後編
その後、島田先生は手に包帯を巻いたまま普通に過ごしていた。センセー手ぇどーしたの?と誰かが尋ねると、ニヤッと笑って、犬に噛まれたんだよーと笑っていた。
その笑顔が悩ましかった。
あたしが噛み付いたとき、どれだけ痛かっただろう。きっと今も痛いに違いない。
先生はなぜ、
その質問ができないままでいるうちに、先生はあたしの帰るところを探してくれていた。でも、それは、お別れでもあった。
★
「とにかく両親の下には戻せそうにない」とだけ上司に報告し、私は浜岡の情報を自分の中で握り潰した。
明らかな職業倫理違反だった。職務より我欲を優先した。
「最近の浜岡を見てたら、島田先生は浜岡から何かを聞き出せてるいんだって思ったのに」
ベテラン上司の目を誤魔化せたのか、バレていたのか、今となっては分からない。そして、この仕事を辞めようと決意したのは、その時だった。私はこの
その後、亡くなった浜岡の母親の親である母方祖父と連絡を取った。浜岡の父親が再婚したことを知らされていなかった祖父母は、予想以上に早くに動き出し、浜岡が施設を出る日はとんとん拍子で決まった。
★
施設は山間にあった。
そこから幾つも県を跨いで、遠く離れたこの海沿いの街に来た。そんな遠くで、先生と二人でいるのが信じられないでいる。
街は、夕方から夜に踏み出していて、あちこちで街灯が光っている。いつもなら家にいて婆ちゃんの夕ご飯を食べる時間だった。
「先生、あたし、もう良い子じゃないけど、あれから狂ってないですよ。今のとこ、傷つけたのは少なくとも先生が最後」
そう言ってチラッと先生の手を見ると、先生は、笑顔を見せながら手をあたしの前でかざした。先生の手には数箇所の傷痕が見えて、胸がズクンとする。
「傷じゃない。これは、浜岡に付けられたキスマーク」
「はあ? 何言ってんすか」
あたしは、先生にそんな口をきいて、笑った。でも、眉間によってしまった皺と目尻の涙を隠したくて下を向いた。
靴の爪先を見ながら、施設での日々を思い出した。
施設の思い出なんていらない。勉強させられて、反省させられて、共同生活を送らされて、きついし、つまんねって思いながら、良い子の振りをして。
一人で寂しくて。
一人で泣くしかなくて。
でも、あたしは、いつしか先生のことばかり考えるようになってた。施設を出たら、もう会えない。
そっちの方が寂しくなるくらいに。
「……私は、指導者失格だ」
先生がポツリと呟いた。
そんなことはないよ、と伝えたくて、顔を上げた瞬間
★
更生施設では指導者は、馴れ合いを防ぐためにも不用意に生徒たちに触れたりしない。
だから、
浜岡
「浜岡に必要なのは、こうして抱きしめることだと思ってた」
抱えこんでみると、浜岡はそんなに細くはなくて、柔らかくもなかった。
「……違うなあ、私が、浜岡を抱きしめたかったんだ」
そう告げて、腕と指先に力を込めると、ぎゅ、と言う音がしたような気がした。
背中に浜岡の拳らしいものが当たった気配。
浜岡は、私と話す時、いつも拳を握りしめていたっけ。
昂ると拳がぷるぷると震えていた。今も、私の背中で拳は震えているんだろうか。
★
つい手に力を入れて拳骨を握ってしまう。
我慢する時、怖い時。先生に噛みついた時も。
今もだ。爪が掌に食い込んでいる。
先生のしていることに滅茶苦茶に驚いてしまっていて、どうしていいか分からない。
でも嬉しくもあって、心臓が口から飛び出ちゃいそうだ。
震えながら、先生の背中におずおずと腕を回した。
先生はあたしより少しだけ背が小さかったことを思い出した。
背中を流れる髪に拳骨で撫でるように梳く。
そして、ふと不安に思ったことを尋ねてしまう。
「先生、これは、親から子供への抱っこの代わり?」
先生の背中が揺れた。
その喉から、違うよ、が振動しながらあたしの耳に届いて、あたしはほっとする。
「
先生があたしの名前を繰り返し呼ぶ。
その声に安心して拳骨に固まっていた手を緩く開く。
この握り拳を開いていい、いいんだ。
指先が先生の背中に触れた。ジャケットの布地があたしの爪を包むように、指が先生の背中に潜ろうとしてジャケットが皺になって、それを阻んでくる。
★
元職員でも守るべき義務があって、今、自分のやってることが過ちだという自覚はある。
あるけれど。
こうして出会ってしまったことを、なかったことにはできない。
したくない。
了
◆◇
読んでくださってありがとうございました。
うびぞお
その手が握りしめたもの うびぞお @ubiubiubi
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