければ、また、暖かい空気が僕を包み込むだろう。そう思って、僕はドアを開けた。

 温かい空気は、なかった。考えれば、単純なこと。僕は今朝、暖房をつけていなかったのだから。けれども、僕はネガティブに振り切った思考によって、それがまるで、世界に裏切られているように、見えてしまったのだ。僕はますます鬱々としていった。


 いつも通りに、僕はその後シャワーを浴びて、寝ようとした。しかし、その節々においては、僕は全くいつも通りでは無かった。ネガティブな思考が、僕の頭に棲み着いている。僕はふとした瞬間に「死ぬのが怖い」と思っていた。

 今、目を閉じてしまえば、死んでしまうのか? 寝る前、僕はそんなことを投げかけ続けていた。つい先日まで、むしろそれを望んでいたのいうのに。僕は怖くて、眠れずにいた。都会のうるさい夜景を片目に。『あと、十五日』。

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遺し物〜余命一ヶ月の僕〜 海太 @umita-2001

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