後編

 自他共に認める地味な少女、花村ヒナセが萩野紅子はぎのべにこと出会ったのは高校の入学式。


 芸能界にいてもおかしくないほど可憐に整った容姿だけでも目立つのに、特に周りの目を引いたのは彼女の真っ赤な長い髪。

 明らかに自然な色などではないが、名前の通り紅子にはその髪が異様なほどよく似合っていた。

 毒々しいくらい鮮やかで華やかで、つい触れることを躊躇ってしまうけれど、きっと薔薇のような棘はない。そんな雰囲気の女の子。

 第一印象でそう思った。


 同じクラスで、出席番号順の席で前と後ろ。

 あまりにも遠い世界の人にしか見えない紅子はしかしあっさりとヒナセを振り返り、天使のような微笑みを向けてくれた。


「仲良くしてね。ヒナセって呼んでいい?」


 入学式の後すでに彼女はいろんな人に取り囲まれて楽しげにお喋りしていたから、まさに日陰の者である自分に声をかけるどころか視界に入れてくれるとも思っていなかったヒナセは危うく椅子ごと後ろにひっくり返るところだった。

 なんで、やどうして、といま思えば失礼でしかない言葉を震えながら繰り返すことしかできないヒナセに、紅子は目を瞬かせて。


「だってヒナセ、入学式のとき私のことすっごい見てたでしょ?」

「みっ……見て、まし、た! ごめんなさい!」

「いやなんで謝るの。ていうか、見てたってだけならほとんどの人が見てたよね私のこと。そりゃそうだよねーこんなアタマしてるからぁ。赤が好きってだけなんだけどなー!」


 手を叩いてケタケタと笑う。屈託のない表情には嫌味などカケラもなかった。

 呆気に取られるヒナセだったが、不意に紅子が下から覗き込むように顔を近付けてきて心臓が派手な音を立てた。


「でもね、顔とか髪とかばっか見てる人たちと違ってさ。ヒナセは私の全部を見てくれてるなって思ったから」


 至近距離で見る彼女の美貌は、白い肌のきめ細やかさや睫毛の長さまで分かって圧倒された。

 それと同時に——夢じゃないのか、と思った。


「だから仲良くなりたいなーって、思ったの」


 こんなに美しく完璧な人にそう言ってもらえる幸福が、自分なんかに訪れたことを。


 そこからの日々は幸せすぎて、一分一秒たりとも忘れてなどいない。

 毎日一緒にお弁当を食べたこと。下校中に突然始まる鬼ごっこ。苦手だった体育祭も紅子と一緒なら涙が出るほど楽しくて、終わるのが惜しいくらいだった。


 紅子は本当に美しい女の子だった。

 見た目だけの話ではない。

 よく笑い、何ごとにも全力で心から楽しみ、悲しい話を聞けば我がことのように涙を流した。困っている人がいればすぐに声をかけ、力になれるよう尽くした。

 最初こそ好奇の目に多く晒されていたが次第に誰からも好かれ敬われ、ヒナセの目にはまるで神様のように映っていた。


「ヒナセー!」


 青空をバックにした紅子が赤い髪を靡かせ、誰よりも優先して名前を呼んでくれる。

 その度にヒナセの心は踊った。頬が熱くなり、鼓動が高まり、胸を掻きむしりたくなる衝動に人知れずそっと名前をつけようとしていた頃。


 神様は突然、いなくなってしまったのだ。




 ◆ ◆ ◆




 すっかり日も暮れた。

 なんとか飲み切ったあのソーダフロートに似た色の空が夜の闇に上書きされかける中を、ヒナセはただがむしゃらに走った。そうせずにはいられなかった。


 ——死んじゃったらしいよ。

 ——恨み晴らさずおくべきか、的な。

 ——死んだはずなのにさ。


 喫茶店で聞いた言葉が脳裏にこびりついて離れない。

 他人はああやって軽く死んだなどと口にして、恨みなどと適当なことを言う。

 あの子がどんな子かを知りもしないから。

 許せない。許せない、許せない!

 悔しくて悲しくて、叫び出したかった。


 飲酒運転の車だった。

 夏祭りに二人で行った、その帰り道だった。

 信号無視して飛び込んできた車にいち早く気付いた紅子に突き飛ばされ、ヒナセは擦りむいただけで済んだが。

 まったく減速などしていない車に飲み込まれていった紅子。柘榴のように割れた身体から真っ赤な血が咲いていくのを、ガクガクと震えながら見ているだけしかできなかった。


 いなくならないで!

 私を置いていかないで!

 まだ何も伝えられていないの!

 お願い、お願い!


 どうか奇跡が起きて助かって欲しいと、固く閉ざされた手術室の扉の向こうへ捧げた無力なヒナセの祈りなど世界中の誰も叶えてはくれない。

 犯人はその場で逮捕されたが、まだ裁判は続いている。遺族の悲しみもまだまだ続くだろう。

 そして一年経った今でもヒナセの心もまた、真っ赤に染まった物言わぬ紅子の前に取り残されたままだ。


「……ッ!」


 もつれた足に躓いて、そのままヒナセは倒れ込んだ。

 咄嗟に手をついたがアスファルトに擦れた手のひらはきっと悲惨なことになっただろう。強く打った膝もじんじんと痛み、涙が滲んだ。


「……紅子ちゃん……」


 名前を呼んでももう返事などない。

 間違って買ってしまった炭酸ジュースを、自分だって炭酸が得意ではないのにオレンジジュースと交換してくれた優しいあの子はもうどこにもいないのだ。

 それに被害者が一人且つ犯人が逮捕済みなせいか世間では紅子の事件はあまり大きく取り扱われず、そんなこともあったっけと誰もが忘れかけている。

 神様のようなあの子を、誰ももう知ることはない。


(——そんなことは)


 傷だらけの手を握りしめる。

 顔を上げると、転んだ拍子に鞄から飛び出してしまったらしいスマートフォンが少し先に転がっているのが見えた。

 カタツムリのような緩慢な動きで起き上がり、ちょうど通知が来て明るく画面を光らせているそれを拾う。


(そんなことは許さない)


 新着メールを知らせる通知。

 深く息を吸い込むと、手のひらと膝の痛みも幾分か和らいで行く気がした。


(あの子は優しくて強くて完璧なの)


 メールを開く。手のひらの血がスマートフォンのシリコンカバーをじわりと染めたが、特に気にならない。

 びっしりと書き綴られた嘆きを無感情にスクロールして、最後に添えられた「助けてください」の文字にわずかに唇を吊り上げた。


(助けてあげる。あの子なら助けてくれるから。優しいあの子なら、困っている人を見捨てたりしないから)


 きっと優しいあの子は、自分を轢いた相手のことも恨んでなんかいない。

 だからこれは復讐の手伝いなんかではない。あの子はそんなことはしない。困っている人を助けている、それだけだ。

 まだまだ世間は勘違いしている。仕方ない、本当は神様ではない自分があの子に代わって叶えられるのはお願いだけだから。だから悔しいけど、許せないけど、今はまだそう思われたって仕方ない。

 いつかきっとみんなも気付いてくれるはずだ。

 あの適当に見えるローマ字の文字列だって入れ替えればhaginobenikoになる。分かりやすいようにあちこちにヒントや噂を撒いているのだから。

 実際、今日の二人組はあの子が【ざくろさま】ではないかというところまで辿り着いていた。

 だから分かってくれるはず。そしてずっと、忘れずにいてくれるはず。

 分かってくれるまで繰り返す。分かってもらえてもずっと続ける。そうしたらきっと、みんなの心に刻まれる。


 萩野紅子は、困っているみんなを助けてくれる優しい神様になったんだと。


「紅子ちゃん、わたし、頑張れるよ。あなたのためなら。あなたをみんなの神様にするんだから」


 そうなれば誰も、あの子のことを忘れない。

 あの子はこの世界からいなくなったりなんかしない。

 

「ねえ、紅子ちゃん」


 肩に掛け直した鞄の底から取り出した真っ赤なウィッグ。

 作り物の長い髪をしっかりと目深に被り、幸せそうに微笑んだヒナセは暗がりの中を再び走り出した。



 了

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ざくろさま 陣野ケイ @undersheep

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