その手が握りしめたもの
うびぞお
前編
もう二度と会えないと思ってた。
これから私の最寄駅となる初めての駅。その駅に続く繁華街は少し狭くて野暮ったい。駅から出て、どこにどんな店があるのか確認しながら繁華街を歩いていた。少しだけきょろきょろしながら、新しい街は、果たして私を受け入れてくれるのだろうか、なんて考えながら。
人生をやり直さなければいけないと考えて、考え抜いて、やっぱり仕事を辞めて、誰も私のことを知らない場所で新しい仕事を始めることにした。憧れていた仕事に就いて頑張っていたのに、と同僚にも家族にも、友人たちにも惜しまれた。
でも、私は辞めなければならなかったのだ。
それなのに、街の片隅で、その原因となった少女と会ってしまった。これは、奇跡なのか皮肉なのか。
最後に会ったのは2年前。
卒業できなかった中学校の制服を着せられて、やるせない顔をして、ぺこりと頭を下げたっけ。
今の彼女は、あの頃と全く違って、プラチナの金髪のベリーショートで、制服の上にジージャンを羽織ってゴツいショートブーツを履いていて、あの頃の服装とは全然違う。
それでも、私には、彼女だと分かってしまった。
「浜岡」
つい、名前を呼んでしまった。
彼女は、私の声に弾かれたように反応して、私を振り返った。
無表情から、目を大きく広げてびっくり顔へ、そして、グシャっと顔を歪めて、絞り出すように、あの頃と変わらない声で私を呼んだ。
「……島田先生」
このまま立ち去るべきなのに、私は、我慢できずに軽く手を振りながら近寄った。
「なんで、ここにいるの」
それはこっちの台詞だと思いながら、ああ、やっぱり浜岡だったんだと思った。
「もう先生じゃないよ」
本当は、声を掛けちゃいけなかった。
それができないから、仕事を辞めて、遠い街に逃げて来たのに。
3年前。
私は、いわゆる非行少女の更生施設で働いていた。
まだ、新採用に毛が生えた段階で、大学の座学とは違うナマの非行少女たちに悪戦苦闘していた。予想していた以上に厳しい仕事だったけれど、高校の時から憧れていた職業に、結構な高倍率の試験を突破して就職できたのは幸運だと信じていた。
「島田先生に浜岡さんを担当してもらう」
私は上司のその指示に少し驚いた。まだ新人同様の私が担当するような子じゃないと思ったからだ。
「今いる中で一番扱いは楽な子だけど、心を開かせるかどうかは、今の島田先生の実力次第」
上司は、私に彼女の資料を手渡しながら言った。
「あの強情っ張りな子に、島田先生がどう組み合うか楽しみにしてる」
頑張りますと答えるしかなくて、私は資料を持つ指に力を入れた。
窓の外、運動場で子供達が走っている。やる気のなさそうな女の子たちの群れで、先頭を走っているのが浜岡だった。
短髪で細身、手足が長い。男の子のようだけれど綺麗な子。
浜岡
中学校3年生。家出中に、強姦目的の若い男に襲われて、逆に相手を半殺しにした。明らかにギブしている男を痛め付けて重傷を負わせて過剰防衛と判断された上、断固として自宅に戻ることを拒否したため、この更生施設に送られてきた。
ここに来てからは、とても良い子だ。従順で、一切の問題行動はなく、大人の期待通りに振る舞っている。
良い子にしてるから干渉するなと言わんばかりだ。
ただ、親と親元に帰ることを完全に拒否している。被害者の治療費等を払ってくれたことへの礼と、迷惑を掛けたことへの詫び、そして、引き取らないでくれとしたためた手紙を一通父親宛に送ったきりだ。両親は、何回か施設を訪れたが、拒否し続けられて、最近は諦めてここには来なくなった。
実母とは小学生の時に死別。実父は昨年、彼女の家庭教師だった元大学生と再婚した。
「そりゃ嫌か」
独りごち、浜岡の資料の入ったファイルを閉じた。
「島田先生があたしの担任ですか。嬉しいです。よろしくお願いします」
最初の面接の日、腰掛けた浜岡はにっこりと笑って、そう言った。
「嬉しい?」
そう尋ねると、浜岡は、あれ、間違ったかな、という顔を一瞬見せてから質問に答えた。
「若い先生だと話しやすいし、それが一番人気の島田先生ならラッキーです」
ニコニコ笑顔はぱっと見、14歳という年相応。
でも、それが14歳とは思えないくらいの作り笑顔であることに気付いて、私はゾッとした。
「これから毎週、面接するけど、大丈夫?」
「はい」
「嫌な話でも?」
そう言うと、ようやく浜岡の笑顔が少し曇る。踏み込まなければ可愛いままでいてあげたのに、てところかな。
「事件の話ですか」
事件のことなら話すよ、って意味だよね。
「それだけじゃなくて」
「帰りたくない理由は話しません」
そう食い気味に言った浜岡は、ようやく作り笑顔じゃない笑顔を見せた。あざ笑うみたいにも見える明確な拒否だった。
★
もう会えないんだなと思うと寂しかった。
施設から出る時に、あたしを引き取ってくれた祖父母は、父親と住んでいた街から遠く離れたこの街に引っ越しまでしてくれて、あたしのことを誰も知らない街で、バイトしながら単位制高校に通ってる。事件のことも施設のことも何もなかったことみたいな生活は、正直言って予想以上に気楽だ。気楽すぎて、却って気まずい。
バイト先の店長も学校の友達も、あたしが男を半殺しにして施設に入ってたなんて知らない。
路地裏で押し倒されて、犯されそうになって、たまたま手に持ったビール瓶でこめかみ辺りを殴った。悲鳴を上げてひっくり返った男の顔を思い切り蹴り上げた。
後は、ひたすら蹴った。男は助けてって頼んできたけど、あたしがどんなに助けてって言ったって絶対ヤったんだろうから、知らねえよって思ってガンガン蹴った。
あたしの右足の爪が割れて指の骨にヒビが入るくらい強く蹴った。通行人が止めてくれなければ、殺してたかもしれない。
今は分かる。なんて酷いことをしたんだろう。
悪いのは男だからやりたいだけやってもいい、そんなのは狂った正当化だ。あたしの中には狂気がある。今でもあの時の狂気を思い出して怖くなる。そして、他人をあんなに傷つけたことへの罪悪感が巻き起こって苛む。
今、この気楽な生き方ができるのは施設の先生のおかげだ。
狂気を忘れるな、一生背負え、でも、なかったかのように生きてもいい。
矛盾するそんな生き方を教えてくれた先生には、施設を離れたら、もう会えない。
会えない筈だった。
「浜岡」
あたしはその声を覚えていた。
振り返ったそこには、先生がいた。
施設では制服かジャージしか見たことなかったから、私服姿は初めて見た。スカートだし、2年前より髪が長いから、すごい女らしくなってる。
「島田先生」
そう呼ぶと、先生は目を細めた。胸が熱くなる。
「なんで、ここにいるの?」
最大の疑問をなんとか絞り出すと、
「もう先生じゃないよ」
という答。
どういうこと、先生じゃなくなったって、やめちゃったってこと? どうして?
でも、あたしは、それを素直にきき返せなかった。
「あたしも、浜岡じゃないよ。お爺ちゃんたちの養子にしてもらったから、苗字、変わったんだ」
14歳だったあたしは、今よりも輪をかけてバカで、ずっと意地っ張りで、意気地なしだった。
もう、死ぬしかないかと思って家を出たのに、どうにも怖くて、ふらふら夜の街を
とても良い子なのに、どこか扱いづらい、施設の中で、あたしはそんな子だったんじゃないかな。
そんなあたしの担任が島田先生だった。
先生は若くて元気な熱血職員で、施設の子供達の人気者だった。うまく可愛がってもらって、どこか適当な養護施設にでも送り込んでもらえればいいや、って考えた。親のとこじゃなければどこでもいいのに、なんで親元に帰れってみんな言うんだろう。
★
浜岡に反省用の課題を与えれば、きっちりと提出してくる。事件の反省、過去の失敗、親への感謝、今後の生活設計、どんな課題でも教科書通りのように卒ない回答をしてくれる。要領良く集団生活もこなしてるから、施設内での評価は高い。だから、帰る場所さえ決まれば、施設から出るのは簡単だ。このままでいいなら。
でも、いいわけがない。
浜岡は、いつまで「良い子」を演じ続ける? ずっと続けるなんて無理に決まっている。それに、本当の良い子なら親を嫌がらないだろ?
「浜岡は嘘つきだね」
そう言うと、浜岡はなんのことですか、と言うようにいつもの創り笑顔を見せた。
「島田先生、あたし、ちゃんとやってますよね」
そのとおり。担任として全く不満はない。
「浜岡は、どこに帰りたい?」
「自宅以外なら、どこでもいいです」
「行きたいところ、あるでしょ?」
そう尋ねると、ほんの一瞬、目を泳がせたが、すぐに創り笑顔に戻って首を振った。
「死にに行くなら、どこだって同じって、顔に書いてあるよ」
代わりにそう答えてやると、図星だったのか、浜岡は創り笑顔を忘れて、険しい顔で私の目を見た。
正直な顔を見せてくれた代わりに、私も指導担当者として、あるまじきことを告げてやることにした。
浜岡
「親への当てつけに死ぬんだったら、施設じゃなくて自宅に戻っても構わないと、私は思うよ」
浜岡は、ぎ、っと私を睨んだ。
初めて見せた、素の浜岡だ。今度は、私が「先生」の創り笑顔で、余裕があるような振りをした。
「今、ここで死んだら、島田先生はクビになりますよね」
浜岡は、自分で自分の首をグッと締めた。その手にはかなり力が入っていて、その顔はすぐに赤くなった。
止めなきゃ! どう止める。非常ベルを鳴らして、人を集めないと。それは子供が危険な行為に出た時のマニュアル通りの行動。
でも、私はそれをせず、慌ててない振りをして、グッと顔を浜岡に近付けた。
浜岡はそれに驚いて、体を後ろに下げ、その動きのせいでバランスを崩し、首から手が離れた。
「施設では、良い子、にするんでしょ」
私は、さらに顔を近付けて駄目押しする。浜岡は怖気付くように赤い顔のまま後ずさる。どうやら、首を絞める気はなくなったみたいだ。「ちゃんと座りなさい」と言ってやり、私たちは、元の距離、机を挟んでの面接の形に戻った。
自分でも、自分がなぜこんな止め方をしたのか、理解できず、内心では混乱している。でも、それを顔に出さない。主導権は私が持たなければ。
さておき、近くで見ると、殊更に浜岡の顔は整って見えた。
浜岡は、椅子に腰掛けると、自分で自分を落ち着かせたいのか、口に両手を当てて深く息をした。
ふーふーと息の音がしていたのが、不意にそれが止まったので、どうしたのかと思い、顔を覗き込むと、目にいっぱい涙を溜めていた。長いまつ毛がパタリと落ちて、瞬きをすると
ぽた、ぽた。と机に水滴が落ちた。
その水滴が宝石のように綺麗だと思った私は、浜岡にティッシュペーパーを渡してやることができず、宝石が落ちて液体になるのをしばらく見詰めていた。
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