チサキと僕と いのさんと。
自分のベッドで目が覚めた。
外は明るい、時計を見るとお昼の12時になるところだ。
いのさんとチサキと飲みに行って、帰りにいのさんとふたりで飲み直して・・・・・・。いのさんの亡くなった奥さん、藤子さん。断片的な記憶を繋げて、ここに至る経緯を考えてみる。頭の奥がズキンと重く痛い。どう考えても自らの足で帰ってきたという事なさそうだ。
テーブルの上にシワだらけのレシートがあって、裏にこう書かれていた。
-昨日はありがとうございました。鍵は掛けられないので御用心を。井上-
いのさんにここまで送ってもらったんだ。酔い潰れてしまったんだろう。そういえば、タクシーに乗った記憶も薄ら蘇ってくる。運転手さんの肩を借りて、いのさんにポケットの鍵を取って開けてもらって。
大きなため息をついた。昨日は一体何だったんだろう。いのさんには、一度改めて昨日のお礼を伝えなくては、きっと二軒目もタクシー代まで出させてしまっている。携帯の画面が明るくなった。メッセージを着信したようだ。ディスプレイに表示された名前は『チサキ』だった。
-昨日はありがとうございました!とっても楽しかったです。いのさんにもご馳走になってしまって感謝お伝えください(汗)。今度の現場、従業員が少なくてなかなか大変そうです!がんばりますね-
こちらからメッセージを送った方が良いか迷っていたのでメッセージが届いて安心した。どう返信しようかと、何度か文章を打ってみたけれどしっくりこないので返信は後回しにして、とにかく動き出すことにした。二日酔いの頭痛はなかなか治らない体質で、夕方から仕事もあるので、シャワーに入り簡単に食事を摂ることにした。
当たり障りのないように返そう。
-お疲れ様です。昨日は楽しんでもらえて良かったです!いのさんも付いてきちゃって一時はどうなるかと思いましたが・・・・・・笑。また飲み行きましょう-
最後の一文は、頑張った。次回に繋がる希望を残した・・・・・・。
一方でこれしきのことで・・・・・・という煮えきれない気持ちもある。歳の離れた女性にここまで気を遣わなくてはいけない意気地なしの自分にがっかりと落ち込んでしまう。『だったら早く師匠のものにしちゃったらどうです』いのさんの言葉が蘇ってくる。
今と昔じゃあ、恋愛の価値観だって全然違うんだよ。今の男はそんな打たれ強い精神を持ってる奴なんていないんだ。簡単に言うない。
月が替わり12月になった。
東京でも寒さが身に染みる。正社員はこの時期ボーナスなんかで浮かれあがり、カップルはクリスマスだなんだで浮かれあがる。どちらにも該当しない僕は寒かろうが、周りが浮かれあがろうが関係ない。自分の生活を淡々とこなしていくだけだ。唯一の友人Aは、新しい彼女と順調な様子で見たくもない写真が携帯に送られてくる。
チサキとのメッセージのやりとりは続いている。毎日という訳ではないが3日おきにはメッセージが届く。内容といえば当たり障りのないことばかり。ここはひとつ飯でも誘ってみるか。と思う時もあるが、なかなか送れない。損な性格だ。
パチンコの方はすこぶる順調だ。台選びが功を奏しているように思う。初当たりの引きも強くとにかく12月に入ってから負けなしである。ちょっとしたボーナスくらいまとまった金が手に入った。懐が膨らむとパチンコも気が大きくなる。リスクの高い台、自分の好きな台に目がいき、勝率やデータ読みなどが疎かになってしまう。ただ運の良し悪しだけで勝ち続けていると近いうちにしっぺ返しに合う。こうした経験は今まで何度も味わってきた。経験から十分理解はしているもののギャンブルをする者の因果か調子にのることをやめられない。
その日は、休みで昼前に目が覚めたけれどあまりに冷えるので布団から出れずに、手を伸ばしてリモコンを取りテレビをつけて布団から出ずにモゾモゾと芋虫みたいになって日中を過ごした。夕方前になりさすがに腹が減ったとなって、全身に力を入れて立ち上がった。冷たい着替えを必死に堪えて袖を通しいつもより一枚多めに上着を羽織って外に出た。
もう日が落ちかけていた。駅前で何か食べようと駅に向かって歩き始めた。しばらく行くと周りをキョロキョロと大きな紙袋を持った男性が目についた。人気の少ない住宅街なので目立つ。あまり気に掛けないようにやり過ごそうとした時、気がついた。
『あれ、いのさん?』
僕の掛けた声にすぐさま反応があった。
『いやあ、良かった良かった』
間違えなくその男性はいのさんで、銀縁のメガネの奥の目は今日はギョロリではなくウルウルした泣きべそのような安堵したような表情をむけてそう言った。
自分一人なら牛丼屋か立喰の蕎麦屋で簡単に済まそうかと思っていたがいのさんも一緒に何か口にすると言うので焼鳥屋に入った。飲屋街の端にあり、いつも空いているが味は悪くない。
ビールと適当な串何本かいのさんが選んで頼んでくれた。僕は先日のお礼と、送ってくれたくれた件についてのお詫びを伝えた。 いのさんはほとんどタクシーの運転手に頼んだから私は何もしていないと言う。タクシー代を支払う旨も伝えたがしっかりと断られた。
「これで貸し借りなしですね」と伝えると、笑ってそうだねと答えた。チサキの事や吉祥寺やその界隈の話をいのさん特有の話し方で話題にして話が始まった。先日も感心したが改めて聴いてもなんだか心地良い。話の中でいのさんが携帯電話を持たない事に驚いた。持たないというより、家に放置しているそうだ。困ることもあるそうだが概ねなんとかなっているそうだ。僕の連絡先を知りたいというので、失礼かと思ったが割り箸袋の裏に番号を書いて渡した。たまに連絡して良いか?と聞かれたので、もちろんです。と伝えるとニンマリ笑って紙を財布に丁寧に折り畳んでしまってくれた。
その日は一軒で終わりになった。と言っても いのさんはよく飲みよく食べた。話題に尽きないので僕もビールがすすみかなり飲んでしまった。
「師匠、実はね。そろそろ移動しようと考えています」と店を出た後いのさんが言った。
「一旦自宅のある浜松に戻ります。今回は二ヶ月以上家を空けてしまいましたから。相模原、横浜、それから吉祥寺と。三箇所まわったんです。妻がなんで吉祥寺を気に入ったのかその理由みたいのは結局分からなかったんですがね。それでも自分なりにここの良い所や風土みたいなもの改めて見直す事が出来たと思います。師匠やチサキさんにも出会えたしね」
「そうですか、せっかくなのに残念です」
いのさんは、一度頷き、連絡しても良いですかと聞いてきた。
僕は、喜んでと答え握手をしてその日は別れた。
携帯を見るとチサキからメッセージが届いていた。
研修が無事に終わったことと、週末こちらに来るのでご飯でもどうかという誘いの内容だった。
仕事も無くもちろん予定も無い、懐はまあまあ厚い断る理由なんてないので、二つ返事でメッセージを、返した。チサキからもすぐに返信があり、また高円寺で良いかと聞いて来た、新宿を僕の方から提案した。最近は行ってないが雰囲気が良い店の心当たりがあった。チサキも快諾してくれて、新宿待ち合わせが決まった。
夜布団に入ると、眠りにつく束の間に普段感じ得ない感覚が湧き起こってきた。それは少しづつ自分の周りの歯車が回り始めた感覚だった。
チサキが綺麗に手入れされた時計に例えるなら、僕は古びた歯車だった。古すぎてしばらく前から動けなくなってしまっていた。動く原動力は生きている。源から伝わる力で、歯軋りのような、鈍く軋む音だけが間隔的に発生している。どうにか力があと少し強ければ、もしくは歯車の軸に軽くグリースでも錆び取りでも手を加えてやれば、あとは勝手に動きそうだが道具がどこにあるか、手順がどうなのか僕にはわからない。なんでもそうだが物は使わない又は動かさないと朽ちてしまう。時計を動かしたい気持ちは十分にあるが自分だけではどうにもならない。うぅーーん。うぅぅうん。僕は頭が無いからとりあえず力を使って回ろうとしてみるが、スカスカで空気を相手に相撲をとっているようで手応えもなにもない。
ふと下に意識を向けると歯車を見上げている男がいる。そう、いのさんだ。いのさんは身の丈ほどの大きな鞄を何事でもといった様子で軽々持っていた。しばらくすると鞄を床に置き座り込んで中身をガサガサと漁りはじめた。ビールの空き缶、写真立て、書類がパンパンに詰まったファイルなど色々な物が鞄から出してくるが、目的な物は出てこないようで首を傾げてもっと深く探りを入れていく。ようやく手が止まったかと思うと、ゆっくり手を抜き始めた。
それは慎重でようやく中身が姿を現した。右手にゴム製の金槌、左手に手のひらほどのはっきりとした緑色の小箱を持っていた。
それぞれ時間をかけて確認した後、床に散らかった物はそのままに立ち上がり、緑の小箱はジャケットの内ポケットにしまい、使いやすいポディションにするよう金槌の柄を何度か握り直して、はじめは確かめるようにゆっくりと歯車の縁を叩き始めた。
トントントントントン。次第に小刻みになっていく。振動が全体に伝わり少しくすぐったい。別に嫌な気分ではない。たとえ嫌でも動けない歯車なので受け入れる他は何もない。そういえば昔も同じことがあったなと思い出した。自分の親だったり学校の先生だったり、いのさんと同じように僕を気にかけてくれた。もっともその頃は歯車は止まっているわけでなく、力強く動けていた。ただ動くペースが速くなったり遅くなったりする事があり、その都度自分に近い誰かが手を使ってスピードをコントロールしてくれていたんだ。
トントントントントン。 いのさんはずいぶん長い間叩き続けた。手の届く範囲でポイントを変えて、叩き続けた。額には汗が滲んで顔は真っ赤になっても叩き続けた。
あるポイントで、いのさんのリズムが止まった。甲高く響いた打撃音がある一箇所で微妙に音が低く変化したのだった。そのポイントをもう一度確かめるように注意深くいのさんは叩いてまわる。
ここというポイントが判明し左手で摩る。右手の金槌を持ち直しゆっくり叩き始める。叩き方は次第に早く力強いものに変わっていく。打撃音にも変化が露わになってくる。今までには無い何か古い瘡蓋のような
粘着質な物質が剥がれる剥離音が聴こえてきた。メリッ、メリメリメリ。いのさんにもその音は届いているはずで叩く力も一層強まっていき、最後にとどめの一撃とばかりにバチンとやると、その空間に今まで無かった錆の塊のような大きな物がいのさんの足元にズドンと落ちて、それと同時に僕の身体が軽くなったような気がした。
フワッとした感覚があった。数秒後、僕は自分が静かに回り始めている事に気がついた。回る事にしばらく慣れていないから身体がフワフワと浮いているようだ。僕から引き継がれる力は小さな歯車をいくつも経て時計の指針へと伝わった。これは確信が持てる。僕の都合でチサキの歩みを止めることはあってはならない。進み方なんてどうでもいい。ただ動いていることが重要な事なんだ。
いのさんは、しばらく僕を見上げていた。少し呆然としたように。疲れたのかな。僕は感謝を伝えたいけど、話せる言葉も表情も手足に至るまで何も持ち合わせていない。助けてくれてありがとう。胸の中で何度か呟いた。
いのさんは、足元に散らばっていたものを鞄に戻し僕に向かって小さく頭を下げた。それからジャケットの内ポケットにしまった緑色の小箱を取り出すと振り返って歩き出した。あっ、待って。言葉に出さない事が本当に歯痒い。 いのさんは歩きながらその小箱を開けて中に顔を近づけているようだった。そのまま僕の目が届かなくなるまでずっと歩き続けて行ってしまった。
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