ざくろさま
陣野ケイ
前編
「ねえ、【ざくろさま】って知ってる?」
真夏の日曜日、午後三時。
焼け焦げてしまうのではないかと思うほどの日差しから逃れ、高校二年生の花村ヒナセは駅近くの古めかしい喫茶店へとやってきた。
一番手前の席へと案内され、冷えた空気に安堵して大きく息を吐く。今日日なかなか見ない、茶色い木目の大きなエアコンが立てる派手な音に気を取られていたちょうどその時。
後ろの席から聴こえてきた声に、息が止まるのではないかと思った。
「え、なにそれ。アンタの新しい推し?」
「そういう意味のサマ付けじゃねえんだわ。……あれよ、なんて言うんだっけ……最近ウワサの怖い話的な」
「都市伝説?」
「そうそれ!」
小心者のヒナセには、振り返るなんて目立つことは到底できない。
眼鏡のレンズにぽたりと落ちた汗を拭うことも忘れたまま、大きくなっていく自分の心臓の音を感じつつ知らない二人の会話を聞いていた。
「アンタそういうの好きだったっけ?」
「いや別に。昨日部活の先輩から聞いたばっかの話なんだけど、面白かったから他の人にも話したくなっちゃって」
「ふぅーん」
二人組の片割れは、まだあまり興味をそそられないようだ。
ドリンクに備え付けられたストローでも行儀悪く噛んでいるのか、相槌が妙にくぐもっていた。
「まあ聞いてって。ほら、地元掲示板サイトってあるじゃん。アレでこのへんの地域の雑談掲示板を探すと出てくるんだけど……【ざくろさま】ってタイトルのスレッドがあんのよ。最初の書き込みはなんか適当なローマ字の羅列。で、その下に捨てアド系のサービスでとったっぽいメールアドレス」
「やーん怖ーい」
「棒読みなんだわ〜」
「まあまあ。……その言い方からするとホントにあるスレなの? それ」
「あるよ。ほら」
ぎしり、と椅子が軋む音がした。
噂話を切り出したほうの女性が身を乗り出し、向かいに座る相手の眼前にスマートフォンの画面を差し出したらしい。
「マジだ。メルアドもある。で、これが何?」
「ここにメール送ると願いが叶うんだって」
「はい嘘ー」
断言ののち、残り少なくなったドリンクを限界まで啜る音。
「決めつけんの早い!」
「だってそんなわけないじゃん。願いが叶う系のやつはたいてい嘘よ」
「夢のない女め……」
呆れ返った声と共に脱力して座り直したのか、後ろの椅子がまた大きく軋んだ。
彼女には悪いが、ヒナセには連れの女性が言うことのほうが理解できる。願い事はたいてい、叶わない。特に何かに縋りたくなるような、そんな切羽詰まった願いは。
盗み聞きに気づかれないようにしなくてはとそこで初めて思い至って、ヒナセは慌ててメニューを開いた。
心配せずともそんなヒナセを気に留めることもなく、二人のおしゃべりはまだ止まらない。
「いや、ていうか違うんだって」
「何が」
「願い事っていうかさ。違うのよ。この【ざくろさま】が叶えてくれるのは、復讐なの」
からん、と。
グラスの中で、溶けた氷が崩れて鳴いた。
後ろの席のそんな些細な音もはっきり聞こえてくるほど、その場を重い沈黙が包み込んだのは二秒間。
「……はあ?」
嫌悪感と猜疑心、そこにほんの少しの好奇心が複雑に混ざり合ったような。そんな声だった。
カラカラの口の中で唾の代わりに空気を飲み込み、ヒナセは「すみません」とか細くホールスタッフを呼ぶ。
明るい返事と笑顔と共に軽い足取りで注文をとりにきた年若い男性スタッフは、どうやら彼女たちの会話などまったく耳に入っていなかったらしい。彼は直前まで店の古いエアコンにうっとり見入っていたようだった。いわゆる家電マニアというやつなのかは、ヒナセに知る由もないが。
「あの、ソーダフロートを一つお願いします」
「ソーダフロートですね。かしこまりました!」
元気よく注文を繰り返して確認し、少々お待ちくださいませと微笑んでスタッフは厨房へと足早に去っていった。
人の話を盗み聞きなんてしてませんというポーズのために勢いで呼んでしまったから、メニューなんて決めていなかった。
そのせいで咄嗟に目についたおすすめメニューとやらを頼んでしまったことをヒナセは早くも後悔する。炭酸がそもそもあまり得意ではないのだが、ソーダフロートなど完食できるだろうか。
——あれ。炭酸、苦手なの?
不意に、懐かしい声が耳に蘇って。
心臓を鷲掴みされたような痛みが身体と心を駆け抜けて、ヒナセは唇を噛む。
「物騒な話でしょ。でも本当なんだって。先輩いわく先輩の友達……いや先輩の彼氏の妹の友達だったっけ?」
「いま一気に信憑性薄まったんだけど」
「いいから最後まで聞けし! とにかくその子がさ、部活のコーチにいっつもめちゃくちゃ理不尽に怒られるんだって。よくいるじゃん、自分の機嫌悪い時にストレス発散したくて大人しい子に難癖つけて当たる奴。そういうアレ」
「うーわ。いるいるそういうの。最悪」
ヒナセが痛みをゆっくり自分の中で消化している間にも、二人の会話は弾んでいた。
「いつものことすぎて周りも慣れちゃってさ、むしろその子が怒られてれば自分たちには降りかかってこないから見て見ぬふりなのね。だから最初こそ慰めたりしてくれてたのに、どんどん誰も助けてくれなくなって。そんな時に聞いたんだって。この【ざくろさま】のウワサ」
【ざくろさま】というスレッドに書かれているメールアドレスに、復讐したい相手の名前や恨み言を書いて送る。
恨み言は多ければ多いほど、ざくろさまは願いを聞いてくれる。
どうしてそいつに復讐して欲しいのか、どんな奴なのか。相手のどんなところが憎いのか。どこで、何をされたのか。
先輩とやらからそんなふうに聞かされたのだろう。【ざくろさま】に復讐代行を願う決まり事の数々を重々しく語る彼女は、やや興奮しているようでもあった。
「で、送ったの? その子。復讐してって」
「送ったんだってさ。でもしばらくは何も起こんなくてさ、やっぱウワサはウワサかあって諦めかけてた頃に」
一度区切り、彼女はぐっと声のトーンを低くして。
「顧問が棒とかバットとかそういうやつでボッコボコに殴られて道路に倒れてんのが見つかって、病院送りになったんだってさ」
すぐ近くに座るヒナセにあまり聞こえないようにか、それとも演出目的でか、囁くようにそう言った。
残念ながら聞き耳を立てていたヒナセにははっきりと聞き取れてしまったが。
「……マジの話?」
聞き返す連れの女性の声も、つられて同じくらい小さくなっている。
「マジ。部活帰りの途中で誰かに襲われたっぽくて、発見は朝だったって。今も意識不明の重体ってヤツ」
「こっわ。犯人は? 目撃者とかいないの? てかそれ普通に障害事件じゃないの?」
「人通りが少ない川沿いの道だったぽくて、現場はちょうど防犯カメラの死角だったみたい。でもその日ね、現場の近くで——真っ赤な髪の女の子がウロウロしてるの見た人がいるんだって」
真っ赤な髪。
そのフレーズが耳に飛び込んできた瞬間、ヒナセは眼鏡の奥の目を見開いた。
教室の窓辺。非常階段の踊り場。歩道橋の上。記憶の中、様々な場所で毒々しいくらい鮮やかな赤い髪が風に踊る光景が蘇る。
——ヒナセ!
長い睫毛に縁取られた大きな垂れ目が細まり、形のいい薄い唇がかぱりと開いて、鳥の囀りのような澄んだ声が名前を呼んでくれたことを思い出す。
記憶の中の彼女に、ヒナセは声にならない声で呼び掛け返す。
「真っ赤?」
「たぶん、染めたとかカツラとかそんなのじゃないかなってくらい真っ赤なんだって。この【ざくろさま】に復讐お願いしてそれが叶った時は、必ず近くにその真っ赤な髪の女の子がいるらしいよ」
「ええ……何それ。その子が【ざくろさま】の正体ってこと?」
「うーん……、……あのね、これもウワサの一つなんだけど」
もはや盗み聞きしていない体を繕うことも忘れ硬直しているヒナセの後ろで、彼女はまたグッと声を小さくした。
「大通り抜けたとこにK女学院ってあるじゃん?」
「あるね。高等部と中等部と隣同士にあるやつね」
「そこにね、去年まで実際いたんだってさ。真っ赤な髪の女の子」
今度こそヒナセの息は本当に止まった。ついでに心臓も止まるのではないかと思った。
身体が震え出したのはエアコンの効き過ぎのせいではないだろう。寒いも暑いも、今のヒナセは分かっていなかった。
「え、いたの本当に?」
「そうそう。なんでそんな派手な髪の色してたのかは知らないけどね。でも夏休み中に事故って入院して、そのまんま」
死んじゃったらしいよ、と。
特に何の感情も込められていない声で紡がれた言葉は、ヒナセにはどこか知らない国の言葉かのように聞こえた。
「お待たせしましたー! ソーダフロートです」
いつの間にかテーブル横まで来ていたスタッフにもまるで気付かなかった。
紙製のコースターの上に想像していたよりも大きなグラスが置かれ、ヒナセは大きく肩を跳ねさせる。
サービス精神旺盛に盛られたバニラアイスの下、氷の層を挟んで泡を弾けさせる透き通ったソーダは底に行くにつれ夕焼けのように美しい赤のグラデーションになっていた。
テーブルの上に開いたままだったメニュー表へぎこちなく目を落とすと、グレナデンシロップ使用という文字が目に入る。
赤い色の元はこれか、と上の空のまま考えた。
「轢き逃げにあったって言われててさ、その子。だからほら、その恨みとかなんじゃない?」
「えっ幽霊って言いたいの?」
そろそろお会計、と腰を上げながらも引き続き噂話に盛り上がる二人は、ヒナセを一瞥することもなく通り過ぎていく。
聞かれていたかもしれないなどという気まずさは特に感じていないらしい。
「そうなんじゃないの? 恨み晴らさずおくべきか、的なのの流れで他の人の恨みも叶えてくれるオバケになったとか」
「そんなことあんのかなぁ……?」
「だって実際、真っ赤な髪の女の子は目撃されてんだよ。死んだはずなのにさ」
手早く会計を済ませ、レトロなドアベルを鳴らして二人は出ていく。
最後の最後に残された言葉が、ソーダフロートに手を付けられないままで俯くヒナセの胸に重く沈んだ。
◆ ◆ ◆
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