眠れない夜
男は、不眠症に悩まされていた。
ニュースでうるさく言われ続けている熱波のせいだろうか、はたまた住んでいる安アパートの近くの高速道路を夜な夜な駆け回っている暴走族のせいだろうか。とにかく眠れないままにベッドに横たわり、無為に時間を浪費しているような徒労感と疲労感に心を浸す日々を送っていた。
薬を飲んでみもしたがあまりにも眠れないので、起きているときの一挙手一投足がだんだんと憂鬱になっていった。
乗っている電車がものすごく鈍足に感じたり、はたまた一瞬で着いたように感じたりすることが増えた。家を出て山手線に乗り、3周してなお高田馬場駅で降りていないことを自覚したとき、おかしくなっていく時間の感覚が、夜だけでなく昼日中にも侵食してきたらしいと知った。
講義時間が去年より延びた影響か、つまらない講義を聴いていると大抵睡魔がぬるりと襲ってくるが、そういうときの眠りはただ意識が落ちているだけのようで、精神衛生と身体能力の改善には一ミリも寄与しないように思う。これとバイト先の空き時間での居眠りが、男の睡眠時間とかろうじて呼べるものの全てだった。
このていたらくを見るに見かねた友人の一人が、わずかな休暇を利用して男を宮崎のとある神社へと連れて行くことにした。男は神、ましてやお祓いなどを信じては居なかったが、役に立つなら儲けもの、そうでなくても気分転換になればいいと思い、深く考えることなくうなずいた。
家から羽田空港に向かう道のりはうだるほど暑く、コンクリートで舗装された道の至る所にふわふわとした陽炎が見えた。あるいは、眠れない脳が映した幻覚かもしれなかったが、それでもいいと男は思い、予約しておいた飛行機の一席に身体を沈め、ひとときの意識の断絶を粛々と受け入れた。
しばしの暗澹とした時間を経て、飛行機の後輪が滑走路に触れる衝撃で男は意識を取り戻し、そこからは友人の先導を受け目指す神社へたどり着いた。
神社の本殿は山を登った先にあり、移動中は東京に負けず劣らずの暑さと湿度に汗が止まらないほどだった二人だが、山中は日光の大部分が青々と生い茂る木によって緩和され、風通しも良いこともありむしろ快適であった。
そんな環境の中でも、男の目にはいくつもの陽炎が、山道から茶屋の天井からわらわらと湧き出す光景が見えていた。
あれはただの陽炎なのか、それとも幻覚なのか、この世のものではないのか。男にはそれを判断するまでの心の余裕はなく、ただ濁った視界でまだ見えないはずの本殿を見ようとしていた。
本殿に到着してから、友人は話をしてくると言って朱塗りの建物の中に消えていった。もう日は落ちかけているにも関わらず、陽炎は相変わらずどころかむしろ数を増し、鳥居や石碑のまわりに浮いているのを男はただ眺めていた。
友人はすぐに神主のような装いをした老人と連れだって男のいる場所へ戻ってきた。老人は男を一目見るなり顔色を変え、友人に二言三言耳打ちをした後に男に着いてくるように告げ、急ぎ足で本殿へ通された。
本殿の幅広の廊下を歩き、男は奥まった広間へと導かれた。広間の四方のふすまは開け放たれており、どこからでも庭とそこを流れる川が見えた。そして、男を驚愕させたのは、その開放感と裏腹に、部屋中といわず空間のそこかしこに陽炎が充満していたことだった。
その圧迫感に男は耐えきれず、思わず崩れるように倒れ込むと、老人は男の目をのぞき込み、
「安心しろ、もう眠れぬ夜が来ることはない」
その言葉とともに、男のみぞおちに掌底をたたき込み、突然の凶行へ驚愕する間もなく、男の意識は断絶した。
男の身体が地面に倒れるやいなや、本殿やそのまわりに確かに存在したものは全く同時に無数の陽炎へと姿を変え、泡がはじけるように消え去った。最後まで無表情だった老人と友人もその例に漏れることなく消失し、後には草が無秩序に生い茂った山の中腹と、そこで倒れ込んだ男が残されただけとなった。
そのまま男は二度と目覚めることはなく、いつしかその姿も陽炎へと変じ夜の闇に消えていった。
風を遺す闇 タルタル索子 @ALTZN
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