遺し物〜余命一ヶ月の僕〜

海太

第一章 余命一ヶ月の僕

 これからを生きる君のために。


 1


 『これは、何でもない「僕」の、最期ひと月の物語』。と書くと、おそらく君らは、この話を特別美しく、儚いものだと考えるのだろう。だけれど、この話は、そんなものではないんだ。もっと自然で、普遍的なものなのだ。辛くて、脆くて、あまりに弱い。これは、そんな話だ。


 * * *


 僕は大学四年の冬、突然、末期がんによって、余命一ヶ月を宣告された。あの日は確か、肌をさすように寒い、凍てつく冬の一日だった。その時僕は、それは酷く驚いたものだったさ。なぜなら、来年の春からは社会人として入社することになっていたし、なにせ、僕はこれからも健康に、普通に生きていくのだと思っていたからだ。

 しかし、人生というのは、蝶の羽ばたき一つ程度の違いで、大きく変わってしまうようなものだったんだ。


 薬品の匂いがかすかに漂った診察室で、医者は言った。

 「秋野さん、残念ですが......あなたの余命は、もって一ヶ月でしょう」

 「え」僕は唖然とした。ただの喉風邪かと思ってここに来たのにも拘わらず、僕の人生を一気に奈落へと振り落とす一言は言い放たれたのだ。嘘かと思った。しかし、医者の何とも残念で、言いづらそうな顔は、それをことごとく否定するのだった。そして同時に、その言葉は僕の聴覚をも動揺で狂わせてしまった。

 鼓膜にうねりのある音声が蠢く。――僕は汗をかく。医者の言葉も聞こえない。

 「病名は、――がんです」こればかりはどうにか聞こえた。しかし、それ以外は僕の耳に入ったところで、打ち返されたのか、何も聞こえなかった。

 僕はがんを患った。そして、余命はたったのひと月。それだけは、紛れもない事実として、僕の耳、頭、あるいは全身に刻み込まれた。

 僕はこれ以上の説明は無為だと思った。だから、

 「すみません。今日はもう帰ります」と言って、僕は病院から逃げ出した。ここはあまりに心地の悪い雰囲気を漂わせていた。それに、これ以上ここにいたら、頭が可笑しくなってしまいそうだった。


 ――現実は、すぐに理想を否定する。そして、希望的観測も、何一つとして、受け入れてくれない。


 空はどんよりと曇っていた。街は明るみをも失っていた。僕はただの悪夢であってくれと願う。冗談に聞こえるかもしれない。けれども、こんな時に限って、理性は一向に減り続ける。僕はいつまでも願った。空はいつまでも暗がった。

 いつもの河川敷も、いつもの駅前も、いつもの住宅地も、何もかも新しく見えてしまう。 そして、それらすべてが僕を裏切っているようにも見えてしまう。

 また、こんな日に限って、あまりに人は見かけない。近くで楽しそうに談笑でもしてくれれば、僕の不安、焦燥、辛みすべてが消え去ってくれるかもしれないのに――と僕はまたもや理想を並べる。僕の頭の中では、様々な思いや考えが飛び回っていた。


 それからしばらくして、僕は家に着いた。病院からの道のりは、行きよりも長く感じた。早く家に入りたいと思った。

 そこで、僕は今日ほどマンションに暮らしたことを後悔したことはないだろう。階段を上がる気力も体力すらもなくしてしまっていたのだ。一歩を踏み出すのにも膨大なエネルギーを要したのだから。


 なんとか階段を上がると、部屋の前まで来た。ふぅ、と僕は思わず溜息を吐く。早く家に入ろう。僕は取っ手を握り、ドアを引く。瞬間、暖かな空気が僕にまとわりついた。僕が住んでいるマンションはなぜだか、あまりに保温性に長けているのだ。だから、家を出る前までつけていた暖房の温風が今もまだ部屋の中に残り続けていたのかもしれない。

 暖かな部屋は、今日初めて、僕の心に寄り添ってくれるような存在だった。僕は思わず倒れ込んだ。なぜだか、急に、辛みがましたような気がした。「温かい」という感触から、僕は「優しさ」を連想していたんだ。優しさは、僕の心にできた隙間に、そっと、じんわりと、入り込んでくれた気がした。


 しかし、玄関は僕が先程ドアを開けた際に入ってきた冷気で、徐々に寒がり始めた。冷え切った空気は、僕の心まで冷え切らせてしまいそうだった。だから、僕は残りの気力を振り絞り、暖かなリビングのソファまで足を運んだ。そして、やっとソファに着いたかと思うと、そのまま僕は座りこんだ。そして、そのまま、じっと、眼の前を見続けていた。


 数分がたった時分だろうか、さすがに僕も眠くなり始めていた。風呂も入っていないし、着替えもしていない。しかしながら、もういっそのことこのまま寝てしまおうかとも思った。だから、僕はゆっくりと目を閉じようとした。

 だが、その時であった。僕は一点の違和感に気づいた。それは、なにか別のことを考えてしまえば消えてしまうような、小さな異変だった。

 体調のことではない、体調は今朝から変わっていない。そうでなくて、この部屋に一つの違和感が生まれているのだ。


 ――それは机上にあった。「見たことのない、”ハガキ”」があるのだ。今朝には確かになかった。僕は少し震えた。何だこれは、と、僕は前屈みになって、それを取ろうとした。

 ハガキは二枚で、一般的な小さなサイズだった。見かけも何も普通のハガキだった。ただそこに刻まれた文字は酷く冗談かと思わせるような内容だった。

 ハガキの表面にはたった五文字、こう書かれていた。


 「死の通知書」


 死の通知書 一


 拝啓 秋野透あきのとおるさま、初めまして。「あの世通信局」の”匿名六”と申します。我が社ではプライバシーの観点から匿名制度を実施していますのでそこは了承いただきたく思います。そして、今後はどうぞ、宜しくお願い致します。

 初めてのことで何がなんだかわからないと思うので、少しだけ書かせていただきます。そのせいで、ハガキ二枚ほどになってしまっていること、大変申し訳なく思います。

 まず初めに、ハガキが突然机上に現れたことは、どうかご安心ください。あの世が保有している技術では、ものを突然に出現させることは簡単なので、我々がしたことにございます。何か、侵入者が、とか、そんなことではございませんので、そこは今一つ、二度になりますがご安心ください。

 そして、この通知書は、「この世」でもうじき死を迎えることとなった人に送られるものになります。ただ特に、これを見たところで何か死の時期が変わるとか、そういったことは無いのでいつも通りに過ごし、死期をお待ち下さい。

 死期までのあなたの様子は、こちらで定期的に「監視」させていただきます。あなたの死期までの時間を、決して無駄にすることのないようにしてください。きっと、後悔してしまいますから。

 突然の連絡、失礼しました。頑張って下さい。 敬具

担当 匿名六


 僕は、それを一息に読んだ。そして、読み上げると同時に、僕はそれをゴミ箱に捨てた。その理由は、怖くなったからとか、冗談かと思ったからとか、そんなものではなかった。僕は現にその時、この意味の分からないハガキのことを正直に受け止めることができていたのだから。僕は「辛くなった」のだ。


 ――何も信じたくない、何も突きつけてほしくない。

 それは必然的なことだった。今日、僕は多くの現実を前にしてきた。そして、多くの理想を頭に浮かべてきた。けれど、浮かべた理想は、すぐに、現実に否定されたのだ。また、今、「死の通知書」たるものは僕に現実を押し付けてきた。僕は、あまりにそれが悔しくて、辛くて、悲しかったのだ。


 そして、僕は何もしたくなくなった。このまま、寝てしまおうと今度こそ本気で思った。僕は目を瞑った。――いっそ、このまま死んでさえすればいいのに。また、理想は浮かんだ。次、目を開けたとき、そこはまた、同じ部屋だった。また、現実は現れた。


 目を覚ます。立ち上がる。水を飲む。また、同じ場所へ戻る。目を瞑る。あの日から、僕はいくらこのサイクルを繰り返したのだろうか。気づけば、ひと月は終わってしまいそうだった。部屋の片隅は、ひどく落ち込んでいる。『あと、二十五日』。


 2


 目を覚ますと、また、そこは同じ部屋だった。片隅、僕のいる場所は、ひどく暗がっている......。窓から見える、外の薄暗い雲は、僕の人生を連想させる。思い出してしまえば――。


 僕はいつも、劣等感のかたまりだった。生まれてきてからというもの、何かを本気で好きになったこともないし、何かを本気で打ち込んだこともなかった。何か取り柄があったわけでもなく、何か他の人を惹きつけるような魅力も一つもなかった。

 誰にもばれないように、誰かに何かを言われないように、ひそひそと過ごす日々が多かった。

 高校受験も、大学受験も失敗して、いつも何かしら「少し下」の場所にいた。いつも甘えてる気がした。いつもなにかに怯え、逃げ続けている気がした。そんな思いを抱き続けていた。


 そして、よりにもよって、僕には一人の妹、秋野遥あきのはるかがいた。彼女が少しでも出来損ないであれば、僕の劣等感もまだマシなものだったかもしれない。けれども、現実は酷く残酷だった。妹は非常に優秀だったのだ。成績は優秀、大学は勿論あの、この国一番の大学だった。もはや合わせる顔などなかった。そのことから、僕が無機質な態度を取り続けていたからか、妹には酷く強硬な態度を取られたきた。

 僕の人生は、ひどく地味で、誰かに聞かせれば鼻で笑われるようなものだったのだ。


 この感傷的な気持ちは、いつまでも僕の頭からは離れようとしなかった。むしろ、僕はこの状態でいつまでも居続けたいとさえ思っていた。僕に似合う姿だとも思っていた。ヤケになっていたんだ。余命一ヶ月だというのに、僕はまたもやこうやって、地味な生き方をしていた。


 そんな時、電話の着信は鳴った。着信の相手は誰かと思い、僕は携帯電話の画面を見る。そこには、僕にとって馴染み深い、彼の名前が書かれていた。

 ――冬望明ふゆみあかる。こんなにも地味で笑われるような僕と、小学生のときから一緒に居てくれた僕の唯一の友人だ。急にどうしたのだろう、と思う。しかしながら、僕には思い当たる節があった。

 彼は僕のことを酷く心配する人間だ。それは、昔から同じだった。僕が少し体調を崩しただけで、連絡をよこしたり、家にまで来てしまうような奴なのだ。

 ここ数日、僕は大学の研究室に行かないでいた。それは、言うまでもなく、ずっと寝ては、あるいは水を飲むといった自堕落な生活をしていたからだ。彼のことだ。僕が体調を崩したなどとか思って、心配になって、連絡をしたのだろう。だが、今回は本当に、重い体調不良になってしまったわけだ。

 僕は携帯電話を手に取り、着信に応じる。着信に応じた瞬間、聞き慣れた「あの声」が聞こえた。僕は少しだけ、安心できた。


 「もしもし。大丈夫か?」明は、心配そうに声をかけた。僕も声をかける。

 「大丈夫だ。心配かけてごめんな」僕の声に、明はまた心配そうに続ける。

 「最近研究室に全く来なくなったから久しぶりに驚いたよ。お前は大学に入ってから一度も休まずに来ていたからな。本当にヤバいことになっているんじゃないかってさ」

 そう、僕は本当に「ヤバいこと」になってしまったんだ。僕はあとひと月で死んでしまう。それは紛れもない事実で、変えることもできない。

 そして僕は「余命一ヶ月」、この事実を明に伝えようか、その時酷く悩んだ。この選択は、今後に大きく響きそうな気がしたからだ。電話越しの明を想像してみた。いつもと変わらない、彼がいる。そこで、僕は決めてみた。


 「心配させて本当に悪かったな。だけど、本当に大丈夫なんだ。ただの喉風邪で寝込んでいただけだよ。もう、体調も良くなったし、明日からは研究に行けるよ」

 ――僕は明に「余命一ヶ月」のことを伝えないことにした。その理由はいたって単純だった。なぜなら、このことを明に言ってしまえば、彼が酷く悲しむ、あるいは消沈することが目に見えていたからだ。または、このことを言う気には、どうしてもなれなかった、とでも言おうか。そのためであった。だから、僕は明を安心させることに努めた。

 「そうか、それなら良かったよ。体調管理には気をつけろよ」明はいつも、僕が体調を崩すと決まり文句のようにこれを言ってくる。それが明の心にある純な優しさで言っているのか、言い過ぎて無意識のうちに出てきたのか、僕にはよくわからないけれど。だけど、明が今一つ安心してくれたようで良かった。明は続けた。


 「そういえば、明日は研究室は開いていないからな」そうだった。明日は水曜日で研究室の定期休業日なのだ。つい焦りからそんなことを言ってしまっていた。

 「じゃあ、透の体調が回復したということで、映画でも見に行くか?お前が気になっていた宮沢賢治の映画がこの前公開されたぞ」そう、僕は以前から、宮沢賢治がモチーフとなったノンフィクション映画が気になっていた。確かに見たい気持ちはある。しかし、こんな体調で行けるのだろうか。というのも、僕はあれから、だいぶ体がつらくなったような気がしていたのだ。だが、僕は先程明に体調は大丈夫だと言ってしまっていた。見たい気持ちもあるし、明が良心を持って僕にしてくれた提案だ。これは言ったほうが良いのではと思った。


 かくして、僕は、

 「分かった。明日それを見に行こう。」と明に言った。明が喜んだのが、電話越しに分かった。

 「やった! 俺もじつは気になっていたんだよ。じゃあ、八時頃に新宿駅の西口改札で待ち合わせでどうだ? 人気だから混みそうでさ」明はそう言った。八時か......。起きるのがなかなか辛いが、明がここまで喜んでいるようだ。それで行くしか無い。

 「分かった、じゃあそれで。楽しみにしてる。また明日!」僕はそう、元気に返そうと努めた。明も、「了解!じゃあまた明日!」と言った。いつもの、明るい声だった。僕はそんなことを思いながら、通話を切った。


 今の通話でも、僕の体はいつも以上にエネルギーを要し、そして、非常に疲労した。試しに、元気な姿になろうと努めてみた。けれども、それは今の僕にとって、困難なことであった。

 ――明日、明後日、明明後日。そして、たったひと月の未来に、僕は君らの想像以上に不安になった。

 『生きるしか無いのだ。今、一瞬を努めるしか無いのだ』

 僕にそんな綺麗事は言わないでほしい。あの頃の僕は、その一瞬を生きる価値を見失っていたのだ。そして、未来への希望を。過去さえも無価値なものだと思っていたんだ。そんな僕が、どうして前向きに生きれるだろうか。


 けれど、明との通話で、僕は死ぬのがとても怖くなったのもまた事実であった。周り、つまりは環境は、いつもどおりの生を過ごしている。けれども、僕は――あとひと月の生しか持ち合わせていない。これが、どれほどに辛いことなのか。これが、どんなに悲しいことなのか。それは、僕、そして同じ境遇の人々にしか知り得ないことなのだ。

 いつか、僕は死んでしまう。それだけ。僕の目の前の事実は、高がそんな「単純明快なこと」なのだ。そんな「単純明快なこと」が、なぜ、こんなにも恐ろしいのだろう。人というのは、こんなにもおかしな生き物なのだ。


 そんなこんな考えているうちに、僕はまた眠くなってきた。まだ、起床してから一時間も経っていないというのに。末期がんというのは恐ろしい。体力が、気力が、こんなにもすぐ失われてしまう。発症してから、まだ一週間。こんなにも、辛いのか。

 僕は明日のために、アラームをゆっくりと設定した。そして、ゆっくりと、じっくりと、今を噛み締めたいと思いながら――目を瞑った。『あと、二十四日』。

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