未分化で柔らかいもの

真花

未分化で柔らかいもの

 男は大切そうに「チョコラBB」の瓶を取り出した。居酒屋の端の席に僕達は七人で就いていた。僕は二十歳で、後の全員は四十前後で同級生だと言うことだった。僕は飲み会なんて嫌いだったが、岩瀬いわせがぜひみんなに紹介したいと言うので渋々同行し、乾杯の前に大事なことがあると言った正面の男の瓶を凝視している。

「今、官庁とかでみんなやってるんだ。酒の前にこれを飲むと明日に残らないらしい。さあ、みんな三つぶずつ飲もう」

 そんな効果ある訳ない。官庁に権威を感じることがみすぼらしい。残したくないなら飲むなよ。

 顔に出た。岩瀬に小突かれる。男の視線は向こうの席の女につぶを渡すので僕を見ていなかった。見られていたからってどうだって言うんだ。

木場きば、楽しくやろうぜ」

「僕は普通だよ」

「怒ることなんて何もない。な」

 僕は黙って、瓶の順番を待つ。飲んだからって害があるとは思わないけど、僕にビタミンは不足していない。

「さあ、行き渡ったかな。じゃあ、乾杯と行こう」

 何かにつけて集まりたがる連中の気持ちが分からない。酒を飲みたがる奴らの想いが知れない。飲んで、喋ったことなんて、何も残りやしない。時間を酒で溶かしているだけだ。それとも日々のストレスがそれで発散されるのか? 分かった。そうだとしよう。だとして、僕を巻き込むなよ。岩瀬も集まりたい飲みたい男なのだな。……それは小説を書きたい人間にもそう言う輩がいると言うことか。僕が必ず正しいとは思ってはいないが、明らかに間違っていることはある。こいつらにはその悪臭がプンプンする。

「乾杯」

 僕はビールを飲み干した。世界のマジョリティは飲む方だ。敵に回して上等。僕は基本的に飲まない。

 男がグラスを置いて、僕に視線を向ける。僕はじっと見返す。岩瀬が気付いて慌てる。

中条ちゅうじょう、俺の友達の木場君だ」

「木場です」

「俺は中条。木場君は何をやってるの?」

「医学生です」

「ふぅん」

「中条さんは何をしてるんですか?」

「会社員だよ」

「そうですか」

 お互いにグラスを持って、飲む。中条はもう興味はないと言った風に横に座っている女に話しかける。僕は岩瀬の肩を叩く。

「帰っていい?」

「何言ってるんだよ。まだ始まったばかりじゃないか。みんなに挨拶して来いよ。一番年下なんだし」

「年下なのは生まれつきだから関係ない」

「じゃあ、新参者。俺の顔を立ててくれよ。中条はダメかも知れないけど、他の奴なら気が合うかも知れないだろ?」

 僕は席を立って、隅に座っているメガネの男にビールを注ぐ。

「岩瀬の友達の木場です」

「そう。ようこそ」

「これはどう言った会なんですか?」

「定期的に同級生で集まってる、プチ同窓会みたいなもんだよ」

「定期的ってどれくらいの頻度で?」

「月一回くらいかな」

 メガネは頬を掻く。毎月こんなことで半日が潰されるなんて、人生の損失が計り知れない。

「普段は何をされているんですか?」

「仕事をしてるよ。みんな働いている。君だけは学生だけどね」

 胸の中に黒い霧が満ちる感覚、それが口から漏れる。

「仕事って、何のためにしているんですか?」

 メガネの顔が引き攣る。

「食ってくためだよ。話はおしまい、じゃあね」

 メガネは反対側を向く。僕は向かいに座っていた女に酌をする。

「木場です」

「そう」

 女はもう酔っ払っているような顔をしている。

「どうして飲むんですか?」

「嫌なこと忘れるためよ」

「他にも方法があるんじゃないんですか?」

「知らないわよ。働いてたら、ストレス解消の時間なんて夜しか取れないのよ。いつでもどこでも出来るのがお酒。インスタントで最高よ」

「何で働くんですか?」

「食べてくには働くしかないわ。あ、店員さん、梅酒のソーダ割り」

 女の意識は店員からこっちには戻っては来なかった。隣の男に声をかける。

「木場です」

相川あいかわだ」

 酌をすると、相川は一気に飲み干した。

「酒はうまい」

「そうですか」

「君も飲みなさい」

 僕の席からグラスを取って、僕に手渡す。顎でしゃくられて、飲み干す。酒じゃないものも一緒に飲んだ気がする。

「うん。いい飲みっぷりだ」

「うまいから飲むんですか?」

「そうだよ。働いて、飲む。人生それだけだ」

「なんで働くんですか?」

「食ってくためだ。いや、飲むためとも言える」

 人生そうやって終えるんですか。喉元まで出かかったが堪えた。

「そうやって人生終わるんだよ」

 相川はギロリと目を剥いた。僕は引き下がって、隣の中条は飛ばして、その隣の女の横に立ち、会釈をする。

「木場です」

「私で最後?」

「そうです」

「つまらないでしょ。おじさんおばさんの中に混じっても」

 僕は一瞬言葉に詰まって、それを無理矢理押し流すように声を出す。

「そんなことないです」

「へー。まぁいいわ。医学生なんだって? 頭いいんだ」

「努力はしました」

「いずれは先生か。楽しい人生だね」

「楽しいかは分かりません」

「労働の日々の私達とは違う世界になるのよ。憎らしい」

「え」

「こうやってお酒飲むくらいしか楽しみがないって、私達だって自覚しているのよ」

「他にも見付ければいいじゃないですか」

「それが出来れば苦労はないわ。ずっと働くのよ。二十年前も二十年後も。あーつまんない」

「どうしてそれでも働くんですか?」

「食ってくためよ。そんなことも分からないの?」

「分かりません」

「そう」

 僕は席に戻る。岩瀬が「どうだった?」と赤い顔で僕を見る。

「友達にはなれそうにない」

「そりゃそうだ」

「じゃあなんで挨拶させたんだよ」

「当然だろ、輪に入るかも知れないんだから。結果は今のところは入れていない。でもこの後はどうなるかはまだ分からないだろ」

「もう結果は出ていると思うけど」

 僕以外の六人は酔っ払って、大きな声で喋る。

「卒論のときに文字数が足りなくて『あいうえお』って何回も書いたよなあ」

「相川の結婚式のときの余興、あれはウケたね」

「五年前に行った伊豆旅行のとき、岩瀬が寝坊して大変だったな」

「中条の元カノがテレビに出てたじゃん。中条のこと言わないかヒヤヒヤしたよ」

 誰かが言っては盛り上がる。思い出話だけが繰り返される。僕には何が面白いのか全然分からないものばかりで、六人の笑い声は徐々に耳障りなものになって、目の前にあるグラスを定期的に傾けてはここでは一人なのだ、気取られないように小さなため息をつく。

「そろそろ時間だ。準備しよう」

 中条の音頭で、退出する。年齢は半分でも、料金は一人前取られた。店の外でもしばらく喋る六人を冷ややかな目で見ていた。やっと帰路に就く。他の人が皆いなくなってから岩瀬に。

「もう二度と参加しない」

「そうだろうな。すまなかった。打ち解けるかと思ったんだけどね」

「さっぱりだよ。苦痛に耐える料金が欲しいくらいだ」

「何が嫌だった?」

「社会に出てるだけなのに偉そうなことと、それ以上に、食うために働く、しか言わないこと。働くって、もっと他に面白さとか好きとか、そう言うものがあっていいじゃないか。俺は絶対にそんな大人にはなりたくないって思った。そんな食うためだけにいる社会にいるだけで、偉そうだって、いっそ惨めだよ」

「社会人の大半がそうだよ。惨めだから酒を飲むんだよ」

「それだよ。そう言う酒との付き合い方がもっと惨めなんだよ」

 岩瀬は天を仰ぐ。僕も一緒になって空を見たら月が浮かんでいた。下半分だけの半月はワイングラスに光る酒を入れたみたいだった。

「惨めさを誤魔化すのが大人なのかも知れないな。やり過ごしている内に人生が終わるんだ。俺だってそれじゃいけないと思っている。だから普段は酒は飲まない。酒を飲んだら小説が書けないからな」

「岩瀬の人生の中心はどっちなの? 仕事なの? 小説なの?」

「木場は?」

「小説。学校じゃない」

「俺も小説だよ。でも残念ながら食ってくために働いているよ」

「辞めたらどうなるの?」

「食い詰めるだろ、当然。今さら実家に戻りたくはないし。かと言って小説書くために生活保護になるってのも別の意味で惨めだ」

「僕はそう言う状況になりたくない。でもどうやったらいいのか分からないから、学生は進める」

「医者なんて忙しくて小説書く時間ないんじゃないのか?」

「それは科による。でも、面白いと思う科を選びたいから、悩む」

 夜の精がまとわりついていた。僕達は駅まで歩いて、逆の電車に乗って別れた。

 区が主催する小説サークルに参加して五回目に声をかけてきたのが岩瀬だった。

「読ませてもらいました。『警告音』面白かったです」

「ありがとうございます」

「俺は岩瀬です。今度よかったら俺の作品も読んでみて下さい」

 それから月に一回のサークルが半年あって、今日の飲み会に誘われた。好奇心から参加して、こんな気分で電車に揺られている。窓の外にはさっきの月がまだ見えている。少しだけ飲まれたのかな、光が弱い。父親とか母親とか教師とか、バイト先で仕事をしているのではない、生の大人を飲み干した胸焼けがしている。

「ああはなりたくない」

 漏れ出た声が思ったより大きくて、まばらな人の車内の注目が自分に、ばっと向いたのを感じ下を向く。気配が消えるのを十分に待ってもう一度顔を上げる。駅についた。僕一人だけが降りる。


 *


竹野たけのさん、竹野修一しゅういちさん、三番までどうぞ」

 竹野さんが診察室に入ってくるまでのちょっとの間に、カルテを準備する。竹野さんが現れたのを認めて、僕は立ち上がり一礼する。七十代の男性で、細身で、スーツのような格好をしている。帽子はハンチング。

「どうぞ。こんにちは」

「こんにちは」

 竹野さんはハンチングを脱ぐ。

「調子はどうですか?」

「順調です」

 訊きながらカルテに書いてゆく。竹野さんは言葉通りに調子のよさそうな顔をしている。

「睡眠、食欲はどうですか?」

「問題ないです」

「幻聴はどうでしょう」

「全くないです」

「周りが怖くなることとか、不安になることは?」

「ありません」

「何か、気になることはありますか?」

「先生、それがですね、何もないんですよ。全くもって普通の日々を送っています」

 竹野さんは笑う。

「それじゃあ、問題なしということで、次回はまたひと月後で大丈夫ですか?」

「ええ。大丈夫です」

 立ち上がる竹野さんを見送って、カルテを完成させて、次の人を呼ぶ。

 外来の日は大変だが、何かをやったと言う気持ちになる。だがそれがまやかしだと言うことは分かっている。それ以外の日は扇風機の風がずっと後ろから吹いているみたいに、自分の人生を切り売りしていることに意識を取られる。僕は四十歳。あのときの生の大人達と同じ年齢になった。

 大学在学中に精神科の面白さに目覚めて、その勉強にどっぷりと漬かった。国家試験や臨床研修と向き合う中で、いつしか僕は小説を書かなくなっていた。読むのも、専門書や論文ばかりになった。だが、それは楽しい時間だった。現場に出るようになって、勉強したことが実際の臨床を左右する手応えはたまらないものだった。治った人もいたし、死んだ人もいた。何人もが僕の前を通過して行った。その内に結婚して息子が生まれた。臨床医としての時間が続いた。

 そして飽きた。

 仕事はちゃんとやる。手なんか抜かない。だが、自分がティッシュと一緒で必要なときだけ呼ばれて後は捨てられる存在だと思うようになった。情熱で補っていた経験不足はもう経験だけで補えてしまう。ここに情熱が加わればもっとずっと素晴らしいことになるとは思えない。面白いこととか楽しいこととかがない訳じゃない。だがそう言うことじゃないのだ。僕は仕事に飽きてしまった。

 だからと言って辞める訳にはいかない。

 僕と家族は食っていかなくてはならない。

 あのときの大人達の顔が浮かぶ。今の僕がその並びに入っている。夜に酒を飲むようになった。飲んでいる間は忘れるから。他に方法がないから。

 この日々をあと二十五年続ければいい。

 これが諦めでなくて何なのだろうか。

 今日も仕事が終わる。疲労感と達成感のバランスが悲しいくらいに悪く、まるで何かを抜き取られたみたいな胸でバスに乗る。スマホをいじる。これだって紛らわせるための行為だ。いつの間に僕は何もかもに膜を張らせて生きるようになったのだ。思いながらもスクロールする指を止めない。ニュースに目が止まる。

『新人賞受賞者インタビュー、岩瀬文男ふみお氏、受賞作『警笛の夢』』

 岩瀬?

 学生の中盤頃からサークルにも行かなくなり、岩瀬との交流もなだらかに消えた。

 まだ書いていたんだ。……受賞したのか。

 僕は駅で本屋に向かい、「警笛の夢」が載っている雑誌を手に取る。著者近影の顔は老けてはいたが間違いなく岩瀬だった。本文を読む。それは文としてぐっと洗練されていたが、それでも岩瀬の文章の匂いを残していた。僕が小説から遠ざかった十年以上の間、岩瀬は努力を続けた。僕だって他のことを努力はしていた。でも今はもう、離れたくなっている。岩瀬は一生の伴侶になるものと出会い、それを離さなかったのだ。手が震える。膝も震える。どうしてか、涙が出て来た。泣きながら、小説を途中まで読んで、涙で汚してしまったことを言い訳にその雑誌を買った。

 待ち切れず、電車の中で読み、家では邪魔が入るから喫茶店に入って読み切った。涙は止まらなかった。

 岩瀬を感じたのと同時に、僕にも書けるんじゃないか、その想いが腹の底から突き上がった。

 いつもならスーパーで酒を買うが、今日は寄らない。あの大人達と岩瀬は違った。

 子供を寝付かせたら、ビールの代わりに麦茶を飲んで、ノートパソコンを持って自室に入る。

 食うためだけじゃなくて、小説を書くためなら、仕事の退屈にも耐えられるかも知れない。それともいつか小説を仕事にすることを目標にするようになるかも知れない。いや、そんな現実的な何かじゃない。もっと未分化で柔らかいものが胸の中に膨らんでいる。

 僕はパソコンを開く。


(了)



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