風を遺す闇
タルタル索子
帰らずの間
これは、先輩から聞いた話。
去年の8月の終わりに、先輩とその友人2人とで、夏休みを利用して海の見える旅館に羽休めに行ったそうだ。
どうやら知る人ぞ知る有名どころのようで、まともに泊まろうとするとちょっとそんじょそこらの貧乏学生ではかなわないほどだが、友人の一人につてがあったそうで、格安でいけると太鼓判を押されて先輩も首を縦に振ったという。
電車と送迎バスを乗り継いで旅館にたどり着いた先輩一行は、まず仲居さんに、旅館の中を一通り案内してもらった。仲居さん曰く、
「例年決まって、この本館の中で迷われてしまわれるお客様がいくらかいらっしゃいますので、特にこの時期は当旅館の歴史を知って頂くのも兼ねて、初めてのお客様にはご案内をさせて頂いております」
とのことだった。
先輩はその言葉を聞いたときはまだ半信半疑だったが、館内を見て回るうちに、それは偽りではないと思い知らされることになった。広く明るい廊下、いつでも誰でも入れる美しく整備された中庭。また目に付くあらゆる空間は埃一つない美術品や骨董品のたぐいで埋め尽くされていて、なおかつ品性を欠片も落とすことはなかった。
通り一遍の解説を聞いた後、予約していた部屋に通され仲居さんがフロントに戻る際に、いくつかの注意事項を聞かされた。日が落ちてからは中庭には出ないこと、別館はこの時期は閉鎖しているので近寄らないこと、外出の際は鍵をフロントに預けること、内線の使い方、エトセトラエトセトラ。
その頃にはもう夕方になり、綺麗な夕焼けが見えてくる時間になっていたので、館内の露天風呂、サウナ、マッサージマシンを堪能し、夕食に舌鼓を打ち浴びるように酒を飲み、移動の疲れもあり全員すぐ眠りについた。
日付が変わって深夜になり、尿意で目が覚めた先輩は、激しい喉の渇きを感じていた。露天風呂の付近に自動販売機があったことを覚えていたので、そこで何か買おうと思い立ち、ジャージに薄っぺらいスリッパといういでたちで部屋から出た。
廊下の照明はいくつか消してあっていたが歩けないほどではなく、どこからか聞こえるカラカラという音を聞きながら、窓から差し込む満月の光もありなんなく自販機までたどり着けた。
天然水を買い、飲みながら帰路についた先輩だったが、廊下から見える中庭の端で、なにか動くものが見えた気がした。
中庭に足を踏み入れた先輩は、それが小さい黒猫に見えた。黒猫は先輩に気づくと顔を向けたが、その黒猫は目がなかった。
背筋が冷たくなった先輩は思わず一歩下がったが、右手の天窓のようなものから差し込む光が一瞬強くなったかと思うと、その黒猫は一気に膨れあがり、虎のような巨体に変貌した。
夜の闇を切り取ったような黒い巨体を見て、先輩は気絶してしまい、目が覚めるとそこは泊まっていた部屋の前の廊下だった。
ちょうど起き出してきた友人に笑われ、昨夜の記憶に半信半疑になりながら最低限の着替えを済ませて朝食のビュッフェ会場に着くと、受付をしていた仲居さんから
「付喪神に遭いましたね」
と言われた。
「めったに起こることではないのですが、あなたは運が特別良く、特別悪かったようですね。刺激しなければ害はありませんが、近づくべきものでもありません。あなたはもう覚えられてしまったので、なるべく早くお帰りになった方が賢明でしょう」
命が惜しければ、と、前日の案内の時と同様に片時も目を開けることなく、仲居さんはつぶやいた。
今、先輩は原因不明の体重減少で10 kgほどしか残っておらず、点滴で命をつないでいるらしい。
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