中編
何故、あたしは先生の前なんかで泣いてしまったんだろう。
悔しくて唇を噛んだ。自分で自分の首を絞めた時は、してやった、と思ったのに、先生の顔が近付いてきたので変に焦ってしまった。目が。先生の目が真っ直ぐすぎる。
それに
悔しいけど、島田先生は、あたしに誤魔化されてはくれないだろう。あたしが、まだ野垂れ死にを諦めていないことまでバレている。
あの後の面接で、先生はもう追求してこなくて、普通に事件のこととか、施設生活のこととか、割と無難な内容の話にとどまってる。いつまた同じように先生が詰めてくるかと思うと、気が休まらない。
でも、困る。
なんでなのか、島田先生と二人で話せるのを楽しみにしている自分もいるからだ。
ずるりと嫌な記憶が、腹の底から、こぷりと泡立つようにこぼれ出て、体が冷たくなった。
あの女。
あたしの内側をごりごり削ったあの女。
パパがいきなり連れて来た家庭教師。
あたしに何を教えてくれたんだか。笑わせる、あの
あの女の感触や味は、もう思い出せない。
★
「家に帰りたくない理由は?」
さりげにいきなり直球をぶち込んでくる先生に、ちょっと驚いて、なんでもない風に、これまで答えていたように答える。
「父があたしの家庭教師と再婚したからです」
経歴を見れば誰でもそう思う。
「再婚、それとも再婚相手が嫌なの?」
何かがちょっと引っ掛かる質問だったけど、これまで通りあたしは何も答えないで長い沈黙を使う。警察でも、警察が連れてきた心理学の先生とやらも、沈黙の果てにあたしから答を引き出すのを諦めた。父親の再婚を拒否して強情を張る馬鹿娘。それでいい。
パパは、あの女と付き合っていることを隠して、あの女を家に連れて来て、上司のお嬢さんで家庭教師のアルバイトを探しているんだ、有名大学に通っているんだよ、とかなんとか言った。
あたしはそれを信じた。
ママを亡くしてから、出張で外泊の多いパパとの生活は寂しかったから、優しくて綺麗なお姉さんができて、優しくしてもらえるのは嬉しかった。
頭を撫でられて嬉しかった。ハグしてもらえて嬉しかった。ほっぺたや額にキスされて嬉しかった。
「再婚相手の人のことなんだけど」
島田先生は続けて尋ねてきた。あの女のことを思い出していたこともあって、あたしはチラリと先生の表情をうかがった。面接の部屋の窓ガラスに映る横顔は無表情だ。ガラスが少し反射して、様子をうかがってる自分も見えた。
パパの再婚相手、あの女は、可愛がっていた生徒が自分を義母としては受け入れてくれないことを嘆いているらしい。先生もそれを知ってるだろう。
でも、先生の表情は読めない。何が知りたいんだろうか。
「大好きなお父さんを家庭教師に奪われた、とか」
何も答えない。
「……浜岡は、嘘つきで捻くれ者だから」
おいおい、ひどいこと言うって頭の中で苦笑いした次の瞬間、ハンマーで頭を殴られるような衝撃が来た。
「浜岡は、家庭教師だったその人が」
「とても好きだったんだね」
あたしの中の狂気が猛った。
★
浜岡が突然立ち上がった。椅子が倒れていたら大きな音がして、他の先生たちが駆け付けてしまっただろう。たまたま面接室は静かなままだったが、激しい嵐が静かに巻き起こっていた。
浜岡が拳を私に向けて振りかぶる。他人から殴られそうになるのは初めてだった。研修で習った護身術通りにパンチを避けられる筈はなく、必死で避けたけど、浜岡の拳は鼻先を掠った。つーんとする痛みがして、鼻の穴を熱いものが流れる感じがした。
はあ、はあ、と浜岡が荒い息を立てる。
鼻を抑えると、濡れた感触がして、手には血が付いた。鼻血なんて、何年ぶりだろう。手の甲でそれを拭う。
顔を真っ赤にして肩をいからせている浜岡は、今にも私に飛びかかってくるか、机を蹴飛ばすか、そんな様子だった。
今度こそ、非常ベルを押すべきだった。
でも、浜岡の目尻から、また涙が零れ落ちて、私はそれに視線を縛りつけられた。施設の中で暴れて職員を負傷させた、そんなことになったら、浜岡はどうなる?
★
あたしも大好き
あの女とキスを交わすのは気持ち良かった。
優しくされるのが嬉しくて、ずっと優しくして欲しくて、くっついていたくて。あの女が幸せそうな顔をするのが嬉しくて、あの女が教えてくれたように抱いた。
パパが出張でいない夜に家庭教師が教えてくれたのは、とんでもないことに、あの女の悦ばせ方だった。あの女がたまらないような声を上げると、あたしはそれを愛されているって勘違いしていた。
愛されている、だって。は!
あたしが恋人だと思ってた女は、実はパパの婚約者だった。だから失恋したんだと悟って落ち込んでいたら、あいつは、パパと結婚した後も、あたしとの関係を続けようとした。
別にいいじゃない?あの人は出張ばかりだもの。
今まで通り二人で仲良くしましょうよ。
恋人どころか、あたしはあいつの
吐き気して猛烈に腹が立った。あいつを殺してしまいたくて、でも、パパがかわいそうで、
でも、まだあいつが好きで、
もう、死んでしまいたくて、だから、家から飛び出した。
怒りが抑えられずに腹の底からどくどくと湧き出てくる。
思い出させた先生のせいだ。だから、先生が悪い。悪い、悪い。
待て、
と言うように先生があたしの顔の前に手を翳した。待てるもんか。
傷つけても構やしないんだ。
拳に力を入れて握り締め、床をグッと踏みしめる。
殴るか、蹴るか。
先生の手がぐいっと顔の前に差し出された。
邪魔だよ、先生が悪いんだよ。
先生の手があたしの顔の前にあった。
★
感じたことのない激しい痛みに声も出ない。
小指の下、掌と甲と両側に、ぎりぎりと浜岡の歯が食い込んでいる。思い切り強く噛みつかれた。浜岡の歯が私の手を食い千切るんじゃないか、と思うくらいだった。
声を出されたらまずいと思って、顔に手を近付けたのが間違いだったのだけど、その手を振り払われる可能性が頭をよぎった瞬間に噛まれていた。悲鳴を上げそうになったのは私の方だ。
ふー、ふーっと鼻と口から荒い息が漏れている。浜岡の両手の拳はワナワナと震えながら腹の前で握りこまれていた。
殴れない、声も出したくない、そんなところだろうか。畜生、すごく痛い……。
痛みが痺れを含み始め、ぬるりと血と涎が手首を辿った。
「浜岡は、…狂った獣を腹の中に飼ってる」
★
そう言って、先生は血の引いた真っ青な顔で、笑った。
それから、あたしが小指側に噛み付いている手の親指側に顔を寄せた。すぐ近く、手の幅の向こうに脂汗をかいている先生の顔がある。あたしの口の中の感触が気持ち悪い。鉄臭い。
体が熱くて仕方がない。
息が苦しい。
「もう誰も傷つけないように、その獣をしっかり飼い慣らして」
先生は痛みを堪えながら、声をあたしに届ける。
「自分の内にある狂気を忘れては駄目、それは浜岡が一生背負うものだから。でも、なかったかのように生きてもいい」
「生きていい」
先生がはあっと息を吐く。
部屋の外から人が近付いている気配がした。
「良い子に戻って、浜岡……っ、っつ」
先生がついに顔を歪めて、目をぎゅっとつぶった。
★
持っていたハンカチで手を縛ると、すぐにハンカチには血が滲んだが、血が垂れるほどではない。
呆然とした顔の浜岡をさっさと寮の部屋に連れ帰り、自分は何事もなかったように職員室に戻ってトイレに手を洗いに行く。
水がしみて手がとんでもなく痛かったけれど、それよりも、自分が職員倫理に反したことが怖くて体が冷えていた。
浜岡が逆上して担当の手に噛み付いた。明らかに施設の規律違反だし、この傷は、傷害事件として被害届を出せるレベルだ。そして、その原因である義母との関係を把握して、上司に報告しなくてはならない。
嫌だ…っ
あの、あの浜岡
ぎらぎらした目で涙を落として私の手に噛み付いていたあの顔。
震える拳と肩。
あれは、私のものだ。誰にも渡すもんか。
ぶるりと体が震える。
自分の中に突然巻き起こった独占欲は、今でも私の胸の中で
絶対に傷痕が残る。浜岡の痕が残る。残る。
★
あてがわれている自分の部屋のベッドに腰掛けて、両手で顔を覆った。
冷静になって、施設の中でまで傷害事件を起こしてしまったことも、島田先生の手も心配だった。
また、怒りのままに人を傷つけてしまった自分が嫌になる。
自分は狂ってる。事件の時とは違う。自分のためを思ってくれている人まで傷つけてしまうなんて。
狂気を飼い慣らすなんて、できるんだろうか。
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