蛙化

酒田青

 緑は駆け抜ける。大人たちの間を、広間の羊の群れの間を、最上階に向かって走る。大人たちはすえた臭いがする。羊たちは獣の臭いがする。それぞれに大した違いは感じられない。食べるものによって多少違いがあるだけだ。大人たちが緑におはようと言う。どれも疲れ切った顔だ。羊は黙っている。身じろぎ一つせずに黙っている。緑は表面が禿げたリノリウムの階段を駆け上る。天井から薄い日差しが落ちてきた。最上段を上がり切り、アルミの引き戸を開ける。ああ、とつぶやく。朝日だ。朝日は曇った空の向こうで、うっすらとした光を放ってよこす。これが、太陽の光だ。今の人類が、享受できる最も美しい光だ。


 ここにいたのか。


 声に振り向くと、緑よりも年長の朱がそこに立っていた。朱は長い茶髪をくるくるとまとめ、色の多い汚い布で束ねている。服はぼろ布だ。何重にも重ねてあり、体の線は見えない。


 また朝日を見てたの? どうして?


 朱の問いかけに、緑はうつむく。どうして朝日を見たい衝動に駆られるかなんて、説明できない。こんな薄い光を。厚い雲に阻まれた淡い光を。見なければならないのだ。どうしても。


 朱は緑の手を掴み、下に行こう、と言った。上の人たちが待ってるよ。


 朱は年上の人たちを上の人たちと呼ぶ。まるで年齢が上なだけで存在が上等であるかのようだ。緑は少し不貞腐れる。朱はそんな緑を冗談めいたように抱き寄せてあやす。朱の固くて小さな乳房が布越しに緑の頬に触れる。緑はそのとき少しびっくりする。でも何も言わない。朱がどんどん大人の女のようになっていることなんて、言わない。


 上の人たちには従ったほうがいいよ。人類はもうあたしたちしかいないんだから。


 朱が言う。緑はまた不貞腐れ、次の瞬間には朱の手をほどいて階段を駆け下り始めた。転ぶほどの勢いで。




 昔、地球の多くの部分は植物に覆われていたらしい。人口も百億に達し、街中に人が溢れ、飛び出す広告や動く看板が並び、店では甘い食べ物や清潔で鮮やかな服がたくさん売られ、人々は宇宙旅行を楽しんだり、地球の端から端まで飛行機で移動したりしていた。


 しかし、その後の戦争と環境破壊で、今では地表にはほとんど植物がない。空は常に曇り、太陽の光ははっきりとした輪郭も持たない。人口も激減し、技術は衰退した。海は地表をほとんど覆い、緑たち最後の人類は過去に作られたビルの上階で暮らしている。生き抜くための手札は残った遺伝子工学の設備と、技術と、人間と、羊と、辺りをうろちょろと走り回る鼠たちだけだ。


 昔は女が子供を産むことなんてなかったと聞く。ずっと原始的な時代では、女は命がけで子供を体で育て、体から産んだ。でも、そのあと子供は命をかけなくても得られるものとなった。人工子宮の中で子供は育てられ、大人たちはある程度育った子供を自分たちの手で育てればよくなった。そのほうが子供は賢くなるとも言われていた。ステはそうやって生まれた人類の一人で、実際誰よりも頭がいい。


 今は遺伝子操作してできるだけ多様な、できるだけ丈夫な胚を作り、それを女が産み育てている。ステは研究室での胚の管理を一手に引き受けている。緑たちの世界に女は少ない。できるだけ女が多く生まれるようにしてあるのだが、子供を何人も子宮で育て、産むうちに力尽きて死んでしまうのだ。


 朱も死んでしまうのだろうか、と緑は思った。緑を産んで死んだ白のように。

 白は産んだ子供の中でも特に緑を可愛がった。それが何度目かのお産の日に死んでしまった日は、涙が溢れた。感情は何一つ動いていないような気がしたのに、溺れそうなくらい涙が出て来た。あんな塩辛い思いをまたするのか?




 この世界にいる大人とされる人たちは四十二人、まだ丈夫な子供を作るための卵子や精子を提供できないとされる子供は十一人いる。緑はまだ子供の一人だ。朱は最近大人になった。

 朱は十四歳だ。十四歳なので、まだ子供を産まなくていい。けれど、卵子を提供するために時々ステのところに行く。緑にも何をするのかはわかっている。この世界での子供の常識だから。薬剤で人工的に成熟させた卵子を、採卵針のついたカメラつきの道具で吸い取るのだ。麻酔は最近節約され、よほど痛みを我慢できない場合しかかけてもらえない。だから激痛が走る。時折失神する。朱はこの間一日中寝込んでいた。


 朱はよく言う。


 この痛みは、未来の人類のためだ。あたしは、人類を存続させるために我慢してるんだ。これは尊い使命なんだよ、緑。


 緑は納得が行かない。




 十三歳の夏、緑は精通した。それから一年も経つと、あのときの朱のように精子を採取されるようになった。精子の採取はやけに簡単だった。羞恥が伴う以外はさほどの苦しみがない。


 朱は十六歳になり、子供を産むことができるようになった。使われるのは誰の卵子で精子なのかはわからないが、自分が精子を提供するようになったせいで、緑は複雑な気分だった。


 あたし、この間大人の女たちから聞いたんだけど、人工子宮を使う前は、女は基本的に決まった男の子供しか子宮で育てなかったんだって。


 朱が屋上の淡い朝日を浴びながら笑っている。茶髪が日に透け、睫毛が光っている。緑はそれを見て心地いい痺れを感じた。


 それどころか、直接精子を招くために、男と抱き合って性交をしたりしてたんだって。信じられないね。


 緑はうなずくこともできなかった。そのような時代の人々は、自分たちと比べて何て幸福なのだろう。進むべき道を選べるどころか、感情に身を任せたり、緑には発想もない考え方をすることができる。


 あたし……。


 朱が何かを言おうとした。でも、そのあとは続かなかった。朱は細くしなやかな腕を緑に差し出し、緑の肩を掴んだ。それから抱き寄せて唇に口づけた。緑も返した。何度も、何度もよだれまみれになるほど互いの顔や首や胸に唇や舌や歯を触れさせ、それからやめた。はあはあと息をつきながら二人は互いを見つめた。緑の口の中には塩辛い朱の肌の味が残っていた。緑は滑らせるように朱の下腹部に触れた。朱がびくっと肩を揺らした。朱は妊娠していた。


 下に戻ろう。


 朱は微笑んだ。緑もうなずいた。さっきの行為はおそらく、人類が最後に行った性的な接触だ。緑は朱を手に入れたいと思った。でも、それは不可能だろうともわかっていた。そして、じきに不可能になった。


 朱は出産時に出血多量で死んだ。若すぎたのだ。

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