井上という男②

「妻はふじこといいます。藤子不二雄の頭の藤子と書きます。藤子とは20代の頃、地元の浜松の建設関係の職場で出会って結婚しました。その時はお互い別に付き合っている人がいたんですがね。一目見た時から何か運命的なものがあったんだと思います」

「出会って結婚まで一年も掛かりませんでした。早すぎないかとか言われましけど、お互いにね決心してしまったので何の迷いもありません。周りの言うことは一切耳をかさなかったんですね」

いのさんはニヤッと笑って見せる。

「わたしが言うのもアレですが、よく出来る妻でね。せかせか働いて稼いでくるし、家でもいつも動いて家事をしてくれてね。はじめは有難いなーってくらいにしか思わなかったのに、だんだん自分に引け目を感じて来てね。そこまで頑張ることはない、なんて言ったこともあったのですが、なんて言ったと思います?」

「じゃあ、あなたもやってよとか?」僕は曖昧に答えた。

「『あなたは寝ててくださいな』なんて言うんですよ、嫌味じゃなくて本心として」

僕は眉をあげて驚いてみせた。

「そこで僕も本当にだらだら過ごすだけの甲斐性がありゃ良かったんだけども、逆に何かしなければというふうに考えてしまってね。若いからかな。これが後々後悔する事になるんですがね」

いのさんは意味ありげな顔向けた。空いたグラスをあげてハイボールを注文した、僕も勧められたが今はいいですと断った。

 「ちょうどバブルの時期でね。やたらと明るい話ばかり聞こえてくるもんだから、よしここは1発当ててやるかと、藤子の意見は何も聞かないで会社を起こしてね。まだ30代も前半だから疲れ知らずにがむしゃらに働いて一年でなんとか自分の会社を軌道にのせることに成功したんです。藤子はなんの相談もなしに僕が勝手に始めたことだから面白くなかったんでしょうね。会社のことにはあまり触れず、でも決して仲が悪いと言う訳でもなくお互い忙しい時間を過ごしていました。子供も出来れば色々変わってきたんでしょうか。そっちの方は全然ダメでね。その時はそれで良かったんだろうけど、もっと真剣に考えれば良かったなとは今になって思います」

自分に言い聞かせるように頷きながらいのさんは続けた。

「話が逸れましたが、藤子は藤子で当時流行り始めたハンバーガー店のフランチャイズなんかに手を出して自分でお店をはじめてね。仕返しかなんだか僕に相談せずにね。それも2、3年で7.8店舗くらいに伸びてね。僕は僕で会社を切り盛りしてるし、妻は妻で忙しいしで、だんだんふたりでいる時間が減っていってしまって、夕飯はお互い外で済ませるし、朝も出る時間がまちまちだから、帰ってももう布団に入っている相手しかいなくてね。こう話してみると・・・・・・、本当にあの時は寂しい夫婦だったんだな」

いのさんはハイボールをガブリと口に含み、ゴクリと喉を鳴らして腹の奥に納めた。うぅー、と小さく唸り声をあげた。そしてまたゆっくり話し始めた。

「ちょうどその当時ですね。日本に悪の大魔王が降りてきちゃったんですね、バブル崩壊。今だから笑って話せますが当時は本当に酷かったんです。花火大会で大盛り上がりしている最中に大火事が起きたらみんなパニックになるでしょう。それが日本全国規模で起こった訳ですよ。景気が一気に冷え込んで。経営者の端くれだったので、取引先がどんどん萎んで潰れてく、まさに崩壊したんです、日本が。怖かったんです。本当に」

いのさんは何度か頷いてまた話し始めた。

「ただね僕の会社は本当に運が良くてダメージは他に比べれば少なくて大きく体力は奪われなかったんです。だけど藤子の店が直撃してしまってね。売上も上がらないどころか急激に下がっちゃっいましてね。新店だなんだでお金も結構使っちゃってた時だったから、現金がなくて雇っている従業員の給与の支払いが苦しくなっちゃって、当然僕も援助をしようと何度も声を掛けたんだけど、こちらの言う事は全く聞いてくれなくて、自分でなんとかするとしか言わなくて、頑固な性格だし頑張りすぎるから、それまで以上に働き詰めになっちゃってね。家にいる時もいつも疲れててげっそりしてるから、こっちも心配するんだけど、大丈夫、大丈夫しか言わなくて。結局何もしてあげられないまま半年後に藤子のハンバーガー店は全部閉めることになってしまったんですね。本人はかなりショックを受けちゃって、責任感が強いから。しばらくうつ病みたいになっちゃって、その頃はうつ病なんて言葉は一般的でなかったんだけどね。だんだん家に閉じこもるようになっちゃいましてね。僕は僕は自分の会社の事もあってなかなか看病らしい事が出来なくて、自宅にカウンセラーを呼んだりはしましたけどね。師匠うつ病みたいな経験は?」

「今のところやったことはないです」

「うん。あれは本当にタチが悪いやつでね。薬はあるけど、そもそもが精神的なやつなんで特効ではないし、気持ちの振り幅があるから一辺倒の対処じゃ意味をなさない。その時その時でこちらが態度を変えて対応しなきゃダメなんです。それも藤子の為だからと休みの合間はなるべく一緒にいてやるようにしてね。もう四十代半ばの大の大人が手を繋いで歩いたりね。そういう対処法もあるようで、試せることは色々やってみて藤子の様子をみていたんです」

いのさんは、三杯目のハイボールをオーダーした。今回も僕はグラスに蓋をしてよしておいた。

「2年くらい掛かりましたかね。そうしたらね。周りの助けもあって、だんだん藤子が病気以前の藤子に戻って来たんです。その頃僕は藤子と一緒にいてやる時間を増やす為に会社は別に任せて時間をなるべく藤子のために使うようにしました。時間をかけてやる事で藤子が戻ってきてくれたんですね」

いのさんは、ため息にのせて妻の名をひとつ吐き出した。

「藤子は専業主婦になって家にいるようになりました。僕は会社は完全に他に任せちゃったので、一見するとプー太郎です。不思議ですね。その時一緒になって三十年くらい経ったのに、一緒にいる時間が増えると相手の知らない事がたくさん見えてきたりして、とっても新鮮な時間だったんです。たぶんお互いにそう思ってたんだと思います。前に好きだった食べ物がコロッと変わっていたり、着るものの趣味もアレってこんな感じだったけかな?とか、まあ色々です。でも好きな俳優さんは変わってなかったり、そういうのが面白くてね。よく笑いました。妻も私も」

いのさんは何か思い出したのだろう、しばらく黙ってクスクスと小さな声を出して笑っていた。

なんだか羨ましいなー。屈託のないいい笑顔だ。

「それからふたりで色々な所を旅行するようになりました。国内はもちろん、海外にもね。良いなって思った土地では、マンスリーで部屋を借りてしばらくそこで生活してみたりしてね。一年のうち浜松の自宅にいるのはほんの2.3ヶ月であとはずぅーと出てました。ふたりで話してポッと出た所にすぐサーっと向かってしまう。荷物も片付けないで、なんならそのまま次の旅路へ」

「その時」いのさんがテーブルを指先でタッタンと軽く叩いた。

「ここ東京にも来たわけです。妻が決めた吉祥寺にマンスリーマンションを借りてね。結局は3ヶ月くらいいましたかね。全く縁もないんですが藤子が気に入ってね。私から言わせれば建物もごちゃごちゃしているし、とにかく人も多いし、かといって何かあるか?といっても大したものはあまり無いし。上っ面だけ立派で中身がない所だなって思っていたんですよ。正直言わせてもらうとね。でも藤子には何か合うものがあったんだろうな。しばらくここにいたいって言うもんだから。沖縄や飛騨高山あとは長野の上田とか、しばらく住んでいい所だねえってお互い言ったけど、延長するまでではなくてそんな事は吉祥寺が初めで、他は無かったですね」

ここでいのさんは大きく息を吐き、ちょっと失礼と席をたった。もうすぐ午前2時になろうとしていた。

 チサキは無事にホテルに帰れただろうか。携帯を見てもメッセージは届いていない。しかし今日は良く飲んだな、頭の中心部がボヤッとして軽い頭痛を感じる。

 いのさんは亡くなった奥さんのこととても大事に思っていた。話を聞いてよく分かったし、羨ましい。いのさん、藤子さん、チサキ・・・・・・。藤子さんはあくまでも僕が勝手に想像し作り出した外見だが、今日関わった三人の人物それぞれが頭の中で何か話をしている。よく聞き取れないので静かに耳を澄ませる『・・・・・・』わからない。

はじめ関わりのなかった三人がだんだん近づいて向き合い独り言のような言葉は、会話へと変わっていった。いのさんはよく喋る。いのさんに負けないくらい藤子さんもよく喋る。『だから、いつも言ってるでしょう』藤子さんの声がしっかり聞き取れるようになってきた。はっきりした発音で聴き取りやすい声をしていた。チサキは、うん、ええ、ははは、と愛嬌あるかわいい顔で相槌をうってふたりのやりとりに付き合っている。僕もその輪に入りたいと思が、少し離れたところから一歩が踏み出せない。あははは、三人が笑い合う。入れて欲しい・・・・・・、いいなあ・・・・・・。



「師匠?ん?寝ちゃいましたか」

いのさんはゆっくり椅子に腰をおろすと小皿のナッツをひとつ口に入れてハイボールのおかわりを注文した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る