大人が二十三人、子供が二人になったときには、緑は三十二歳になっていた。ステは高齢だが今でも胚の管理や研究を請け負っている。もう、彼らが行ってきたことは、無駄な抵抗でしかないことがわかっていた。この世界は子供が大人になるには厳しすぎ、大人が長生きするには余裕がなかった。


 緑はステの助手になっていた。まだ残っている女たちの一人を寝台に寝かせ、足の間に注射器様の道具を入れてカメラで探りながら卵子を採取していく。激痛のため、女たちはいつも叫ぶ。この女も例外ではない。腕を広げた状態で縛りつけられ、下半身は裸だ。採取が済んだ瞬間、女は気絶した。そのまま採取した卵子をシャーレに出し、それをステのいる部屋に持って行く。


 ステは長い白髪を三つ編みにしている。その後ろ姿に声をかけると、老女は無言でシャーレを受け取った。顕微鏡で覗き、選った卵子を新しいしっかりとした精子と結びつける。そしてそれを培養液に浸ける。


 そして次の作業に入る。胚へと成長した先程とは別の受精卵の一部から細胞核を取り出し、ゲノム編集を行う。冷凍された受精卵がまだいくつも残っているとはいえ、生まれてくる子供の遺伝子の多様性は必要だ。特殊な酵素を用いて塩基配列を入れ替えて遺伝子を作り替え、また胚に戻す。二十一世紀後半に解析し終えた人類の能力や外見についての塩基配列の結果は、今こうやって活用されている。そうやって生まれた子供は丈夫だったり、賢かったりと優れた子供になるはずだった。


 だが、今度生まれてくるのは蛙だ。信じられないことに。


 残された緑たち人類は方針転換した。水辺の多い今の環境に適応できる動物に子孫を作り替え、いずれまた人類の遺伝情報が蘇るようにDNAを操作するのだ。ステと緑の考案したこの方法は他の大人たちから猛烈な反発を食らったが、衣類や食料として育ててきた羊たちの残りが人間同様激減していることや、ここにある全ての機器が半分以上使えなくなっていることを指摘すると、言葉上でも反対されることは減った。人類としての子供も作るが、同時に蛙も作るということにしたら簡単にうなずいた。


 チンパンジーと人類のDNAは、九十六パーセント共通している。人間同士でもほとんど百パーセントに近いほど同じだ。哺乳類は八十パーセント以上共通していることが多い。バナナと人類でさえ、六十パーセント同じなのだ。蛙は両生類だが、人類とのDNA上の差異はさほどない。だから人類のDNAを蛙に近い生き物のそれに作り替えることも可能なのだ。これは人類から見た蛙の姿の印象とはかけ離れた事実だ。だから大人たちは拒否反応を示した。


 遺伝子ノックアウト技術によって人類が今生きるには不利な部分を削り取り、人類の胚を蛙に近い生態の生き物へと作り替える。そして人類へと戻る塩基配列を機能させない状態で残し、進化の過程でいつか機能するように作る。そうして生まれた蛙は、女たちを嘆かせた。当然だ。生まれてきた子供が人間ではなく蛙の子であるおたまじゃくしだったら、そうなるだろう。


 蛙はかつていたアフリカツメガエルほどの大型の蛙だ。肌色で、ぬらぬらと肌を光らせ、羊の寝床に舞う虫を食う。ステと緑はビルの海に浸かっていない最下層でそれら大量の蛙を育てていたが、ある程度大きくなると、船に乗せて運び出した。げこげこと鳴くそれらは、何も知らない顔で運ばれていく。海は地表をほとんど覆うため、ここには濁った海水と薄暗い空以外には何もない。ビルがところどころ顔を出している。それだけだ。


 なあ緑。


 ステがしわがれた声で突然声をかけた。緑は無表情に顔を向けた。


 朱が死んだことはそれほどに悲しかったか?


 緑は空を見る。淡い空。うっすらと、朱に染まっている。


 これら蛙たちは何百万年経っても人間に戻ることは難しい。それをわかっていて計画を進めたのだ、お前は。


 緑は蛙たちを放つためのこの辺りで最後の陸地を見やる。そこには大きな湖がある。


 お前は人類を憎んでいるんだよ。


 わかっている、と緑は思った。朱があそこまでしなければいけない時代にした人類を、世界をこうまで壊した人類を、自分で生み出した環境に負けて死んでいくしかない人類を、憎んでいる。弱い自分を、憎んでいる。


 けれど希望を持っている。だからお前は人間を蛙にするなんて突拍子もないことを思いついたんだ。奴らは生き残るだろう。そして本当に何百万年かあとに、人類に戻るかもしれない。かすかな希望だ。けれど――それが私たち人類らしい生き方かもしれない。しぶとく、狡猾に生き残る。実に人間らしい。


 日が落ちていますね。


 緑は言った。夕日が沈んでいく。朱くて淡い日を放ちながら。いつか朱と見た朝日を思い出す。朱の固い乳房を。朱の膨らんだ腹を。交わした口づけを。それらすべてがこの夕日と共に落ちていく気がした。




 緑は白い蓬髪を揺らして船を進める。もうステはいない。あれからすぐに死んでしまった。子供もいない。いくら作っても生まれなくなったから。大人は緑しかいない。誰も彼もが早くに死んだ。湖に着くと、網で蛙を採取した。緑とステが作った蛙たちは相変わらず白っぽい肌色をし、ぬらぬらと手の上で光っている。繁殖し、けれど人間には戻っていない。


 蛙は環境に適応し、人類がいなくなったあとも生き残れそうだった。湖には魚も、虫もいる。水草もあるし、水辺には草がいくつかある。卵が葦のような長い葉に絡みついていた。蛙の卵だった。緑は微笑んだ。


 そして船に戻ろうと湖から離れた。海にざぶざぶと入り、船から伸びるはしごに手を伸ばし、ぐっと足をかけた。その瞬間、緑は腐食した梯子ごと崩れるように落ちた。緑は海に沈み、そのあと緑と共に多量の血が海に浮かんできた。


 ああ、死ぬのか、と緑は思った。人類最後の男はこうやって死ぬのだ。


 緑は次第に沈んでいく。意識は朦朧とし、もう何も考えられない。やがて目を閉じ、岸辺に打ち上げられると眠るように死んだ。


 もう、生きている人類の遺伝子は蛙の中にしかない。生きている人類はもういなくなった。人類は遺伝子として眠っているだけだ。もう起こることのない人間へと戻る未来を夢見ながら。


 そうして人類は永遠の眠りについた。












 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蛙化 酒田青 @camel826

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ