猫女王と王妃くん

神野咲音

猫女王と王妃くん

「少し大きくなったかな」



 ユートは両手で抱えた黒い卵をそっと撫でた。


 シンプルながら質のいい材質を使用した、シックなソファー。その上で胡座をかいたユートは、デレデレと頬を緩ませて卵に頬擦りをした。



「綺麗な姿になるんだぞー。期待してるからなー」



 卵が可愛くて仕方がない、といった様子のユートの元に、背の低い影が歩み寄る。


 マンチカンをデフォルメしたようなシルエットの、二足歩行の黒猫だった。リボンのついた襟からまっすぐに広がるドレスを着て、右前脚に王笏を持っている。


 黒猫はソファーの後ろからよりかかり、卵を愛でるユートの頭を撫で回した。



「今日も元気そうで何よりだ、ユート」


「女王様!」



 振り返ったユートがにこにこと笑み崩れるのを見て、猫の女王は王笏の先でダンッと床を突いた。



「私の王妃(ペット)が今日も可愛い……!」


「女王様の方が絶対可愛いのに、変なの」



 ユートの笑顔に悶える猫女王、首を傾げて卵を撫でるユート。


 それがここ最近の、王城での日常だった。


 






 元宮優人もとみやゆうとは猫が大好きだ。


 猫がいれば恋人などいらないと豪語し、部屋はありとあらゆる猫グッズで埋め尽くされ、道端の野良猫に何時間もへばりつく。昔から飼っていた実家の猫が他界した時は、あまりのショックに二週間も大学を休んだ。


 猫に対する愛情以外は平々凡々な優人だが、その人生も実に平坦なものだった。


 大学の帰りに公園の階段から足を滑らせて、段差の隙間に落っこちるまでは。


 あるはずのない隙間に滑り落ちて、気づけば見たこともない生垣の上に転がっていた。



「……なんだこれ?」



 仰向けで万歳したまま、鮮やかな青空を見上げる。



(さっきは夕日が眩しかったのに)



 雲一つない晴れ渡った空をポカンと見上げていると、足元から声がした。



「妙な気配がしたと思えば」



 優雅に低く響く声。



「これはまた、久方ぶりのまれびとか」



 優人はその場でびくっと震えて、恐る恐る生垣の上から体を起こした。



「……夢?」



 そう首を傾げてしまうのも無理はなかった。そこには優人の頭をガツンと殴りつけるものがいた。


 背丈は優人の腰くらい。つやつやと輝く黒い毛は美しく、ぱちりと瞬いた金色のひとみは丸く愛らしい。ぴくぴくと動く耳は見事な三角形で、鼻の周りに生えた長いひげはすべて優人の方を向いている。くるんと先の丸まった尻尾が揺れた。


 どこからどう見ても、二足歩行の猫である。手足がちょっと短めで胴が丸みを帯びているのが、これまた可愛らしい。マンチカンがデフォルメされて歩いていたら、こんな感じだろうか。


 黒猫は頭に王冠を乗せ、前足に王笏を持っていた。首元にちょこんとリボンのついた黒いワンピースを着ている。ワンピースというか、多分ドレスなのだろうけれど、切り返しやウエストの絞りが無いせいで子供用のワンピースみたいだった。


 金色の目でこちらを見上げた黒猫は、もともと丸い目を瞳孔までまん丸にする。



「「か、可愛い~~~~っ!」」



 優人と黒猫のセリフが見事に被った。


 その場に崩れ落ちた優人は、顔を抑えた指の間からその猫をじっと見つめる。可愛い、あまりにも可愛い。ぽこんとしたお腹が愛しい。短い手足が愛らしい。リボンのついたワンピースが似合いすぎている。ガチャポンにあったら全財産つぎ込んでコンプリートする。


 優人が訳の分からない決意を固める一方で。


 ぴょこんと飛び上がった二足歩行の猫は、見事な足さばきで優人の周りをぐるぐると回り始める。



「なん、なんだこれは、なんだこの可愛いの。信じられない、こんな可愛いヒトの子がいたとは! 決めた、私は決めたぞ!」


「な、なにを?」



 目の前の存在の可愛らしさと、猫が喋る現実に呆然とするしかない優人に、黒猫はびしっと王笏を突き付けた。



「お前! 私の王妃にする!」


「……俺、男だけど?」



 ほぼ思考停止している優人が絞り出せたのは、その一言のみだった。


 








 優人が黒猫に連れて来られたのは、物語の中でしか見たことのない立派な城だった。あの生け垣は、城の周囲に広がる庭園の一部だったらしい。


 ご機嫌な黒猫は、上品なソファーの上に優人を座らせ、その前に立ってぽむぽむと優人の膝を叩いた。



「私はこの世界の女王だ。名前は無いので好きに呼ぶといい」


「えっと、優人です」


「うむ。ユートだな」



 猫の女王は優人の顔を覗き込み、真面目な顔をした。優人もほわほわしていた顔を引き締めて、話を聞く体勢を作る。



「さて、多分状況が分かっていないだろうから、説明しよう」


「……お願いします」



 その可愛らしい口が語るには、こういうことだった。



「ここは異世界だ」



 ここはあらゆる世界の最下流に位置するのだという。時折、本来の世界からはじき出された存在が流れ着き、わだかまる。川の流れが逆行することのないように、その流れは一方通行だ。


 そして、漂着した様々なものたちをまとめ、形を整え、国の体を成したのが、この猫女王なのだと。


 優人は自分の頬をつねった。痛かった。



「一方通行ってことは、帰れないの……?」


「本来ならば」



 猫女王の鼻が、得意げにひくついた。



「世界の流れをひっくり返すのは不可能だ。すべての根幹を揺るがすことになるからな。流れを逆さにすると、すべてが裏返る。生が死に、善が悪に、イチがゼロになる」



 上手く想像できないながらも、それが大変な事態であるのは優人にも分かった。


 こくりと唾を飲み込んだ優人に、猫女王は優しく微笑みかける。



「だが、君が手伝ってくれれば、流れを遡る船を作ることができる」



 数百年に一度の機会なのだと、猫女王は言った。



「私はもともと、どこぞの神だった。唯一の存在ゆえ、子孫を残すこともない。だが、この魂を入れる器は取り替えねばならない。私が元いた世界ならば、信仰の力で体の維持もできたのだが」



 この世界に来たことで、何かが狂ってしまったのだろうと、猫女王は首を振る。



「とにかく、新しい体へ転生しなくてはならない。それをユートに手伝ってほしいのだ」


「はい喜んで!」


「私が言うのもなんだが、ちょっと待て」



 しゅぴっと手を挙げて返事をしたら、当の猫女王から止められた。



「可愛いにゃんこのお願いを聞かない理由がどこに?」


「いやいや、もっとよく考えろ、な?」


「なんで? だって手伝ったら帰れるんでしょ?」


「確かにそう言ったが」



 優人に断る理由はない。きらきらした顔で猫女王を見つめ返す。


 純粋な優人の瞳に、猫女王はうっと呻いた。



「かわ……っ。よ、よし分かった。引き受けてくれるというなら、お前は今から正式に、私の王妃だ!」


「やったー!」



 優人は両手を挙げて喜んだ。


 可愛い猫と触れ合える。役に立つことができる。その上ちゃんと元の世界に帰れるのなら、優人にとっては悪いことなど一つもない。



「ああ、それと」



 猫女王はぽむ、と一つ前足を打って、壁際に歩み寄った。王笏の頭部分で、飾られていた絵画の額縁をこつんと叩く。



「転生直後だけだが、成功すればこの姿になる」



 そこに描かれていたのは、凛々しく背筋を伸ばし、澄ました顔でお座りをする、美しい黒猫の姿だった。今のように二足歩行ではない、優人のよく知る成猫の姿だ。ちょっと、隣に描かれている女性よりも大きく見えるけれど。


 優人は、猫が好きだ。大好きだ。それはもう、人間の恋人などいらないと豪語するくらいに。


 二足歩行のマスコット的な姿もいいけれど。ドレス姿だって永遠に眺めていられるけれど。


 こんなにも美しい猫の姿を拝めるというのならば、全力を尽くさない理由など無い。



「俺! 死ぬ気で女王様の王妃、務めるよ!!」


「死なれるのは困る!!」



 こうして優人は猫女王の王妃となった。


 







 王妃としての生活は、ユートの想像とかなり違っていた。



「王妃っていうからには、女王様の仕事を手伝うんだと思ってた」



 メイドに髪を梳かれながら、執務机で書類仕事をしている猫女王を眺める。


 今のところ、ユートはメイドたちに世話を焼かれ、猫女王に撫で回され、食事をし、着せ替え人形にされ、猫女王に抱きしめられ、猫女王と添い寝をしている。要するに、ニートである。


 羽ペンを動かしていた猫女王は、髪に花を飾られたユートを見てほわんと顔を緩める。



「もともと王妃は、私が気に入った者を傍に置くために作った役職だからな」


「転生の儀式をするためじゃないの?」


「最初に転生が必要になった時、手伝ってくれたのが王妃だったからそういうことになっただけだ」


「……つまり俺って、儀式まではただのペットなんだ?」



 どうりでここまで着飾られるわけだ。正直、男を着せ替えて何が楽しいのだろうと思っていたけれど。


 犬や猫を可愛がるのと同じだと思えば、納得はいく。ユートの場合は猫が飼い主だが。


 ぐぐっと背中を伸ばした猫王女が、ぴょいと椅子から飛び降りた。



「さて、一区切りついたから庭で休憩しよう。ユート、行くぞ」


「はーい」



 割と自由に生活させてもらっているユートだが、一つだけ決まりがある。それは、猫女王から離れないこと、だ。風呂やトイレ以外は、四六時中猫女王と一緒にいる。


 なんでも、『転生の儀』に必要な下準備なのだという。


 王笏をつき、ユートと手を繋いで歩く猫女王は、とても上機嫌だ。ふわふわの尻尾がぴんと立っている。髭も上を向いていて、全身から嬉しいオーラが出ていた。


 そして、ユートの方を見上げてふんにゃりと目を細めるものだから、たまったものではない。



「女王様かわいすぎっ!」


「こらこらユート、廊下に座ったら汚れるぞ」



 べしゃりと崩れ落ちたユートの頭をぽんぽんと撫でて、猫女王は楽しげに笑う。


 傍に控えているメイドや護衛の騎士たちも、心なしかほっこりしているように見える。


 ここは最下流の世界だけあって、暮らしている民は人間だけではない。獣人がいたり、動物そのものが喋っていたりと、なかなかに個性豊かだ。一度、窓の外をドラゴンが飛んでいたような気もする。


 最初は驚いたが、皆が良くしてくれるので今ではもうすっかり慣れた。猫女王以外の人たちまでユートをペット扱いしているような気がするけれど、大切にされているので不満はない。



「だって女王様が可愛すぎるんだもん~」


「ユートの方が可愛いと思うが?」


「俺、元の世界ではごく普通の見た目なんだけど」


「え……? こんなに愛らしいのに? ちょっとくたびれたクシャっとした感じなんて最高なんだが?」


「女王様、感性が独特なんだね……」



 エキゾチックを可愛がるような感覚だろうか。いや、エキゾチックはあれですごくかわいいけれど。納得した。



「女王陛下っ!」



 廊下でグダグダやっていると、遠くから大きな声がした。よっこらせと立ち上がってそちらを見れば、ずかずかと大股で歩いてくる人物がいる。


 ユートたちの目の前でぴたりと足を止めたのは、見た目は普通の人間だった。いや、ちょっと眩しくなるくらいに綺麗な顔の少年だった。ユートより少し小柄で、恐らく年齢も下だろう。細い金色の髪は見事なウェーブを描き、零れ落ちそうなくらいに大きな瞳は透き通った青い色。絵画とかで描かれるような美少年、と言われると最初に想像しそうな姿をしている。


 首を傾げたユートの前に、猫女王が一歩進み出た。少年から、ユートを庇うような位置に。



「何かな、アンディ。今日は人と会う約束は無いはずだが」


「どうしてですか女王陛下! 僕ではなく、見知らぬ不審者を王妃に選ぶなんて!」



 ギッと睨みつけられて、ユートはたじろいだ。美少年の目には、隠し切れない敵意が込められている。



(なんで俺、睨まれてるの?)



「僕は王妃に選ばれるべく、これまで努力を続けてきました! ヒト族の代表として、歴代の王妃にも負けない自信があります! なのに、何故僕じゃないんですか!」


「……アンディ」


「だって、どう見たって僕の方が賢いし、品があるし、可愛いじゃないですか!」



 困り果てたユートは、横目で猫女王を見た。そして、小さく息を呑む。


 今まではユートにデレデレした姿しか見せていない猫女王が、尻尾の毛を逆立てて、瞳孔を開かせていたから。



(女王様、怒ってる)



「そうか。アンディ、君は、私の判断が間違っていると言いたいわけだ」


「ち……っ、違います!」


「王妃はユートだ。君ではない」


「そんな……っ、待ってください!」



 猫女王がユートの手を引いて歩き出したのと同時に、護衛騎士がアンディを押さえて行く手を阻む。


 横を通り過ぎてからちらりと振り返れば、アンディ少年はユートのことを、憎悪のこもった眼差しで睨みつけていた。


 






 花々に囲まれた庭園の東屋で、ユートは膝に猫女王を乗せて見つめ合っていた。



「すまないユート。まさかあんな風に突撃してくるとは思わず」


「え、この体勢のまま? まあ可愛いからいいけどねっ」



 まるで父親が子供を向かい合わせに抱っこしているような絵面だが、膝の上にいるのは二足歩行の猫だし飼い主である。



「アンディは、ヒト族が王妃候補にと送って来た貴族の少年なのだ」


「貴族っぽい見た目だったね」


「とはいえ、普段ならばともかく、『転生の儀』に関わる王妃選びは大切なのだ。アンディは条件を満たさなかった」



 猫女王はユートの頬を肉球でぷにぷにしながら、大きなため息をつく。



「だから、最初に選ばないと伝えていたのだがな」



 それが納得できずに特攻してきたということか。なんとはた迷惑な。


 自分の方が可愛いと、臆面もなく主張していた姿を思い出す。ユートにはそんなこと口が裂けても言えないが、「可愛いから」と王妃に選ばれたことを思うと、そのアピールポイントは間違っていないような気がする。



「可愛い見た目だとは思うけど」


「うむ。確かにアンディは可愛い。見た目も高貴で美しいし、プライドが高いところも愛おしい。少しくらいおいたをしても、あの目で見つめられれば許してしまうだろうな」



 ユートは瞬きをして猫女王を見下ろした。



(ほんとに、王妃ってペットなんだな)



 猫女王の口ぶりには、ユートも覚えがあった。悪戯をした犬や猫を、叱りながらも可愛いと許してしまう飼い主の姿。



(もしかしたら、王妃だけじゃなくて、他の生き物みんな)



 永遠を生きる世界の女王にとっては、すべて等しく、足元に群がる存在でしかないのかもしれない。



「だが、転生の王妃に求める物を、アンディは持っていない」


「俺は、持ってるの?」



 猫女王はにんまりと目を細めて、一度だけ尻尾を揺らした。



「だから、選んだのだ。可愛い可愛い、私のユート」



 ゴロゴロと喉を鳴らして、猫女王はユートの胸元に頬ずりをした。







 


 それから、何日か経って。


 朝目が覚めた時、ベッドの枕元に小さな黒い卵が転がっていた。



「……女王様女王様! なんか卵がある!」


「んん……? おお、生まれたか! 予想より早かったな」



 横で丸くなって寝ていた猫女王が、前足で顔を擦りながら起き上がった。


 ユートが良く知る鶏卵よりも一回り程小さな卵を、猫女王はひょいと拾い上げてユートに渡した。



「お前が育ててくれ」


「えっ、俺が!?」


「私の新しい体になるのだ。愛情を込めれば込めただけ、すくすく育つ。割らないように気を付けて」



 思わず真っ黒な卵を両手で掲げた。



「王妃としての新しい仕事だ」


「うん……」



 この小さい卵から、あの絵に描かれた美しい巨猫が生まれてくる。



(不思議だなあ)



 新しい体が育ったら、転生の儀式をするのだろう。そうしたら、猫女王は新しい体に移り変わって、ユートを元の世界に返してくれる。


 猫女王が、ユートの膝の上に転がった。



「ふふふ、ポカンとしているのも可愛いなあ」



(女王様のヘソ天も可愛いよ)



 さすがにこれは口に出さなかった。







 


 ユートの生活に、卵の世話が加わった。


 とはいえ、特別なことをするわけではない。


 三角巾のような専用の抱っこ紐をもらい、小さな卵をそこに入れて、今までのように猫女王の後ろにくっついている。



(愛情を込めるって、具体的にはどうするんだろう?)



 とりあえず、こまめに話しかけることにしてみた。



「今日はね、女王様とお茶をしたんだけどね。お茶菓子が凄く美味しくて」


「前に文官の羊さんがくれた、葉っぱのケーキは食べられなかったけど」


「ワニの護衛騎士さんは、おやつにって生肉くれたんだ。夕飯に焼いてもらったよ」


「女王様は、別に食べなくてもいいんだって。俺と一緒にご飯食べてるから知らなかった」


「俺のどこが可愛いんだろう。やっぱ美的感覚は俺たちと違うのかな?」


「最近ね、画家が俺の絵を描いてくれてるんだ。肖像画っていうの?」


「猫なのに卵から生まれて来るのって、なんでだ?」



 優しく卵を撫でながら、小さな声で話しかける。


 その度に少しずつ、少しずつ大きくなっていく卵に、猫女王は嬉しそうな顔をした。



「ユートは私の期待以上だ。この分だと、思ったよりも早く儀式ができるかもしれない」


「そうなの!?」



 最初は片手で握れるくらい小さかった卵は、二週間ほどで両手で抱えなければならない大きさになっていた。


 不思議と重さはそれほど感じないので、三角巾を使って抱えている分にはユートの負担は少ない。


 もはや癖のように卵を撫でながら、ユートは猫女王の差し出す肉球にすり寄った。



「へへ、女王様の役に立ててるなら良かった」


「私の可愛い王妃が、役に立っていないことなんてあったかな?」


「だって俺、卵に話しかける以外、何もしてないもん」



 最初はニート生活万歳! と思っていたが、元が生真面目な日本人であるユート。勉強も仕事もしない毎日にそわそわするようになっていた。


 卵の世話という目に見える役目ができて、ようやく少し落ち着いたのだ。



「お前は真面目だな。えらいえらい。あー、今日も可愛いなあ」



 猫女王はユートの頭をかき回してから、首元に鼻先をずぼっと突っ込み、スーーーーーーと深く息を吸い込んだ。猫吸いは落ち着く、分かる。ユートもよく実家の猫にやっていた。ちょっと立場が逆転しているけれど。


 だから、くすぐったいよ女王様、と言いつつも、ユートは猫女王を振り払わない。



「ユートのお陰で、今回も無事に転生できそうだ」


「そう?」


「ああ。力も申し分ない。お前を問題なく元の世界に送り返せそうだ」



 卵を撫でていたユートの手が止まった。



「ちゃんと、帰れる?」


「もちろんだとも。責任をもって、私が送り届けてやろう」



 ユートから体を離した猫女王が、ふんぞり返ってぽんと胸を叩く。


 ユートは薄く微笑んで、頷いた。



「うん……」


 







 今日は城の外がなんだか騒がしかった。騎士たちが入れ代わり立ち代わり報告に来るのを、猫女王が険しい顔で聞いている。


 ユートはいつものように卵を抱え、執務室でその様子を見ていたが、突然猫女王にこう言われた。



「ユート。少し手間取るかもしれないから、先に東屋で休んでいてくれないか。片付いたら私もそちらへ行く」


「? うん、分かった」



 どうやらトラブルが起きているようだった。対応に出る猫女王を見送って、ユートは初めて一人のティータイムを過ごすことになった。


 お茶の準備をしてくれたメイドに少し離れてもらい、卵に話しかける。



「いつも女王様と一緒だから、ちょっと落ち着かないな」



 もちろん卵は返事をしない。



「どこまで大きくなったら、儀式をするんだろうね」


「女王様が転生したら、俺は帰るのかあ」


「……あはは。帰りたいけど、ちょっとだけ寂しいな」


「もう……、一か月以上ここにいるもんなあ……」



 この世界の人々は、ユートのことを大切にしてくれる。仲良くなった人たちと離れるのは、やはり寂しい。


 けれど、同時に思うのだ。ここにユートの、本当の居場所など無いのだと。


 城の人たちはユートに恭しく接してくれる。それは、『王妃』だからなのか、『お客様』だからなのか、ユートには区別がつかない。


 城の外にいる人たちは、突然現れた王妃をどう思っているのだろう。あのアンディ少年のように、ユートを快く思っていない者もいるはずだ。


 王城から出たことのないユートは、この世界のことを何も知らない。



「早く、帰らないといけないよな……」



 冷めてしまった紅茶を飲みほした、その時。



「見つけたぞ、この泥棒!」



 突然後ろから掴みかかられて、ユートは椅子から転げ落ちた。卵を落とさず抱え込めたのは、奇跡に近い。


 芝生の上に倒れたまま、ユートは下手人を見上げた。


 一度会ったきり、猫女王に接近を禁じられていたアンディ少年が、怒りに歪んだ顔でユートを見下ろしていた。



「ずっと城の奥に引きこもって……、そんなに僕に負けるのが怖いのか!」


「え、え、なんのこと」


「とぼけるな! 王妃の座を僕に奪われないよう、隠れていたんだろう、腰抜け!」



 アンディの言っていることが、ユートには理解できなかった。猫女王からは、アンディの王城への出入りを禁止したとしか聞いていなかったからだ。


 けれど、目を白黒させるユートなど見えていないかのように、アンディは整った顔をますます歪める。



「いいか、僕は栄光ある転生の王妃に選ばれるために、教養を高め、礼儀作法を学び、美しさに磨きをかけて来たんだ! この僕より可愛い存在なんて、誰一人いないんだ! なのになんで、お前みたいなドブネズミが王妃に選ばれるんだ!」



 唾を飛ばしながらまくしたてるアンディに気付いたメイドが、慌てふためいて駆け寄ってくる。それを突き飛ばして、アンディは髪を掻き毟った。



「僕の方が王妃に相応しい! 美しくて、気高い、この僕こそが!」



 確かにアンディは、ユートとは比べ物にならないくらい美しい。顔立ちも、体つきも、いっそ芸術作品のようだった。


 けれど、怒り狂って喚き散らす様は、お世辞にも可愛いとは言えない姿だった。


 ごくりと唾を飲み込んだユートは、卵をぎゅっと抱きしめて、お尻で後ろにずりずりと下がった。



「で、でも、王妃は俺だ」


「黙れっ! お前がいなきゃ、僕が王妃だったんだ! その卵を寄越せ! それは僕の物だ!」


「やめろよっ」



 この卵だけは守らなくては。猫女王の転生に必要な、大切な卵だ。


 卵を狙って覆い被さろうとするアンディに、ユートは反射的に足を振り上げた。めちゃくちゃに暴れただけだったが、偶然にもアンディの頬を蹴り飛ばす。



「ああっ!」


 アンディは大げさに顔を覆い、数歩後ろへよろめいた。



「僕のっ、可愛い顔になんてことを……!」



 頬には少しだけ血が滲んでいた。


 血の付いた指先を見たアンディは、ユートをぎろりと睨みつけ、食い縛った歯の間から呻くように言った。



「お前なんか、都合のいい道具のくせに」


「……道具?」


「そうだよドブネズミ! 本当に自分の世界に帰れるなんて信じてるのか! そんなことができるなら、僕たちの先祖はとっくにこの世界から出て行ってるのに!」



 この世界は、元の世界から弾かれて、流れ着いた者たちが身を寄せ合って作り上げたのだ。


 その、最初の人々は。


 ユートと同じように、家に帰りたかったに決まっている。


 声もなくユートが蒼褪めるのと、アンディがその場にべしゃりと這いつくばるのは同時だった。



「……貴様か。ヒト族の貴族たちに、謀反の芽を吹きこみ、城門で騒ぎを起こさせたのは」



 猫女王が、王笏を手に宙に浮かんでいた。


 ドレスの裾を靡かせてふわりと着地した猫女王は、開き切った瞳孔を潰れたアンディに向ける。



「私の大切なユートに、手を出したのはっ!!」


 雷のような怒声と共に、アンディの顔が地面にめり込んでいく。


 愕然としてそれを見ていたユートは、猫女王の柔らかい前足で両頬を挟まれ、顔を持ち上げられた。



「ユート、怪我はないか? 痛いところは?」


「女王様……」


「一人にするべきではなかった。まさかこんな簡単な陽動に引っかかってしまうとは……。私の落ち度だ、すまない」



 ぎゅっと頭を抱きしめられて、もう何が何だか分からない。



「へ、へいか……、どうして……」



 潰されたままのアンディが呻く。


 猫女王はさっとユートを背後に庇い、尻尾をぶわりと逆立てる。



「最初に言ったはずだ。君は転生の王妃に相応しくない」


「なんで! そいつなんかより、僕の方がよっぽど!」



 喚くアンディの体が、ふわりと浮き上がった。



「アンディ。君は私と王妃に対する反逆の罪により、この場で追放処分とする」


「つ、追放処分!? なんで、そんな一番重い刑を!」



 空中でじたばたとしていたアンディの顔が、恐怖に染め上げられた。



「王妃と卵に手を出した。それはつまり、私の転生を阻もうとしたのと同じだ。この卵は、ユート以外には育てられないのだから」


「そんなはずない!」



 猫女王は、もうそれ以上は答えなかった。王笏をふわりと振る。



「やだ……、やめてよっ! 僕は、僕が!」



 アンディの周囲で、空気が渦を巻いた。アンディの足が、ゆっくりと渦の中へ吸い込まれていく。



「王妃に、相応しいのは!」



 飲み込まれて消えていくアンディを、ユートは目を見開いたまま見つめることしかできなかった。



「僕なのにいぃぃっ!」



 断末魔の叫びさえ飲み込んで、渦は緩やかに元の空気に戻っていく。


 ユートは小さく、かすれた声を零す。



「今、のは」


「この世界からアンディをはじき出した」



 当然だ、と猫女王は薄く笑う。



「この世界を維持するこの私と、大切な王妃を、害そうとしたのだから」



 ここは、流れの一番下にある世界だ。ここからはじき出されたということは、つまり。



「アンディは、どうなるの」


「うまく消滅できれば御の字、というところかな。さて、ユート。部屋に戻ろう。怪我がないか確認しなければ」



 ユートに向けられる目は、いつも通りに優しい。けれど、差し出された前足を、いつものように握り返すことは、できなかった。



「……ユート?」


「アンディが、言ってた」



 卵を抱きかかえて、ユートは迷子のような顔で、猫女王を見上げる。



「元の世界になんて、帰れないって」



 猫女王は、静かに息を呑む。



「俺は、女王様の、道具なんだって」



 卵から、ぴしりと、ひびの入る音がする。



「ねえ、女王様」



(そんなの嘘だって言ってよ)



「ほんとうに、俺だけが、かえれるの」



 猫女王は、黙ったまま、ユートの前に膝をついた。


 腕の中にある黒い卵を撫でて、そして、一言だけ。



「見せたいものがある」


 







 連れて来られたのは、いつも一緒に寝ている猫女王の寝室だった。そのベッドの後ろ、何もないと思っていた壁の所に、隠し扉があった。



「ここには、私しか入れないようにしてある」


「……」


「見てくれ、ユート」



 猫女王が王笏を振ると、扉の向こうがふわりと明るくなった。促されるまま、隠し部屋に足を踏み入れる。



「これ……」


「歴代の、王妃たちだ」



 そこには、無数にも思えるほどの絵画が、均等に並べられていた。



「私は不死ゆえ、番を持つ必要はない。寂しさを慰めるためだけに、王妃を迎える。転生の儀式は、条件さえ合えば王妃でなくてもできるのだ」



 一番近くの額縁をそっと撫でて、猫女王は懐かしそうに目を細める。



「今までの王妃たちを、私はすべて覚えている。共に生きて、けれど共には死ねなかった者たちを。この子たちを……、愛しているから」


「女王様」



 ユートの手をぎゅっと握って、猫女王は言った。



「ユート、お前のことも、もちろん愛している。これまでの王妃に比べて、本当に……、本当に短い時間しか、共にいられなくとも。間違いなくお前は、私の家族なのだから」



 まあるい金色のひとみから、ぽろりと涙が零れ落ちた。



「道具だなんて、そんな訳がない。だって、こんなに、大切なのに。離れがたく思っているのに。この手でお前を送らなければならないことを、こんなにも、苦しく思っているのに……!」



 ユートは、ぎゅっと唇を引き結んだ。



「……俺、帰りたいよ」


「うん」


「だって、ここは俺の世界じゃない」


「うん、知っているとも」



 ほろほろと涙を零しながらも、頷く猫女王。ユートは耐え切れず、小さな体に抱きついた。



「でも、でも、俺も女王様と離れたくないよ! 俺も女王様のこと、だいすきだよ、愛してるんだ……!」



 そう叫んだ瞬間。ユートが抱えていた卵が、まばゆい光を発した。



「え!?」


「……ユート。転生の準備が、整ったようだ」



 猫女王が、柔らかい前足で、ユートの頭をかき回す。



「卵をベッドの上へ運んで。今すぐ儀式を始めなければ」


「そ、そんな、突然っ!」



 あまりにもいきなりすぎる。だって、転生が終われば、ユートは元の世界に帰るのに。


 けれど、猫女王は優しくユートの背中を叩いて促した。



「早く。今の体が、まだもっているうちに」



 ユートは猫女王を見下ろした。艶やかな毛に覆われた体の輪郭が、不自然にぶれる。



「……わかった」


 







 輝き続ける卵をベッドへ運ぶ。ユートの手から離れた卵は、みるみるうちにユートの身長をも超す巨大な卵となった。


 王笏と王冠を置いた猫女王は、ぎゅうっとユートの体に抱きついた。



「ユート、可愛い可愛い、私の王妃。今から私は、お前の愛で満たされた新しい体に移る。ユートには、私の魂をあの卵に込めてほしい」


「どうやって?」


「いつものように、愛情を注ぎこんで。大丈夫、ユートならできる」


「うん」



 猫女王の体が、溶けるように消えていく。ほんの僅か、最後に残った蛍のような光が、ユートの手のひらにゆっくりと落ちた。


 優しく優しく、それを抱きしめて、ユートは卵を撫でた。



「女王様。俺の女王様。俺を王妃に選んでくれてありがとう。愛してくれてありがとう。生まれておいで、俺の女王様」



 語り掛ける声に、いっぱいの愛情を込めて。


 卵の真ん中に、ひびが入った。亀裂は横に広がって、卵が真っ二つに割れていく。


 蓋が開くように、卵の上半分がもぞりと動いた。金色のひかりがちらりと横切る。


 卵の殻を持ち上げて、巨大な黒猫が大きく背伸びをした。ふるりと体を震わせた黒猫は、まんまるのひとみでユートを見下ろす。



「ああ……。ユート、ありがとう。こんなにも力が満ちている。お前が愛情を、たくさん込めてくれたから」



 巨大な猫は、鼻づらをユートの肩口に押し当てた。ごろごろと喉が鳴る。


 ユートは恐る恐る手を持ち上げて、巨大な猫の顎を撫でた。



「……女王様?」


「うん、ユート。これが私の、本来の姿だよ。力が溢れた、今だけしか見られない」



 すんすんと鼻を鳴らして、女王は卵の殻からするりと抜け出した。



「さあ、ユート。お前だけが帰れる理由を教えよう」


「え!?」


「卵の殻に入って、さあ」



 女王の鼻先で尻をもちあげられて、ユートは殻の中にコロンと転がった。



「流れそのものは変えられないが、世界の流れを遡るための船を作ることはできる。そのためには、船となる器、流れに逆らうための力、そしてお前の世界まで導く船頭が必要だ」



 女王の優しい声が、ユートの上から降り注ぐ。



「すべてが揃うのは、今しかない。神を育んだ卵、溢れ出すほどの神力、私がお前を想うこの気持ち。私の愛でお前を導こう。必ずや、お前を返してみせよう」


「女王様!」



 巨大な猫は、もう泣いてはいなかった。愛しげに目を細めて、ユートの顔をべろりと舐める。



「愛しているよ、私のユート。永遠に、ここから、お前を愛し続けるよ」


「お……、俺もっ。愛してるよ、女王様!」



 卵の殻がふわりと浮かんだのが分かった。最後に伸ばした手が、女王の鼻づらを撫でて、そして、暗転。


 







 飛び起きたら、そこは見覚えのある公園だった。服も荷物も、元通りだ。


 優人は慌ててスマホを引っ張り出した。世界の隙間に落ちた、同じ日付だった。


 西日が優人を照らしている。ふと頭に手をやると、黒い卵の殻が半分だけくっついていた。


 じわりと視界が滲むのを、頭を振って誤魔化した。


 階段の上に座り込んで、動けない優人の耳に、声が届いた。



「にゃおう」



 猫の鳴き声だ。


 ばっと振り向くと、艶のある黒い子猫が、金色の目をまん丸に見開いて、優人を見上げていた。



「……っふふ。お前、見たことある顔してるなあ」



 手を伸ばして抱き上げれば、黒猫は逆らうことなく優人の腕の中にすっぽりと納まった。


 そして、口を開く。



「……その」


「……はぇ?」



 猫が喋った。ぽかんと口を開ける優人の前で、黒い子猫は気まずそうに続けた。



「ちょっと、愛を込めすぎて、分身作っちゃったみたい……」



 恥ずかしそうだった。


 そして黒猫は、優人の膝の上で顔を覆ってごめん寝の体勢になる。



「あんなにかっこよく送り出したのにぃぃ」


「え、あれ、ほんとに女王様? ほんとのほんとに?」



 ついさっき、感動の別れを告げたばかりなのに。


 唖然とした優人は、けれどやがて、小さく噴き出した。



「ぷっ、あはっ、あはははは!」


「笑うなあああ」


「嬉しい! 俺、これからも女王様と一緒にいられるってことだよね!」



 子猫女王は、ぱっと顔を上げた。そして、むずむずと鼻を動かす。



「む、うむ。そういうことだ! これからもずっと一緒だ!」



 ぐいぐいと優人の腹に頭を押し付ける姿は、二足歩行の時と変わらないように思える。



「それじゃあ、これからもよろしくね。俺の女王様!」


「ああ。これからもよろしく、私の可愛い王妃」



 鼻と鼻をくっつけ合って、二人は優しく笑い合った。

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猫女王と王妃くん 神野咲音 @yuiranato

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