涙の味:温泉を巡る物語

蓮見庸

涙の味

 明るい星がいくつかまたたく空の下、客船はゆっくりと滑り出した。それはほとんど揺れることもなく、その鉄の塊が動き出したことに気づく人はわずかだった。

 デッキには多くの人たちが集まり、写真を撮ったりビールの缶を片手に話に興じていたり、ずいぶんとにぎやかだった。

 紗都美さとみは欄干にもたれ掛かり、海岸沿いに立ち並ぶビルの明かりを見ていた。小さな窓の明かりが集まり、それらが大きな明かりとなって海に映っていた。

 彼女の髪はときおり強く吹き付ける潮風に洗われていた。

 顔に張り付いた髪を風に流そうと少し横を向くと、次々に姿を変える海岸沿いの工場がライトアップされ、その上を飛ぶ飛行機の明かりが点々と見えた。

 黒い水面を照らす大都会のオレンジ色の灯は、船が作る波に溶け込みながら徐々に遠ざかっていく。

 彼女の横ではカップルとおぼしき男女が、そして親子が入れ替わり立ち替わり写真を撮っていく。

『昔と違って今は何でもスマホね』

 船は走り始めてしばらく経つが、彼らの会話から初めてデッキに上がってきたようだった。けれど、寒い寒いと言いながらすぐに戻ってしまう。

 そんな彼らの様子を微笑ましく眺めていたが、紗都美はそこにかつての自分たちの姿を重ね合わせていた。

「あの時を思い出すわね。ねえ、あなた」

 彼女は小さくつぶやくと、横に誰もいないことを確かめるような素振りをし、そしていとおしむようにハンドバッグに優しく手を添えた。


 いくら春が近づいてきたとはいえ、いくら寒さに慣れてきたとはいえ、夜の冷たい海風は容赦なく彼女の体温を奪っていった。一定のリズムを刻むエンジンの振動が、靴の底を伝ってお腹に響いてくる。

 船はやがてゆっくり右に曲がると、大きな橋の下をくぐった。デッキに集まってきた人たちがしきりに写真を撮っている。進む先には水面を照らす観覧車やビルの明かりが見えてきた。

 その時になってやっと、彼女は自分の部屋に戻ろうという気になったのだった。

「おぉ!」

 歓声に振り向くと、花火が上がっていた。


 *


 長年連れ添った夫が亡くなってから、半年が経った。

 病気が見つかって3ヶ月。ほんとうにあっけなく逝ってしまい、そしてこの半年はあっという間に過ぎ去った。

 ふたりはさっぱりとした関係だった。お互いを尊重しあい、必要以上に深く干渉はしなかったけれど、かといってそこらへんの家族よりはよっぽど愛情にあふれた家庭だという自負はあった。そしてまた、自分たちの世界と外から見られているイメージとのギャップがあったことも確かだった。

 そのせいか夫がいなくなっても、彼は自身の人生をまっとうしたはずだから周りが悲しむのは逆に彼に失礼なのではないのかと、彼女にしてみればおかしいほどに実にあっけらかんとしたものだったが、周りの人の目にはそれがかえって無理をして強がっているように映ったようだった。

「気分転換でもしてきたら?」

 そんな彼女を見かねてか、ある日、娘が旅行に連れて行ってくれると言い出した。

 まだまだ寒い日は続いているが、ようやく春を感じる日も出てきた。旅行をするにはこれからだんだんといい陽気になってくる。

『そうね、久しぶりに旅行もいいかもしれないわね』

 そんなことを思っていたある日のこと。

 いつものようにテーブルの上に新聞を広げ、一枚一枚めくっていて思わず手を止めたのは、紙面からはみ出すほどにぎっしりと詰め込まれた、日本中の観光地の旅行情報のページだった。流行はやりの感染症が収まりの気配を見せ、世の中もそろそろ旅行に出てもよいのではないかという雰囲気になってきていた。

 彼女は全体を眺めて「ふーん」と言いながら、そのひとつを指差して言った。

「ここは行ったことあるわ。最初の日は大雨でひどい目にあったっけ」

 振り返ってみれば笑い話だが、交通機関は軒並み止まり、旅行どころではなかったと当時を思い出した。続けて目線を横に動かし、指でテーブルをトントンと軽く叩いた。

「ここも行ったわ。確かお昼のちらし寿司がおいしかったのよね。ここは、うーん、どうだったっけ…。ここは何といっても温泉よね」

 彼女は紙面の観光地をひとつひとつ指でたどりながらつぶやいた。

 ここに載っているような場所を含めて、海や山や川など、いろんな所に行った。若い頃は友達とあるいはひとりで、どこにでも出掛けていった。そして彼ができてからはふたりで、娘が加わってからは家族で旅行をした。

 けれど、それも今となっては昔のこと…。

 知らず知らずのうちに思い出に浸ってしまった彼女だったが、その目にこんなうたい文句が飛び込んできた。

『春まっさかり! 椿と温泉と海の幸。都会から一番近い島へ行こう!』

 そこで彼女の指はぴたりと止まった。


 *


 ひとつ小さくあくびをしながら目を開けると、部屋はまだ暗く、足元を照らすオレンジ色のライトだけがぼんやりと光り、それは紗都美を誘うように廊下へと続いていた。

 大部屋にひとりっきり。娘にはそんな部屋は危ないからやめてくれと止められたが、どうせほとんど眠れず起きていることになるから大丈夫と、勝手に大部屋の乗船券を買ったのだった。

 彼女はハンドバッグだけを手に、扉のない部屋を出た。船内には静寂が広がっていた。船はゆっくり左へ右へと傾き、ふらふらとよろめきながら歩いていく。

 奥行きの狭い急な階段を上がり、外に出るガラス戸を全身の体重をかけて押し開けると、ぶわっと強い風が吹きつけてきた。湿気を含んだ生暖かい風だった。扉はバタンと音を立てて閉まり、ぴゅーっとすきま風が音を鳴らしている。

 外はもう明るかった。空は水色に晴れ、白い雲がふわりと浮かんでいる。すべてが日の出前の淡い色合いに染まっていた。まだ太陽は出ていないようだった。

 しおの香りがした。

 船は水をかき分けながら白い泡を生み、進むその先に島が大きく見えていた。

 この島へ来るのは2回目だった。最初はもう何十年も前、夫となった彼との初めての旅行。それは今から考えると、新婚旅行といっていいものだったのかもしれない。結婚して最初に旅行をした場所、そして娘が生まれるまでに泊りがけで行った最後の場所でもあったのだった。

 船のスピーカーから、爽やかな音楽に続いて港への到着時刻を告げる放送が流れた。


 港へ着くと、荷物を持った人たちは次々とバス停に向かっていった。ダイビングサービスと書いたワゴン車に乗り込んでいく人たちの姿もあった。

 紗都美はまだ時間が早いのでどうしようかと悩んだあげく、パンフレットに書いてあった椿園ではなく、島の中心にあり、この島を形づくったという火山へ向かうバスに乗った。


『まさか火山があるなんて、ほんと知らなかったわ』

 あの時は何も知らずに、ただの真っ平らな形を、あっても丘があるくらいだろうと想像していただけだったので、島の影を見るなりびっくりした。しかもその山が火山だと聞いてまた驚いた、そして彼には散々笑われた、そんな記憶が蘇ってきた。あの頃はまだまだ若かったと、そんな自分を思い出すと可笑おかしくなった。

 バス停は火山の噴火で出来たお盆の縁にあたる、外輪山と呼ばれる場所にあった。頂上まで40分ほど。山は案内看板に書かれたその所要時間よりも遠くにあるように見えた。

 彼女は周りを背の高い草に覆われたなだらかに下る道を歩き、今度はよく整備された山道を休みながら登りきった。そこには火山特有の赤茶色の荒涼とした景色が広がり、草は生えているものの、高い木などというものは一本もなかった。

 矢印に沿って火口へと歩いていく。途中、島の外側に向かって下る斜面に鳥居が立っていた。そこからは火山を中心にしたお盆状の地形、それから、歩いてきた道がずっと見えた。

 鳥居を通して見た海の向こうに、雲かと見間違えそうなくらい、白く霞んだ富士山があった。

「前も富士山なんか見えたのかしらね、あなた?」

 紗都美はいるはずのない夫に話しかけてしまい、苦笑いをした。


 火口へは15分ほどで着いた。

 その展望台は風がとても強く、帽子を押さえていないと飛ばされそうだった。またどこからか白い綿毛が飛んできて服に絡まった。

 火口の大きなあなは荒々しい崖がむき出しになり、赤茶色や黄土色の肌を晒して、ときおりボロボロと崩れ落ちている。底からはガスのようなものが湧き上がっているようにも見えた。

 ここからマグマが吹き出したのだと思うと、今にも赤い火柱が上がってきそうで、見ているだけで空恐ろしかった。ひとりだからなおさらだった。

 ふと見上げた空には白い雲が流れていた。


 紗都美は火口をあとに、来た道を引き返して椿園行きのバスに乗った。

 買っておいたパンをつまみ、紅茶で飲み込んだ。甘い香りが鼻から抜けていった。

 くねくねとした山道を下っていくと、遠くに海が見えた。そして降りたバス停の脇には、もう桜が咲いていた。

 都会から少し南へ下っただけの場所にあるこの島だが、季節は進んでいるようだった。山の上は風が強くて気が付かなかったが、そう思ってみるとずいぶんと暖かい。


 椿園の入口にはステージが設けられ、お祭りの準備で忙しそうだった。

 入園料を払い園の中に入ると、いろんな色や形をした花が咲いていた。赤、白、赤と白のマーブル、ピンク、黄、濃いチョコレート色、一重咲きや八重咲き、海外の品種もたくさんあった。

 園内をひと通り見て回ると、山に登ったことも相まって、さすがに疲れてきた。

 暖かな陽気に誘われて、陽だまりのベンチに座ると、椿の花の香りがやわらかく漂い、いつの間にかうたた寝をしていた。


 夢を見ていた。

 現実感に満ちた、夢とは思えない夢。

 紅い花を満開に咲かせた椿の木の下にあるベンチ。

 わたしと彼は並んで座り、おにぎりを食べていた。

 わたしはまだ若く、そして彼もまた若かった。

 ふたりはしきりに話をしていた。お互い何を言っているのか声は聞こえなかったが、心は通じ合っているようで、ずっと笑っていた。

 もう忘れかけていたが、こんな時間があったのだと懐かしい気持ちに包まれた。

「おーい」と誰かに呼ばれた気がして、ふいに目が覚めた。


 びゅうとひんやりした強い風が吹き、木が鳴っていた。

 そろそろホテルに行こうかと、そう思っているうちに、今度は、ぼつ、ぼつ、と大粒の雨が降ってきた。

 紗都美はあわててベンチから立ち上がると、急ぎ足で入口へと戻った。

 お祭りのステージはもう片付けられているところで、その脇をすり抜けるようにして何とかバス停までたどり着いたが、次のバスまでは1時間近くもあった。

 雨は音を立てて降りはじめ、土ぼこりのにおいが足元から上がってきた。

 屋根だけのあるバス停で雨宿りをしながら椿園の方を眺めていると、椿の木々はどれも白く霞んでいたが、紅い花を満開に咲かせた1本だけが、その姿をはっきりと見せていた。まるで彼女のすぐ目の前にあるかのように、花びらを伝わり、したたり落ちる水滴さえよく見えた。


 バスは10分ほど遅れて到着した。雨風はますます強くなる一方で、ホテルに着く頃には嵐になっていた。

 案内された部屋はいくぶん年季の入った部屋で、ひとりが泊まるにしてはずいぶん広かった。

 紗都美は荷物を置くとすぐに窓辺に行き、薄いカーテンを開けた。

 ばらばらと音を立てながら、ガラス窓に叩きつけられた雨粒が行き場を失い流れ落ちていく。

 遠くに霞んで見える海は灰色に荒れていた。


 大部屋での食事。近くの海で獲れる魚の刺身を中心にした料理を堪能した。これも今回の旅のひとつの楽しみ。

 そして一休みしたあと、浴場へと向かった。ここの温泉は昼間行った火山が噴火したあとから湧き始めたのだという。

 食事のときはそれなりに人はいたが、ここには今は誰もいなかった。広い浴場にたったひとり。

 彼女は身体を洗うと、露天風呂へと向かった。

 外は相変わらず強い風が吹き、雨粒も当たってきた。

 砂利の上に並んで置かれた石はとても冷たかった。思わず引っ込めた足を、勇気を出して踏み出す。足裏にひんやりとするものを感じながら、つま先立ちで滑らないようにゆっくりと歩いた。

 ヒノキで作られているという浴槽は、明るい木目が綺麗で、すっきりとした爽やかな香りが漂ってきた。

 右足のつま先でその水面みなもに触れてみる。お湯は少し熱いくらいで、ちょうどいい温度だった。そのまま湯船の中に足をするりと差し入れ、続いて左の足も入れると、タオルを縁に置き、たぷんと肩まで浸かった。

 周りを見渡してみるといくつもの椿の木が取り囲んでいた。紅い花を付けた木、白い花を付けた木。

 目をつぶって胸いっぱいに大きく息を吸い込むと、心が落ち着いていった。

 コポコポと音を立てて吹き出し口からお湯が流れ落ちてくる。

 そこへ、紅い花がひとつ、ぽとんと音を立てて落ちてきた。丸い輪が広がっていき、花はゆらゆらと漂った。


 頭の上を強い風がごうと音を立て、渦を巻きながら通り過ぎていく。そのおまけのような弱い風が顔を撫でていき、ほてった肌に気持ちよかった。

 風はまた椿の木を揺らし、葉はその強弱のリズムに合わせ、ざざーっと音を立てながらこすれ合っている。

 その時「おーい」と呼ぶ声が聞こえてきた。

 聞き間違えかと思い息を潜めていたが、今度ははっきりと聞こえてきた。

 風の中から「おーい」と誰かを呼ぶ声。

「おーい、いるかー?」

 きっと男湯の方から、一緒にお風呂に行った誰かを呼んでいるのだろう。だが女湯は紗都美ひとりきり。相変わらず誰かが入ってくるような気配はなかった。

「さとみぃ、そっちの湯加減はどうだ?」

「えっ?」

 紗都美は思わず声を出してしまった。

 聞き覚えのある声だった。彼女を呼ぶ懐かしい響き。でもそんなはずはない。

「あー、いい湯だなぁ」

 そんなひとり言さえ聞こえてきた。

 そして、「まさか富士山が見えるとはなぁ」とか「あの火口はすごかったなぁ」とか「椿にあんなに種類があるなんて初めて知ったよ」などと言う声も聞こえてきた。

 きっと空耳に違いない。

 そうだ。そうにきまってる。

 あのひとの声なんて聞こえるはずがない。

 わたし頭がおかしくなってしまったのかな。

 けれど気が付くと、彼女は知らないうちに涙をいくつもこぼしていた。

 思わず両手でお湯をすくい上げ、顔をつけた。

 ゆっくり顔を上げると、滴るお湯は唇を伝って舌をやさしく刺激した。

「このお湯、しょっぱい…」

 海に囲われた島の温泉は、やっぱり海の味がするのだろうか。それとも涙の味だろうか。

「こっちは元気にやってるわよ」

 紗都美は穏やかな笑顔で、しかし涙を流しながら、そんな言葉を口にしていた。聞こえるか聞こえないかの小さな声で。

「そうか」

 風がそう言ったような気がした。

 紅い椿の花が落ちた。

 ただ、それっきり。

 あれほど強かった風はやみ、空にはいくつかの星が小さく瞬いていた。


 *


 翌朝、窓がガタガタと鳴る音で目が覚めた。カーテンを開けると、遠くに見える海は荒れていた。

 時計はまだ6時前を指していた。

 紗都美は最後にもう一度、露天風呂へ入ってみようと思い、タオルを手にした。

 浴槽の周りは綺麗に掃除され、落ちている椿の花はひとつもなく、その代わり、湯船の中に白い椿の花がひとつ、ぷかりと浮かんでいた。


 紗都美の乗る船は、見送りの人々に見守られながら、ゆっくりと岸壁から離れていく。

 島の影はあっという間に小さくなった。

 あれだけ荒れていた海は次第に穏やかになり、青空が見えてきた。

「こんにちは」

 紗都美の隣で海を見ていた女性が、振り向きざまに声を掛けてきた。

「おひとりですか?」

「ええ、気ままなひとり旅です」

「わたしもそうなんですよ。椿の花が好きで毎年来るんです」

 女性ははにかみながらそんなことを口にした。

 紗都美は彼女とは初めて会うはずなのに、なんだか古くからの友人のような懐かしさを感じ、思わず笑みがこぼれた。

「どうかしましたか?」

「あ、いえいえ、何でもないんです。ただ…」

「ただ?」

「風が気持ちいいなと思って」

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涙の味:温泉を巡る物語 蓮見庸 @hasumiyoh

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