第2話

「今日は二階の夢を見たんだ。こんな形の手すりが階段にあってね」


ガリガリ


「一番奥の部屋のタイルがこんな模様をしているんだ」


ガリガリガリガリ


「実はその時計台、地下があったんだよ! 奥に古時計があって、なぜか針が五本もあるんだ!」


ガリガリガリガリガリガリ


「もうちょっと、なにかディティールがあったと思うんだよね。こんなつまらない時計じゃないよ」


「なんか違う。この柱が、なぜかすっごいぷにぷにとしてるんだけど、見た感じはすごく硬そうで」


ガリガリガリガリガリガリガリガリ


「早く帰って夢の続きを見たいな」


「なんか、こうじゃなかった気がするんだよな。木目が濃かったのかな」


ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ


「この一角にあったものだけが思い出せないんだ。早く、早く夢の続きをみないと」


ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ


「今日は、夢に出てきてくれなかったんだ」


ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ


「早く、時計台に行きたい」


「昨日見たはずなのに。壁の模様が思い出せなくて、前と違うような気がして」


ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ


「こうじゃない、こうじゃない! もっとあの空間は、すごくて、こんなもんじゃないんだよ!」



 彼がここ数週間描き続けていたスケッチブックがビリビリに破けて宙を舞う。その破片を拾うと、指に黒鉛が黒々しくついた。紙の上に炭が乗り切らないほど、ずっとずっと描き込んで、真っ黒になっていたのだ。


「こんなの偽物だ。あの空間をちゃんと描けないと、僕はなんのために絵を描いてるんだ。物事を写せないなら、こんな目も腕もいらない」


 この数週間で彼はビックリするほどに痩せこけた。家に帰ったら、夕飯も食べずに布団に潜り、時計台の夢を見たら飛び起きて、見えた光景をひたすら描き写す生活を繰り返しているらしい。寝ているだけ健康かと思っていたが、最近は時計台の夢を見る頻度が下がってしまったようで、また夢が見られないのではないかという不安が、今度は彼の精神を蝕み始めた。


「なあ、玲於那。たまには気晴らしにさ、違うもの描いたっていいんじゃ」

「なに? そんな時間もったいないよ。他のものなんていつでも描けるんだから。あの時計台は、夢に見た時しか描けない。夢はすぐ忘れちゃうから、少しでも記録を残して、思い起こせるようにして、少しでも早く描かないといけないんだ。何か言うならほっといてよ。余計なお世話だよ」



キーンコーンカーンコーン


 チャイムの音が鳴る。彼は自分が散らかしたスケッチブックの破片など、もう気にもとめていないようで、急いで自分の荷物を片付け出す。彼と自分を分かつ、鐘の音に嫌気が差した。ふと前を見たときに、視界に映った黒板の真上の時計に対しても、嫌気が差した。どうしてオレと彼は同じ時間を過ごしているはずなのに、彼はこんなことになっているんだ。じゃあ、この時計は嘘つきじゃないか。

 これ以上、玲於那をおかしくしないでくれ。


 ある日から、彼は学校に来なくなった。体調が悪いと言っているようだが、そりゃあんな様子で毎日過ごしていたら体調だって崩すだろう。……いや、崩しているのは本当に体調だけだろうか。


 プリントを渡すという名目で、彼の家に向かった。水曜は母親もパートに出ているため、今はきっと家に玲於那一人だ。

 呼び鈴を鳴らしても、彼は部屋から出てこなかった。開くわけがないだろうと思いつつも、ドアノブを回したら、そのドアノブが──────────ぐにゃん、と、曲がった。


「ひ…………っ」


 掴んだドアノブは、まるでグミのような弾力があり、掴むとふにゃん、と潰れては、離すと元に戻った。無理やり引っ張ると、その扉は、まるで紙でできているかのように軽かった。そんなはずはないのだ。小学生の頃は何度も遊びに来ていたし、その古いアパート特有の鉄の重い扉の開け閉めに、少々力を使ったものだ。

 ふと、顔を上げると、そこは鬱蒼とした真っ暗な森になっていた。


「これ、は」


 彼が言っていた、時計台が眼前に広がっていた。



 玲於那が描いていた絵と、言葉を頼りにその中に踏み入れる。オレは彼の夢の中に迷い込みでもしたのだろうか、それとも本当にこの時計台が実在したのか。どちらにせよ、何処かには彼がいるはずなのだ。扉を開けると、フヨフヨと歪な形をした時計が浮いていて、どれもこれもが全く違う時間を指し示している。これじゃ、一体今何時なのかがわかりやしない。


「玲於那〜?」


 呼び掛けても返事はない。それどころか、オレの発した言葉が、高くなったり低くなったりしながら反響して、しばらく経ってようやく音がなくなった。

 気持ち悪い。この空間が、全てが間違っていて、何も信じられなくなりそうだ。けれど、引き返したところで戻れるような空間だとも思えないし、なににせよ彼を見つけ出さないとなにも始まらない。思わず壁に手をつくと、その手に黒々と黒炭が付いた。これは…………玲於那の描いた絵ではないか?


 浮いている時計を一つ手に取った。瞬間その時計はでろり、とまるでチーズのように溶け堕ちた。その表面は白黒の黒鉛で、緻密なタッチで描かれていた。絵だ。溶けたけれど、その時計の針は回っていたけれど、これは絵だ。

 瞬間、視界のすべてがモノクロのタッチで描かれた世界に変わった。全ての時計が急にぐるぐると回りだした。ぐるぐるぐるぐるぐるぐる……まるで、この空間の時間の流れだけが早くなったように。ぐるぐる、ぐるぐる。今は何時だ? ここはどこだ? オレは…………なんだ?


 視線を手元に落とした。そこにうつったのは───────────────鉛筆で描かれたオレの手が、でろり、と溶けていく様子だった。



 僕には、才能がない。

 昔から、絵を描くことが好きだった。母親が自分が幼い頃美術の授業が苦手だったため、自分の子供にはそんな思いをして欲しくないと、昔からカラフルな画材を買い与えて、僕に絵を描かせてくれていた。男の子なんだから外に出なさいと言われたこともないわけではないが、幼稚園の同じクラスの人間の誰よりもスケッチブックを消費する姿を見て、母の方が折れた。

それが自分の自信にもつながり、小学校へ進学してからは絵画コンクールがあれば絶対に何かしらの賞を受賞するようにまで、自分の実力は伸びていった。地元の神社を描いた水彩画は、御社殿のシルエットと装飾を丁寧に描写したことがウケたようで、市役所の廊下にいまだに展示されているという。だから、自分は人よりも絵がうまく、将来的にはそのような仕事につくものだと漠然と思っていた。

しかし、世の美術家と言われる人たちは、皆絵がうまいだけではなく、独自性があった。僕にはなかった。だから、誰よりもそのままを描ける実力を手に入れないといけないと、焦り始めていた。


「この絵、色使い不思議だよね」

「そうですか?」

「なんでこの葉っぱ、赤で塗ってるの?」

「……え?」


 最初は、その指摘の言葉の意味が理解できなかった。僕にはその色は緑に見えていた。不安になり、親に相談したところ、眼科に連れて行かれた。二型色覚だと診断された。

僕が今まで見てきた赤は、他の人がみている赤とはかけ離れていて、僕が見てきた緑も、他の人が言う緑ではないのだと、その時初めて言われた。

 指摘された時は、パレットに出して混色して、しばらく経ってから色を塗ったため間違えたようだった。絵具から直接取り出した色なら、チューブに色の名前が記載されている。何が赤色で何が緑色なのか、そのくらいは理解しているため、これまで描いてきた絵は運良くその二色を間違えずに塗ってこられたのだ。


 親には、別にそれくらい気にすることじゃないと励まされた。病院の人も、世の中の男性の二十人に一人はこうであるから、当たり前のことだと説明された。生活にほとんど支障がないことも、今は大半の職業につけることも説明された。皆、僕に優しかった。けれど、僕はそれが、許せなかった。そうじゃないんだ。そうじゃない、僕という存在は、正しい形と、正しい色を塗れないと、意味がない。

 途端に恥ずかしくなり、持っている絵具を全部棄てた。白黒なら、色を間違えることはない。それ以来、鉛筆だけで絵を描くようになった。鉛の濃淡だけでも、なんとなくそこにある色がわかるように、僕の目に見えている色がわかるように、必死に、必死に描くようになった。僕は、僕の視界に映るものを、セイカイにしないといけないのだ。


 それなのに、どれもこれもコレジャナイのだ。何を描いてもしっくりこない。それは僕の目がおかしいから? それとも世の中の形状がおかしいから? 視界に映るすべてが怪しく見えて、わからないから鉛筆を滑らせる。違う、こうじゃない。

それが恐ろしくて、モノを見ることが嫌になった。深夜の真っ暗闇に安心するようになった。たとえ盲目だろうと、夜だけは皆何も見えないから平等だ。



 ある日、それは突然夢に現れた。

 時計台はかつて、まだ大半の人たちが時計を持ち歩いていなかった時代において、唯一の正しい時刻であった。同じ時計を見ている時、それを見ている人間は、今の時間を表示されている時刻なのだと共有する。手元の時計の針が狂って違う時間を過ごしていた人間も、その時刻に自分の時計を直す。それがひどく窮屈に感じた。正しさを追い求めながら、正しさに窮屈さを抱く自分の感情につかれた。

 それから、夢に現れる時計台は、おかしくなっていった。なぜか時計が浮いていたり、床がないところを歩くことができたり。こんな間違っている世界なら、僕の目がバカで、色を正しく映さない事なんて、まるで些細なことだと思うようになった。この時計台が、この世界が、本当だったらいいのに。

 なら────自分で描いてしまえばいいのだ。このような世界があったっていいことを、自分が描き残せばいい。自分が描いた世界が、正しくなればいい。


「なあ、玲於那。たまには気晴らしにさ、違うもの描いたっていいんじゃ」


 僕がずっと時計台の絵を描いているのが気に食わないのか、突然琉磨がそんなことを言い出した。なんでだよ、この間夢の続きが見れたらいいなって言ってくれたのも、僕の絵をいつも褒めてくれたのも君じゃないないか。いまの僕は、正しいものを描いているでしょう? 間違ってなんていないよ。間違っているのは君の方だよ。僕の黒く塗りつぶされた腕と、間違った色を映す瞳がそんなに大事なの?


 そんなの、キミが間違ってるよ。


かちっ、かちっ、かちっ、かちっ、かちっ、かちっ



「もうやめよう? 玲於那」


 彼の家に訪れ、部屋の中に入ると、壁を埋め尽くすかのように、溶けた時計の絵が四方八方に貼りつけられていた。部屋の中央で彼は、自分の両腕をカッターで切りつけて、かつそのぼろぼろの腕で、自分の目をくりぬこうとしていた。


「…………?」

「無理して、その絵を描こうとしなくていい。頼むから」

「なんで、そういうこと、いうの」


 彼は口角を上げて、笑いながらオレに問うてきた。


「まちがってるね? りゅうまはそんなこと、いわないもんね」

「…………とにかく、一回やめろ。おかしくなっちまう」

「おかしい? そりゃそうだろ。僕は産まれたときからおかしかったんだよ」

「……なんの、こと」

「僕の視界に映るものってね、全部色が間違ってるんだよ。僕の描いた絵も全部間違ってた。だから、こんな目も腕も要らないんだよ」


 そう言って、彼は自分の左腕にまたカッターを突き刺す。血がたらたらと流れ出ているというのに、痛いという感覚がないのかへらへらと笑っている。


「ねえ、血の色って本当に赤なのかな?」

「…………」

「試してみようか」


 そのぼろぼろの腕のどこにそんな力があるんだ、というほど強い力で押し倒される。抵抗しないとどうなるか、嫌でも想像がつく。逃げないといけないのに、体が恐怖でまったく動かなかった。ちょうど視界に見えた、時計の絵の針が動き出したかのように見えた。


「人の腕ってさぁ、柔らかいと思う? 硬いと思う?」

「っ…………い、だ…………」


 ざくり、と腕に痛みが刺さった。きっとオレの腕もカッターで刺されたのだ。


「正解はねえ」


 オレが最後に見たものは、自分の腕が彼の作品として、でろでろと溶けていく様であった。

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