最終話

 それぞれに散らかる思いを纏めながら潮風に頬を撫でられるうちに、あっという間に空は日暮れの色に変わり始めた。


「——もう、帰らないと」

 思い出したように腕の時計を見た美織が、小さく呟く。


「……そうだよね。

 駅まで、歩くと二十分くらいかな。そろそろ出ようか」



 ここの風は、都会よりもずっと涼しい。

 夕暮れの心地よい風の中、駅へ向かう途中の道を曲がり、志帆は振り向きながら微笑んだ。

「こっち行くと、海岸に出るよ」


 テトラポットの並ぶ海岸沿いの小道を、二人で歩く。遊泳できない鄙びた海岸の夕暮れ時は、もう人気もない。

 強い風に髪を押さえながら海へ降りる階段を降り、まだ日差しの温もりが残るコンクリートのふちに並んで座った。

 すぐ足元のテトラポットに、白く泡立ちながら波が打ち寄せる。

 繰り返す波音を聴いていると、いつしか心が空になっていくのは不思議だ、と美織はふとそんなことを思う。


「美織」


 並んで座った志帆が、波音に紛れてそう呼びかける。


「何?」


「私の願いが、叶ったって——そう思ってもいいの?」


「——うん」


 夕暮れの中、次第に影になっていく横顔に、美織ははっきりとそう答えた。


 俯き気味だった顔が上がり、残り僅かな日差しを浴びる志帆の瞳が、真っ直ぐに美織を見つめた。


 女にしては逞しい筋肉質のしなやかな腕が、美織の柔らかなサマーニットの肩を抱き寄せる。

 静かに顔が近づき、さらりと乾いた唇が美織の唇に触れた。

 軽く触れて、唇を離した志帆が、間近で再び美織を見つめる。


「私の、美織だ」


「そう。

 昔から、ずっと、そう」


 再び、唇が重なる。

 互いの唇が次第に熱と湿度を持ち、一層濃く、深くなる。

 長いキスのせいで美織の息が苦しげなことに気づいたのか、志帆はその唇をようやく離し、美織の華奢な背を両腕で胸の中へ包み込んだ。


「——帰りたくない」


 志帆の腕の中で、美織の声が震えながらそう呟く。

 甘いアルコールの匂いのする息が、志帆の腕の力を一層強める。


「……美織」


 何かを堪えるように少し間を置いて、志帆は美織に静かに囁いた。

「ダメだよ。ちゃんと、帰らないと」

「嫌!」

「聞いて、美織。

 もし、今日帰らなくて、家から逃げたとしたら、いつか私たちは必ず誰かに追い詰められる。

 きっと、二人で過ごすことは、もう許されなくなる。

 それでもいい?

 ——私は、そんなの嫌だ。絶対に」


「…………」


「今日は、すぐに帰って、何事もなかったように夕食作って、家族を待ってる方がいい。

 その代わり、私たちは、会いたい時にはいつでも会える。

 昼間の数時間親友に会いにいくだけなら、誰が見ても責めることはできないでしょ?」


 美織の指が、志帆のTシャツの背にぎゅっとしがみつく。

 美織の瞼の押しつけられた肩が、涙で熱く湿っていく。


「……あー、やばい。

 美織がかわいすぎて、もうやばい……」

「……もう四十五だけどね、お互い」

 涙声に微かな微笑を混ぜて、美織が志帆の耳元で囁く。

「歳は関係ないんだよ。美織は昔から、全然変わらない」

「その言葉、そっくり志帆に返す」

 強く抱き締め合ったまま、二人は同時に小さく笑った。







 街の明かりが灯り始めた駅へ向かいながら空を仰いだ美織は、何か大発見でもしたかのように声をあげた。

「ね、志帆、見て! 星!」

「え、そんなに驚くこと?」

「違うの! 都会で見る星と、大きさと明るさが全然違うの!

 すごい……星って、ほんとはこんなにチカチカ瞬いてるんだね」

 子供のような美織の喜びように、志帆は優しく微笑む。

「……美織。

 今度は、いつ来る?」

「え?」

「いや。

 次までに、セミダブルのベッド買っとこうかと思って」

 唐突なその申し出に、美織はぶわりと頬を染めた。

「ちょ、急に何……」

 一気に熱くなった頬をしばらく掌ではたはたと仰いでから、美織は表情を改めて真っ直ぐに志帆を見つめた。

「……また、すぐ来る。

 すぐ来たい。

 その時は、連絡する」

「うん、待ってる。一秒一秒、待ってるから」

「——それまで、毎日毎日うちで誰も喜ばない洗濯して掃除して、誰も食べない食事作って……か」

「……え? 誰も食べない食事?」

「そう。旦那も息子も、最近帰りは深夜。

 旦那、夕食食べないくせに、作ってあった料理チェックして『こんな貧しげなものを食わせる気か』って怒るんだよ。めちゃくちゃでしょ?」

「……なんだよ、それ……」

 志帆は、奥歯をギリギリと噛み締めるように低く呟く。


「でも。

 志帆に会えると思えば、少し頑張れそう」

 ふっと空を見上げながら微笑んだ美織に、志帆がぱっと表情を明るくして言った。

「ねえ、美織。

 作った夕食の写真、私に送ってよ。毎晩」

「え?」

「私が、食べるからさ。

 美織の作った料理の写真見つめて、味や匂いや、温度や舌触りや、全部想像して……毎晩、残さず食べるから。うわ、めちゃくちゃ楽しみ!」


 志帆を見つめた美織の瞳が、一瞬微かに潤んだ。


「……うん。

 じゃ、志帆のために、毎晩思い切り美味しい夕ご飯作る。楽しみにしてて」



 肩が触れ合い、ごく自然に引き合うように、二人の唇が重なる。


 闇に変わりかけた海辺の空に、鮮やかな星たちが幾つも瞬き始めていた。



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海辺の約束 aoiaoi @aoiaoi

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