ロスト・イン・ブルー

すと

ロスト・イン・ブルー

 バスが向きを変えると、少しだけ開いた窓の隙間から、生温い風が車内を吹き抜けていった。目を閉じて肺に取り入れると、中にはたくさんの夏の記憶が混じり合い、溶け合っているのが感じられた。それは私が歳を重ねるうちにいつのまにか忘れてしまって、どこかへと失われてしまった記憶たちの残響だった。

 普段都会で過ごしているときに、そのように風を感じることはない。都会に吹く夏の風は、どこまでいっても不快な空気の塊の流れでしかなく、そこに意味らしきものは伺えなかった。目を瞑ると瞼の裏側に浮かぶ、曖昧な模様と同じように。

 私は窓際に座っていた彼女の方を横目で見た。彼女は窓の縁に頬杖をつきながら、流れる景色を眺めていた。ときおり目にかかった前髪を鬱陶しそうにかきあげる以外は、窓に映る彼女は基本的に無表情で、いったい何を考えているのかわからなかった。

 しばらくその様子を黙って見ていると、窓越しの私の視線に気づいたのだろうか、彼女はそのままの姿勢で独り言を漏らすみたいに小さな声で言った。

「暑い」

 私は横に置いてあった鞄に手を伸ばし、そこからバスに乗り込む前にコンビニで買ったアイスコーヒーを取り出し、彼女に差し出した。

「飲む?」

 彼女は無言でそれを受け取り、ストローを口に咥えた。茶色の液体が透明な筒の中を満たすと、彼女はまるで口に入れてはいけないものを、間違えて入れてしまったみたいに顔をしかめた。

「にが」

「ごめん」と私は謝った。「コーヒーじゃないものを買ってくればよかった」

「お母さんはコーヒー、苦手なのに」

「そうだね」と私は彼女の母親が、全く同じように顔をしかめる光景を思い出し、頬を緩めた。

 彼女は私が笑うのを不服そうな顔で見ながら言った。

「こういうのって、やっぱり飲める方がいいのかな」

「どうして?」

「だって、選択肢は多い方がいいじゃない」

「別に気にしなくていいと思うよ。コーヒーが飲めて得することなんてほとんどないし」

 彼女は手元のカップを、ちょうどワイングラスでするみたいに回した。カランカラン、と溶けずに残っていた氷同士が擦れ合う、涼しげな音が微かに鳴った。それから訊いた。

「お姉さんはどうして好きなの?」

 コーヒーが好きな理由?単純に美味しいから……というのは少し違う気がする。美味しくないコーヒーだってあるし。

「改めて訊かれると難しいな」と私は少し考えてから言った。「味がどうというよりはその、ある種の苦味が気分転換になるというか」

「苦いものが好き?」

「別にそういうわけじゃ……ゴーヤとかは苦手だし」

「変なの」と言って、彼女は少しだけ笑った。

「そうかもしれない」と私も自分の言っていることの不合理さについて同意した。「でもさ、好きなものに明確な理由なんてほとんどないんだよ。たぶん」

 彼女は手元のカップに視線を下ろし、私の言葉についてしばらく考えているようだった。まるでコーヒーの中に漂う澱の中に、ある種の人々が夢中になる具体的な理由を求めるみたいに。それからもう一度ストローに口をつけた。そしてまたさっきみたいに顔をしかめた。

「やっぱり苦手」と彼女は言って、私にそれを返した。

「もういいの?」

「うん」

 そう言って彼女はまた窓の方に顔を向けた。窓に映るその表情は相変わらず退屈そうだった。

 私はストローを咥えた。口の中に広がり、喉を通るその鋭利な苦味は、私の中にある余計な思考を削ぎ落としてくれる。まるで必要以上に伸びた街路樹の枝を、ハサミで切り落とすみたいに。


 バスは市街地をゆっくりと走っていた。通りを歩く人はほとんど見えず、シャッターの下りた古ぼけた建物がちらほらと見えた。いかにも少子高齢化の進む地方都市らしい街並みだった。時間はゆっくりと、けれども着実にこの街を蝕んでいた。

 車内には乗客がまだらに座っていた。少なすぎるというほどではないが、けっして多くもない。その多くが老人で、皆一様に特徴のない格好をしていた。彼らはこんな平日の昼間に、バスに乗ってどこに行くのだろう?

 次の停留所が近づくと運転手はその名前を読み上げ、誰かがボタンを押すたびに止まった。何人かが降りて、入れ替わるみたいに何人かが乗った。乗り込んでくる人もまた同じような格好をした老人だった。そのような光景が、自分の知らないところで毎日繰り返されているのを想像すると、なんだか不思議な気持ちになった。それは海の底にいる不気味な深海魚たちの日常を、思い浮かべようとするのに似ていた。

 四つか五つ目の停留所を過ぎたあたりだった。隣にいた彼女が、代わり映えのしない風景にいい加減飽きてしまったのだろうか、私に訊ねた。

「ねえ、あとどれくらい?」

 私は座席の上の方に貼ってあったバスの停車表を見た。文字が小さくて見づらく、目的の停留所を探すのに時間がかかった。もっと文字を大きくしてくれたらいいのに。

「まだ十駅くらい先みたい」と私は言った。「たぶんあと三十分くらいかかるかな」

 私の言葉に彼女は肩を落として言った。

「わかってはいたけど、結構遠いね」

 彼女が肩を落とすのもわかる。エアコンの効きが悪い車内で、年季の入ったくたびれたシートの上にじっと座っているのは、とても快適とは言えなかった。

「レンタカーでも借りた方がよかったかな」と私は今更ながら言った。

 私の言葉に彼女はゆっくりと首を振った。

「私が行きたいって言い出したんだから、気にしないで」

 それに、と彼女は付け足した。「お姉さんと一緒なら、いつだって楽しいよ」


 お姉さん、と彼女は私のことを呼ぶが、私たちは別に姉妹ではない。彼女は、私の姉の娘───姪にあたる子だった。私と姉は歳が九つほど離れていて、姉は大学を卒業するとすぐに結婚して家を出て、それから一年後に子供(今隣にいる彼女である)を産んだ。だから私と彼女は、一般的な親子ほど年齢が離れているわけではない。

 姉の家は歩いてすぐ行ける距離にあったことに加えて、姉夫婦は二人とも彼女を産んでからも忙しく働いていたので、私は昔から何かと彼女の面倒を見る機会が多かった。一緒に遊んだり、勉強を教えたり……一人っ子だった彼女にとって、年の差的にも私は姉のような存在だったのだろう、彼女はいつしか私のことをお姉さん、と呼ぶようになった、というわけだ。おばさん、なんて呼ばれるよりはずっといい。

 彼女といるのは私にとっても居心地が良かった。彼女は手のかからない大人しい性格の子だったし、同じような性格の私となんとなく波長が合った。それと……これは誰にも言ったことがないのだが、幼い彼女を通して、私が生まれる前の姉を知ることができるように思えて、それがなんだか嬉しかったというのもある。だから彼女がそれなりに大きくなった今でも、二人で出かけたりすることが多かった。


 肩を揺さぶられて、手元にあったスマホから視線を外す。私はもう目的の停留所に着いたのかと思い、前方の電光掲示板を確認した。目的の停留所はまだ四駅先だった。私は不思議に思い、肩を揺らした張本人の方を向いた。

「見て」と彼女は窓の方を指差しながら言った。「海」

 私は彼女の指差す方に視線を向けた。私がよそ見をしている間にバスは海沿いの道に出てきていたらしい。

「本当だ」と私は言った。目的地が海の近くにあることは知っていたが、泳げそうな砂浜があることまでは知らなかった。

「降りよう」と彼女は言った。

「え?」

 ちょっと待って、と私が声をかける前に、彼女は手を伸ばしてバスの停止ボタンを押した。紫色のランプが光り、ピンポーン、という音の後、次、止まりますという機械的な音声が流れた。

 私は左腕にあった時計を見た。時計の針はまだ十一時前を指していた。彼女の方を見やる。さきほどまでの退屈そうな表情とは打って変わって、そこには期待に満ちた輝きが伺えた。

 まあいいか、と私は思う。彼女にしては珍しい突拍子もない行動に少し驚いたけれど、特に急いでいるわけでもないし、海を少し眺めてからでも遅くはないはずだ。次のバスがいつ来るのかが少し心配だけど。

 それからすぐにバスは止まり、私たちは海岸沿いにある道路の停留所で降りた。降りたのは私たちだけで、代わりにバスに乗った人もいなかった。

 私たちはスマホの地図を見ながらしばらく道沿いを歩き、海辺にあった海浜公園に入った。そこは防風林の役割も果たしているらしく、松の木が多く植えられていた。海からの風が吹くたびに、松の細い葉が擦れ合う柔らかな音が蝉の声に混じって聞こえた。潮風で酷く劣化したブランコが、まるで古代の遺産のように木立の中で寂しげに佇んでいた。

 松林を抜けると、そこには白い砂浜が広がっていた。南国の美しいビーチ、とまではいかないが、十分泳げそうな海だ。あまり知名度のない場所なのだろうか、あるいは時間帯によるものだろうか、辺りは閑散としていた。砂浜で遊ぶ観光客がまばらにいるのと、沖合でサーフィンをする人影がいくつか見えるくらいだ。

「ちょっと遊んでくる」と彼女は言った。

 気をつけて、という私の言葉を置いて、彼女は振り返らずに海の方へと歩いて行った。白いワンピースを着たその背中が、徐々に小さくなって、砂浜と混じり合っていった。

 私は木陰に立ったまま一息ついた。それから水平線の方を見ながら考える。最後に海を見たのは、いつだっただろうか?そこまで昔のことではなかったはずなのに、うまく思い出せなかった。うだるような暑さが、頭の中にある適切な引き出しを開けるのを阻害しているみたいだった。

 私は空を見上げた。空にはいくつもの小さな白い雲が浮かんでいた。それはまるで私のまとまりのない思考の欠片みたいにも見えた。

 雲の間を縫うみたいにして、一羽の白いカモメが上空を横切った。それから何かを啓示するみたいに、鋭い声で鳴いた。


 そして気がついたとき、先ほどまで確かにあったはずの姪の姿がなかった。ちらほらといた他の観光客も、遠くに見えたサーファーの影もなかった。

 一体何が起きたのだろう?私は呆然と立ち尽くす。辺りは賑やかな蝉の声に満ちている。それに混じってささやかな波の音が聞こえる。海から吹いてくる風には、潮の匂いが混じっている。空には眩い太陽と、小さな白い雲が浮かんでいる。ただ周りにいた人たちだけが全員消えてしまった。まるで画像編集のソフトで消したみたいに。

 とにかく姪を探さなければ。私は砂浜を歩いて、波打ち際の方へと歩いていく。それから違和感に気づく。不自然に低い目線、思うように動かない身体……そして明らかに小さな自らの足。私は立ち止まって、自らの身体の状態を点検する。間違いない。私はいつのまにか小さく、いや、幼い頃の身体になっていた。

 暑さで変な夢でも見ているのだろうか?私はもう一度辺りをよく見渡す。遠くで白いワンピースを着た少女がしゃがんでいるのが見える。私は夢中でその後ろ姿まで駆けていく。声をかけようとしたときにやっと気づく。それは姪ではなく、全く同じ格好をした、若い頃の姉だった。

 姉は手のひらで足元の砂をすくい、指の間からゆっくりとこぼした。少しずつ場所を変えては、それを繰り返していた。まるで何かの儀式みたいに。

 何かを探しているのだろうか?ここは一体どこなんだろうとか、どうして姉がいるのだろうとか、そういう様々な疑問について考えるより先に、私は姉に声をかけた。

「何か探しているの?」

 姉は私の言葉に振り返り、曖昧に笑った。それからふくらはぎに張りついた砂を手で払い、立ち上がった。

「探してたんだけど、もういいの」

「どうして?」

 姉は少し困ったような表情をした。それから言った。

「きっと失くした方がいいものだったから」

 失くした方がいいもの?

 姉はそれ以上何も言わなかった。私は姉の表情を見上げた。水平線を見つめるその表情は、逆光で影になってよくわからなかった。

 足元では小さな波が白い縁を作っては、泡となって消えていった。何度も、何度も。私はその様子をぼんやりと眺めていた。その永遠にも思える繰り返しを見ていると、現実と非現実の境界線が、徐々に曖昧になっていくように感じられた。

 しばらくして少しだけ大きな波がきた。私はそれに足元を取られ、バランスを失いそうになる。けれども姉が後ろから支えてくれたおかげで、尻餅をつかずに済んだ。

「大丈夫?」

 私は頷いた。

「生きているとさ、色んな種類の波がくるんだよ」と姉は私の肩に手を置いたまま言った。「足元を濡らすくらいの穏やかな波がくることもあれば、足を掬われてしまうような大きな波が突然くることもある。あるいはそのまま海に飲まれてしまうような、巨大な波がくることだってあるかもしれない」

「そんなに大きな波がきたら、どうしたらいいの?」

 姉は私の隣に屈んで、目を合わせた。海を連想させる綺麗な青い瞳だった。じっと見つめていると、吸い込まれてしまいそうだった。それから姉は私の手を、そっと両手で包み込んだ。

「簡単だよ」と姉は言った。「大切な誰かと手をつなぐの」

 それは私が忘れかけていた、懐かしい温もりだった。そしてその温もりがいつまでも、いつまでも私を包み込んでくれたらよかったのに、そう思った。


「どうしたの?」

 目の前の彼女が、心配そうに私を見つめていた。

 私は慌てて辺りを見渡した。当然そこにあの頃の姉の姿はなかった。私は自分の手を見る。それはもうあの頃の小さな手ではない。そしてあの温もりも残されていない。私は顔をあげる。代わりにいるのは姉とよく似た彼女だ。

 あれは過去に本当にあった出来事だったのだろうか?それともただの白昼夢だったのだろうか?私には判別がつかなかった。

「なんだか上の空」と彼女は言った。

「ごめん」と私は謝った。「少し考え事をしていたみたいだ」

「何を考えていたの?」

 私はどう説明したらいいのかわからず、言葉に詰まる。それに彼女に先ほどのことを伝えるのは、どういうわけか不適切な気がした。

 何も言わずに俯く私に彼女は言った。

「これあげる」

 そう言うと彼女は私の手のひらの中に小さな貝殻を落とした。それは淡いピンク色を帯びていて、まるで季節外れの桜の花びらみたいだった。

「さっき拾ったの」

「ありがとう」と私は言って、ポケットにしまった。

「ねえ」と彼女は言った。「今の私、どう思う?」

 彼女は私の目の前でひらりと回った。白いワンピースの裾が翻って、優しく空中をなでた。額に滲んだ汗が太陽の光を受けて、水面に映る花火のように光った。

「どうって、その……かわいい、と思う」

「どのくらい?」と彼女は私の目を覗き込んで問いかける。

「とても」

 私がそう答えると、彼女はあからさまに不機嫌そうな顔をした。どうやら私の答えは不正解だったらしい。

「さっきさ、お母さんのこと考えたでしょ」

 彼女はそう言うと、私の身体をゆっくりと砂浜へと押し倒した。あまりにも突然のことすぎて、抵抗する暇もない。太陽の光を吸収した温かな砂の感触が、薄いシャツの布越しに背中に伝わる。あれだけうるさかったはずの蝉の声が、どこか遠くで鳴っているみたいに聞こえる。

 彼女の耳にかかっていた前髪が落ちて、私の頬をゆるやかに撫でる。そのこそばゆい感覚に、私は思わず身をよじる。そんな私を逃さないようにするみたいに、彼女は私の手を絡めとる。繋いだ手はじっとりと汗ばんでいる。彼女の深い青色の瞳が怪しげに光って、私の瞳を捉える。私は仰向けのまま、その瞳の中に落下していく。

「こっちを見て」と彼女は言う。


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