第1話

「最近さ、変な夢を見るんだよね」

「変な夢?」

「そう、変な夢」


 いつものように、彼はA5サイズのスケッチブックを開き、鉛筆を走らせている。今彼の視界に映っているものは、オレが新しく手に入れたシャープペンシルだ。上の方が細く、下の方に重心のあるフォルムを、彼は的確に捉え、ざらざらとした凹凸のある紙の上に写し取っていく。また見事なものだなと思いながら、オレはその様子を見ていた。


「森の奥に立派な時計台があってね。気がつくと僕はそこにいるの」

「はあ」

「その時計台の中にはさ、時計がいっぱい浮かんでて、どれも全部違う時間を指し示していて、どれが正しい時間かわからないんだ」


 シルエットを写しとると、今度は影を書き込んでいく。鉛筆の濃淡しかその紙の上には存在しないというのに、それはどんどんと質量を持っていると錯覚しそうなほど、生々しい形になっていく。


 彼はオレの幼なじみの折本玲於那。全国の高校生写生大会で賞を受賞するほど絵がうまく、いつもこうやって初めて見るものがあれば、それを自らの手で写しとりたがる。まさに絵を描くために生まれてきたような人間だ。美術に興味のないオレですら、そのすごさはよくわかる。


「へえ」

「……なんで夢の中って、絵を描けないんだろう。目が覚めたあと、なんとなくどんな景色が広がっていたかは覚えているんだけど、描けるくらい鮮明には覚えていないんだよね」

「お前でも描けないものなんてあるの?」

「あるよ。むしろ描けないものばかりだ。僕は昔から、見たものしか描けないから、実際に存在しないものは描けない。あるものを描くだけだったら、写真の劣化品だろ? それじゃ意味がないんだよね」

「そうか? オレは十分すごいと思うけど」

「……うーん、ただ見たものを描くだけなら、訓練して、時間をかければ誰だってできるようになるんだよ」

「それができないような人間もいるんだよ。オレの画伯っぷり知ってるだろ」


 彼のストイックさは尊敬もするが、行きすぎていて理解ができないとも思っている。一時期は真似をしてオレも絵を描いていた時期はあったものの、どうしても見ているものと自分が描くものが違いすぎて、あっという間に心が折れて辞めた。こいつと長年つるんでいるのに、オレの美術の成績は五段階中の三だ。


「けどさ、琉磨は正しくないものを描くことができるだろ。前、雲を描いた時お前はなぜかその影を虹色で塗ろうとしたじゃん」

「そんなことあったっけ。まあ、その方が綺麗だって思ったからじゃねえの」

「……芸術に一番必要なのは、その感性だと思うんだよね。僕はそれがないから、目の前にあるものをそのまま描くことしかできない。致命的だよ」

「はぁ」

「あの夢は僕が描きたいと思ってるものが全部形になって現れてる。実在しない空間と時間、あれを描くことができたら、僕はようやく絵を描いているって言えると思うんだよね」

「ふうん、じゃあ、またその夢見たら描けるかもな」


 そんなに描きたいとご執心なら、それが叶えば本人も達成感があるだろう。友人の幸せを願わないほど、オレも冷淡な人間ではない。それに、彼の絵がもっと評価されることを願っているのも事実だ。オレにはできないことを極めている彼のことをオレは誇りに思っているし、同時に羨ましいと思っているのだから。



「今日ね、例の時計台の夢を見ることができたんだ」

「良かったじゃん」

「……夢の中で必死にスケッチしていたから、朝起きたらなんにも描いてなくて、ちょっとがっかりしたんだけどね」


 そう言いながら、彼はいつものスケッチブックに、夢で見た内容を必死に思い出しながら鉛筆を滑らせる。


「その時計台ってさ、他にはどんな感じなの」


 時計が浮いていて、いろんな時間を指している、とは聞いていたが、それだけじゃうまく想像できない。時計、と言っても一口にいろんな種類があるだろう。


「暗い森の奥深くにあってね、一見赤褐色の煉瓦造りみたいに見えるんだけど、いざそこに触れるとふんわりと柔らかいんだ。スクイーズみたいにさ」

「はぁ」

「扉も、分厚い木製の……ちょっと板チョコレートっぽい見た目をしてて、両開き扉なんだけど、重たいのかな? って思わせて、すっごく軽いんだよ。なのに、閉まる時はギギーって、音がなるの」


 彼はそう言いながら、扉を描き込んでいく。チョコレート、と説明されたことになんとなく納得した。


「なんか、物理法則を無視してるな」

「それがすごく魅力的に映るんだよ。僕はつまらない人間だから、夢の中でしかそんな景色を見られない。想像力がないんだよね」

「……別に、想像力なんてなくたっていいと思うけど」


 まあ、確かに全くないならそれは問題かもしれないが、こうやって何年間も一緒につるんできて、彼に対して想像力がない、と思ったことは特にない。人並みの優しさも誠実さも持ち合わせているし、頭が悪いと思ったこともない。人の気持ちを汲み取るくらいの想像力は、十分持ち合わせていると思う。


「それでも、芸術を生業としてやっていくなら、これは致命的な弱点だ。あるものしか描けない人間に価値はない」

「……そう、なんだ」

「なんで僕は、絵なんか描くのが好きになっちゃったんだろうね。そうじゃなきゃ、もう少し別の才能も開花させてたかもしれないのに」

「そんなこと言うなよ。なんならオレは、なんの才能もないぞ」


 玲於那と比べたら、オレはなんだっていうのだ。良くも悪くも器用貧乏で、何をやらせても凡人。苦労もしないが、突出もしない。いい加減だ。


「卑下することじゃないと思うけどな。確かに琉磨は普通だけど、いろんな人と関わり合っていく中で一番重宝されるのは普通の人だよ。変なやつは、何かしら人と違うところがないと生きていけない」

「特段、お前のこと変だと思ったことはないけど」


 まあ、完全な常識人だとも思っていない。普通の人間はカバンからそんな何種類も鉛筆が出てこないし、スケッチブックを持ち歩いていない。ノートの端に描いたスケッチを消し忘れたまま、先生に提出して怒られるあたりはちょっとアホだと思わないでもないが、この先、生きていくことに不安を覚える必要があるとも思わない。


「僕は変な人だよ」


 そう、頑なになる彼のことを、オレはどうしてやれば良かったのだろう。

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