あるとき、ある朝、ある瞬間

 目が覚めると外は暗く時計を見ると朝5時になるところだった。布団に入って3時間も経っていない。どこまで意識があっていつ眠りに落ちたのか分からないが、先ほどまでの事は実際に体験したように細かく、なんなら感じた感覚すら覚えていた。

 自分の枷が剥がれ、チサキを動かせてやる事が出来た。そして何より僕のため力を振り絞って助けてくれたいのさん、あの場では感謝する事すら伝えられ無かったがその気持ちをどうにか伝えたい。急に伝えても本人はなんの事だかわからず困惑するに違いないがとにかく伝えなければ気が収まらない。

 僕の気持ちはここ最近感じ得なかったほどクリーンで前向きだった。シャワーを浴びて、冷蔵庫の残り物で簡単な朝食を作り、珈琲を淹れて時間を掛けて食事を摂った。ニュースでは今日は12月では異例の暖かさだという。そういえば特にエアコンも付けず寒さも感じない。起きた時から吉祥寺の東急ホテルにいのさんを訪ねにいく決心はついていた。あまり失礼にならない時間に、でも早く会いたい。

 8時半を過ぎた所でもう我慢できなくなって家を出た。太陽は厚い雲によって隠れていたが肌で感じる風が生暖かくなにか気持ちが悪い。

 早くいのさんに会って自分から話がしたい。はやる足を抑えて歩いたが9時前には着いてしまった。いざ着くとどう尋ねたら良いものか不安になったが、ここは覚悟を決めてフロントに向かい一直線に進んだ。


 井上という名前を告げると受付の女性はすぐに理解したように笑顔で頷いた。ここに呼んで欲しいと伝えると首を振ってそれは出来ないと言う。

 何故?

 「井上様は今朝早くにここをチェックアウトなさいました」

 「そんな・・・・・・」

 言葉が出なかった。固まる僕をみてフロントの女性が続けて言った。

 「私共も急なチェックアウトだったので少し驚いたのですが、長く在過ぎたということで昨日の夜こちらに話があったそうです。私、個人としても最後にお会い出来ず残念でした」

 いのさんのことだから、この女性とも色々話すうちに気の知れた仲になったんだろう。本当に残念そうだった。

 一方で僕は、残念と思う気持ちと同じくらい裏切られたという怒りが吹き出してきた。確かに昨日ここを発つという事は言われたがまさかこんなに早いとは、まるで・・・・・・。

 僕は無言のまま振り返るとそのまま出口に向かった。

 「あっ、少々お待ちをーーー」

 声をかけられて振り返る。フロントの女性が僕のすぐ後ろまで駆け寄ってきていた。何度か呼ばれていたらしい。

 「すみません、一応お名前を伺ってよろしいですか?」

 息を整えながらそう言った。何度か声を掛けられていたら申し訳ない。

 「×××ですが・・・・・・」

 「えっ」

 女性の顔が驚きで固まった。

 「失礼しました。先に確認しておくべきでした。井上様から預かっている物があります。どうぞこちらに」

 深く頭を下げてもう一度フロントの方へ案内された。

 女性は、僕にここで待つように言い奥へ。しばらくすると品の良い、いかにもホテルマンと行った感じの男性と一緒に出てきた。年はいくらか僕より上のように思うが肌の艶が明らかによろしい。

 「フロントのチーフをしております。坂本です」

 丁寧に名刺まで差し出された。

 フロント横のラウンジへ行き、コーヒーで良いか?と聞かれたので、それで良いと答えた。利用している客は少ない。すぐに香り高いコーヒーが運ばれてきた。

 「早速ですが、井上様より預かっている物をお渡し致します」

 坂本が手に持っていた、茶封筒を差し出した。

 僕の名前が丁寧な字で書かれていた。

 すぐにそれを手に取る事が出来ず見つめていた。

 「今朝早くここを発つ前に井上様より私が預かった物です。おそらく近いうちに×××様がこちらに来るだろうと。その際渡して欲しいと頼まれました。渡す時に急に出てしまったことについて一言謝って欲しいともおしゃっていました」

 はぁ、僕はどう答えてよいか分からなかった。

 「ご存知のように、忙しい方ですから。昨夜も遅くまで関係者の方がこちらで井上様のお戻りを待っていたんです。今回はその中に役員の方も何人かいらしたようで」

 「役員の方?」

 「ええ、静岡の本社からわざわざ迎えにこちらに出向いたそうです。先週あたりから、何度も本社の方はみえていたのですが、重役の方からお願いされるとさすがの会長といえども無碍には出来ないようで・・・・・・。しかし休みの間でもわざわざ呼びにこられるなんて会社で何かあったのかもしれませんがね」

 坂本は、はっとして今のは聞かなかった事にと両手を合わせて上目遣いにこちらを見た。

 会長?いのさんのことか。確か会社は別の方に委ねたと前に言っていた。その事だろうか。

 咳払いをひとつして坂口は話しはじめた。見た目よりそそっかしい性格なのかもしれない。

 「オリンピック関連の事業や渋谷、丸の内といったところの開発の入札はまさに今佳境ですよね。そういったところで何か・・・・・・」

坂本は、急に興奮を抑えられないと言った表情を浮かべて前のめりに聞いてきた。僕の事を建設関係の人間だと勘違いしているんだなと分かった。そんな坂本を見て慌てた隣の女性が肘で坂本を突く。

 坂本は襟を正しソファに座り直した。

 「まま、大手建設会社の会長ですから、今はどこにいても休むお暇はないという事なんでしょうけど、当ホテルとしては少しでも井上様にリフレッシュして頂ければと思っていたので急なチェックアウトに、残念と言いますかショックでして。失礼ですがテレビで拝見していた印象とは全く違くて、明るくていつも私共を気に掛けて下さって」

 隣の女性もうんうんと何度も頷いている。

 テレビにも出る?いのさんが?どんどん話が大きくなっていくので僕は聞く一方で理解が追いつかなかった。

 「それでこれを」

 テーブルに置かれた封筒を手で指した。

 目の前のふたりは興味津々といった表情である。

 僕はふたりに促されるように封筒を引き寄せ手に取った。上目遣いにふたりを見ると、早く開けろと言わんばかりの表情だ。

 改めて封筒に書かれた僕の名前を見ると今まで飲み屋で一緒にいたいのさんの姿が思い出された。

 封筒は手に取ったまま僕は立ち上がり、ありがとうございましたと一礼して急いでホテルの出口に向かった。後ろで何か言っている声が聞こえたが立ち止まらずに、振り返らずに外に出た。


ーーー 

師匠へ


前略 急にここを発つ事になりましたこと、大変申し訳なく思います。本当にごめんなさい。

 師匠はわたしの命の恩人です。動けず固まったわたしを助けてくれました。その時の不安な気持ちは、大袈裟にいえば死を意識させるものでした。そこに颯爽と現れて寄り添い、水を与え、肩まで貸してくれたこと、どんなに救われたことか。心から感謝しています。

 厚かましく食事に付いて行ってしまった事も謝ります。急に命の恩人が目の前に現れたのです。何卒ご容赦ください。

 話は変わりますがチサキさんは師匠ととてもお似合いです。お世辞ではなく本当です。色々な人を長い間見てきた私の直感がそう言います。ただふたりとも奥手です。ここは年上の師匠からはっきり交際を申し込んでください。これは早い方がいいです。お願いですからね。

 決断力、行動力が重要視されがちな社会において優しさみたいなものは強力な武器とは言えないかもしれませんが、ただね、心ある人間同士の関係の中では優しい人は最強なんです。師匠のその優しさをどうかいつまでも大切にしていってください。

 貴方の御名前、尾上真三。この名前はとても魅力的です。『しんぞう』には身体の中心、生きる源が集まる心臓となぞる事が出来ます。前に師匠の名前がランドマークと言ったのはまさにこの事でした。名は体を表すと言うのは大袈裟ではありません。力は元々貴方の周りに集まっています。あとはその力をどう使うか考え行動してみてください。

 わたしはここを離れますが、なんでも困った事があれば連絡をください。多少のことであれば解決出来る自信と時間はあります。

 また折を見てこちらに足を運びたいと考えています。

 その時はどうかご一緒させてください。


 早々


株式会社 ××地所

代表取締役会長 井上かいじ

直通電話 ⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎


追伸、偉くありません。本当に肩書だけです。ご連絡はくれぐれもお気軽に。

 

ーーー

 井の頭公園の池の淵のベンチに腰を下ろし、いのさんの手紙を読んだ。二枚の便箋にびっしり丁寧な字でそう書かれていた。

 封筒に戻そうと半分まで入れかけ、また取り出して一語一句神経を使い丁寧に読み返した。

 二度読むことで色々な感情が湧き上がってきた。井上かいじをネットで調べてみた。ウィキペディアにも名前が出てきた。配偶者に井上藤子の名も出てくる。いのさんの経歴がずらっと並んで表示された。頭の方を少し読んでやめた。知る事に意味は無いと思ったから。


 池にたくさんのボートが浮いている。雲が切れ12月の太陽が顔を出す。キラキラ光る湖面は眩しく乱反射を繰り返す。カモが何羽も自由に漂っている。急に潜ったりするやつもいて、しばらくすると意外な場所からぷかっと浮かんでくる。

 携帯を取り出して、メッセージを打った。

-次の休みに会いませんか?チサキさんのところへ行きます。

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立ち上がれ銀玉回顧録 大造 @IRODORInoSATO

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