須磨の海

ふじこ

須磨の海

 藤花が私の隣に眠っている。助手席のシートの背もたれを目一杯後ろまで倒して、シートベルトをおざなりに体に引っかけて、ダウンジャケットを掛け布団代わりにして眠っている。死んでいるのではないかと不安になって、藤花の顔の辺りに頬を近付けてみる。微かに寝息の音が聞こえる。頬に少し風が当たって、藤花の鼻の穴から息が出たり入ったりしているのが分かる。突然肩をつかまれる。藤花の方へ体が強く引き寄せられる、体が触れ合いそうになるのに抵抗する、頬に柔らかくて温かくて少し湿った皮膚が触れる。頬にキスをされた、と理解して、藤花の腕を振り払って、体を離す。藤花は、助手席に寝転んだまま、私に顔を向けている。それだけが辛うじて分かる。泣いているのか笑っているのか怒っているのか、表情は見えない。たぶん笑っているのだろうと想像する。

「出発せんの」と、あまりに平然とした声で藤花が言うので、私は、ここまで藤花を起こさないように気を遣ってパーキング・エリアに留まっていた自分が悪いような気さえしてくる。行き過ぎた罪悪感を気取られないように、平然とした声を出そうと努めながら「もう出るよ」と藤花に答える。午前四時、太陽はまだまだ昇らない。目的地までは、道も空いているだろうから、一時間もせずに着くだろう。姿勢を正してシートベルトを締める。「安全運転やよ」「分かっとう」と話しながら、サイドブレーキを下ろして、クラッチとアクセルを踏み、ギアを一速に入れる。クラッチを離して、左のウインカーを出しながらゆっくりと発車する。藤花は黙っている。また眠ったのかもしれない。


 社会人三年目の弟が結婚相手として実家に連れてきたのが藤花だった。弟と並んで座り「初めまして。綾間藤花です」と、両親と私に頭を下げて挨拶する。弟より少し遅れて藤花が顔を上げて、両手をダイニングテーブルに重ねて置く。左手の薬指にダイヤのエンゲージリングが嵌まっていて、白い肌にはシルバーのリングがよく似合っていた、のを覚えている。黒い髪は低い位置でお団子にまとめられ、サイドの髪はピンできっちり押さえられていた。水色のニットのアンサンブルとツイードの白いスカートは、上品で、結婚相手の家族への挨拶にはぴったりだった。そんな髪型や服装をしている藤花を見るのは、初めてだった。

 私の知っている藤花は、ボブカットでパープルのメッシュが入った髪をワックスでラフに整えて、アラン模様の白いセーターとコーデュロイのパンツという格好で、約束に十分ぐらい遅刻してきて「ごめん、ごめん」と悪いとも思っていないように笑うような、女の子だった。だから、高速を降りて急に「コンビニで朝ご飯買いたい」と言われても、まあ藤花なら言うだろうなと思うだけで、腹が立つことはない。面倒くさいなとは思う。そう思ったのがばれたのか、藤花は「須磨ちゃんの分はおごるから」と付け足した。おごりに絆された訳ではなくて、私もお腹が空いてきただけだ。

 青い看板のコンビニエンスストアの駐車場に車を止めて、二人共外に出る。藤花は、さっきまで体に掛けていた黒いダウンジャケットを着て「寒い」と言いながら自分の体を抱いている。黒い長髪は、車から出る前に、ラフなポニーテールにまとめていた。ダウンジャケットの衿とフードが首を少しは隠しているが、寒そうだ。足元が特に、裸足に、ベランダに出るときに使うようなちゃちなサンダルなんか履いているから。藤花の脚の親指の爪は、昔と変わらず巻き爪気味だ。藤花の爪先のすぐそばに、茶色い革のブーツの爪先がある。お気に入りの革のブーツ、同じく革のコートに、ニットのワンピース。ニット帽を被らないできたから、耳が凍えて痛い。

 どうしてか、コンビニエンスストアの中に入らずに、二人して車のボンネットに腰掛けて、ぼうっとしている。藤花が空を見ているから、私も同じように空を見る。太陽が昇りそうな気配のする、暗い紺色から、紫がかった青色へのグラデーション。明るい星が一つ、ぽつんと寂しそうに光っている。

「海、見えんなあ」残念そうに藤花が言う。「せやな」私の声は素っ気ないぐらい、いつもどおりだ。藤花は気にした様子はなく、口の前で手のひらと手のひらをこすり合わせ、少しでも手を温めようとしているかのように、手のひらに息を吹きかけている。かじかみそうな白い手を握ってやろうかと考えて、やめる。手を動かしもしないで、諦める。代わりに「はよ買おう。ほんまに冷えるわ」と、店に入ろうと藤花を誘う。藤花は「もうあんま気にせんでええんやけどなあ」とのんびり言って、勢いをつけてボンネットを降りた。車高が高い軽自動車が少し揺れる。そのせいか分からない目眩を感じながら、私もボンネットから降りる。コンビニエンスストアの真っ白な光に目がちかちかしながら、マヨイガみたいだと思った。自動ドアをくぐると、温かい空気に包まれる。

「須磨ちゃん、豚まん食べたい」藤花が私のコートの袖を引っ張る。その手を逆に引っ張り返して「ええけど、最後やろ。他には何もいらんの」と言いながら、店の奥に進む。雑誌の陳列棚を過ぎて、透明な扉で遮られた清涼飲料水の棚。それから、アルコール飲料の棚。そこも通り過ぎようとするが、藤花が立ち止まって、私の袖を強く引く。藤花の目が、仄暗くきらめいている。「久しぶりに飲みたいなあ」と言う声も、期待、後悔、悲しみ、解放感、そんなものたちがない交ぜになったような、ひどく濁った響きをしている。「好きにしいや」と突き放したように言うしかできなかった。藤花は私を見もしないで、コートの袖は離さないまま「ど、れ、に、し、よ、う、か、な」と、缶入りのアルコール飲料を指さしながら唱え始める。てんのかみさまのいうとおり。そんなことを続けるだろう、とすぐに分かって、藤花の声をなるべく聞かないように、耳を閉ざす、意識を閉ざす。

 藤花が私の弟を選んだときも、こんな風にしたんだろうか。弟と一緒に結婚の挨拶に訪ねてきた藤花を見たときに、私は、驚いていなかった。安堵ならあった。藤花はこんな方法をとれたのかという感心もあった。そうまでして私と繋がりを持ちたかったのかという喜びもあった。なんの拍子でだったのか、客間に藤花と二人で取り残された。藤花は「これからよろしくお願いします、おねえさん」とかしこまった様子で言った。私は「須磨、でええよ。歳も同じなんやし」と何食わぬ顔で伝えた。藤花は、それまでも柔らかかった表情を、つぼみが開くように綻ばせて「じゃあ、須磨ちゃん」とうれしそうに言った。

「これにする」と藤花が弾んだ声で言って、半分に切ったレモンのイラストが描かれた、チューハイのロング缶を手に取った。「須磨ちゃんも飲む?」藤花はロング缶を私の顔に近付けて、頬にぺたりとくっつける。ぞわりと背筋を悪寒が走る。缶を押し退けながら「阿呆言いな。緑茶がまだ残っとう」と言い返す。藤花が笑う。ただおかしそうに笑う。ため息をついて、藤花を引っ張って先に進む。サラダチキンを一つ、ロールパンを一袋、野菜ジュースを一パック。片手でなんとか持つ。藤花は棚を眺めているだけで、何も手に取ろうとしない。「はよレジ行こう」と言ってくるので、気になりつつもレジに立つ。カタカナの名札をつけた店員が、ハンディスキャナで商品のバーコードを一つずつ読み取る音の合間に、藤花が「豚まんとピザまん一つずつお願いします」と店員に言う。店員は、レジの横から、ラミネートされた商品表みたいな物を取り出して、二カ所、ハンディスキャナで読み取る。「袋、要りますか」と聞かれ、「お願いします」と伝える。店員は、レジ台の下から白い袋を取り出して、袋のバーコードもハンディスキャナで読み取り、レジの前を離れて、ホットスナックの棚の前へ向かった。

「須磨ちゃん」藤花が、吐息の方が多いくらいの、小さな囁き声で言う。「なに」と聞き返す自分の声も、藤花の声に応じて小さくなった。「どっちも、一口ずつ、あげるな。代わりに、野菜ジュースちょっと頂戴」隠さなくてもいいようなことをとても大事な秘密ごとのように囁く。私は、藤花の背中を軽くはたく。藤花は少し笑っている。


 つまるところ、藤花と私は恋人同士だった。

 大学のオリエンテーションで、名前順で隣同士に座ったのが出会いだった。明石須磨と綾間藤花。自己紹介をした後、藤花が首を傾げて「なんか、地名みたいな名前やねえ」と言った。馬鹿にしたような、あるいは呆れたようなかげりはなく、ただ感想を言っただけのような、フラットな声だった。私にはそれがとても新鮮だった。生まれてこの方関西から出たことがなくて、自己紹介したら名前をいじられることが必然だった。「須磨ちゃん、って呼んでもいい?」と、おっとりとした声で尋ねられ、一も二もなく頷いた。

 藤花は春の日だまりのような性格をしている、と思う。滅多に怒らない、泣かない、不機嫌にならない。負の感情を誰かに対してあらわにしているところをほとんど見たことがない。数少ないそうした場面は、藤花が怒っても仕方がないと周りが納得させられるときばかりだった。例えば、おばあちゃんの自転車を転倒させて逃げようとした原付を追いかけたときだとか。あのときの藤花はすごかった。原付だって必死に逃げたはずだが、藤花の全速力の走りと、原付の動きの読みの方が上だったのだ。「止まらんかあ! このボケェ!」と怒鳴るのは、だみ声で、流石にそれ以来聞いていない。そのときだって、おばあちゃんのところに戻って声を掛けるときには、おっとりと、のほほんとした声で「大丈夫でしたか」なんて言っていた。

 自分の性格を自覚しているのか、藤花は、髪だけはいつも派手にしていた。肩につく長さにしているのは見たことがない。パーマを掛けているのか癖毛なのかきれいにウエーブしたショートヘアのこともあれば、ストレートで、アシンメトリーなボブヘアのこともあった。色は、ブロンド、ストロベリーブロンド、ハニーブラウン、ココアブラウン、ローズブラウン、アッシュブルー、アッシュグリーン、ウルフグレイ、パープル、なんでもありだった。自分で染めるのではなくヘアサロンで染めているので、一応、どんな色にするかは美容師と相談して決めるそうだが、藤花が言うには、結局、いつも藤花が染めたい色を用意してもらうことになっていたという。「だって、この髪で生活するのは私やもん」と言って、藤花は、その場でくるくると回って見せた。ふわふわとカールしたストロベリーブロンドの髪が、布地をたっぷり使ったスカートのようにふわりと広がっていた。藤花が私を好きなように、私も藤花を好きだった。

 いまでも藤花のことを好きだと思う。「ちょっと頂戴」と言っておいて、半分以上野菜ジュースを飲んで「ごめん、須磨ちゃん」とほんの少しだけ申し訳なさそうに笑うところ、目一杯まで倒した助手席のシートを、車から降りるときは普通に座るぐらいの位置まで戻して、また乗り込んでから目一杯まで倒し直すところ、食べ終わった豚まんとピザまんの底の紙を、なるたけ角と角を合わせて、ぴしっとした四角形に折り畳むところ、気ままなこどもっぽさと行儀良く躾けられたようなこどもが同居しているような藤花の仕草は本当に好ましい。そうして折り畳んだ紙をスーパーの袋に放り込んで、シートを少し起こして、ロング缶のプルトップを押し上げる。缶から炭酸が抜ける音がした。「久しぶりに聞く」と、藤花は何やら感慨深げに呟いた。赤信号の交差点で、クラッチを踏みながらブレーキを踏み込み、停車する。助手席の方を向くと、藤花は、今まさにロング缶に口をつけて、チューハイを飲もうとしているところだった。ごく、と喉が動く。缶から口を離して、唇を軽く舐めて、藤花は「ああ、美味しい」と呟いた。泣きそうだ、と思って、聞かなかったふりで前を向く。他に車の姿はない。今発進しても誰も見咎める人は居ない。今からここで急加速して、交差点を曲がり損ねて横転事故を起こしても誰も目撃している人は居ない。クラッチを緩めかけていた左足を踏み込み直す。魔が差した、とはこういうことを言うんだろうと思う。ここでそういう行動をとろうとするぐらい、私はやっぱり、藤花のことを好きだと思う。

 藤花の方だって私のことを好きだろう。そうでなければ、どうして一緒に海に行こうと私を誘いに来るだろう。それも、ただの海ではなく、私の名前を冠した地名の海に。いや、正確には私の名前が地名なのだ。私の両親は何を思って私と弟にこんな名前をつけたのか。こんな名前でなかったら藤花と出会うこともなかったか。

「藤花」「なあに、須磨ちゃん」数え切れないくらいしたことのあるやりとりをまた繰り返して、私は、言葉に詰まる。藤花がチューハイの缶を口元に宛てながらこちらを見ている。好きだよ。違う。一緒に死のうか。これも違う。「どこも、痛くない」なんて奇妙な質問がするりと口をついて出る。藤花は目を細めた。たぶん笑っている。「大丈夫やよ。須磨ちゃん」

 クラクションの音。前を見ると、信号が青色になっている。バックミラーを見ると、トラックのヘッドライトが眩しい。慌ててクラッチを緩めて、アクセルを踏み込む。


 駐車場はがらがらだった。もとより冬場だし、時間も時間だから当然だ。まだ少し残っているというチューハイの缶を片手に、藤花が軽やかにステップを踏む。私は、少し遅れて藤花に着いていく。

 日の出まであと少し時間がある。空はすっかり紫色で、薄い雲がそこかしこにたなびいている。東の方から、紫色がまた別の色に変わりそうな、橙色の光の気配がする。薄明るい中を歩いているのは藤花と私ふたりきりで、紫色の空も近付いてくる波の音もどこか現実味は薄く、夢の中に居るような気さえしてくる。頬を切りつける冷たい風が、そうではないと私を正気に引き戻す。

 緩やかな階段を下ればそこは砂浜だ。目を焼くほど、ではないし、雪と見紛うほど、でもないが、白い、砂浜だ。白やグレーや黄土色や、黒やピンクや青色の砂粒と、干からび損ねた海藻のかけらや、大小色々の貝殻が散らばっている砂浜だ。どの季節のこの海にも来たことがある。春は少し緑がかった海面を見ながら散歩して、夏は人の多さに少しうんざりしながら水で遊んで、秋はその名残のような波のざわめきを聞きに来て、冬は冷たい風を全身で受けた。でも、こんな時間に来るのは初めてだ。階段を降りたところに立ち止まって、前屈みになって砂に触れてみる。夜の空気にさらされた砂粒は、しんしんと冷たい。手を離して姿勢を戻す。藤花は、一人でどんどん前に進んでいる。

 砂浜と海の真ん中辺りに、砂浜の色目が変わる一帯がある。満潮のときに水が来る限界のあたりなのだと思っている。その辺りに、打ち寄せられた物が折り重なって、動かないので、他よりも黒っぽく見える。藤花はその手前に立ち止まって、こちらを振り向く。

「須磨ちゃあん。靴と服、どうしたらええと思うー」

 声を張り上げて、藤花が尋ねてくる。空っぽになったのか、チューハイの缶は足元に置いて、ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで、ポニーテールの毛先が風で揺れている。

「服は下だけ脱いで、靴は置いてったら。私が見とく」

「パンツもー」

「好きにしい」

 周りに誰も居ないからできる応酬の後、藤花がダウンジャケットの裾をまくり上げる。なにかがポケットから砂浜に落ちるのが見えた。藤花は一度屈んで、落ちたなにかをそうっと拾い上げて、また、ダウンジャケットの裾をまくり上げる。いま藤花が拾い上げたものが、藤花が私を海に誘った、藤花が私に自分を海に連れて行ってほしいと頼んだ、理由なのだろう。目を凝らしてもよく見えない。色すら分からない。藤花は、スウェットのズボンを脱いで、サンダルも脱いで、私に手を振る。私が手を振り返すよりも早く、藤花は前を向いて軽快に歩いて行く。私の足は重たい。いつの間に鉛になったんだろうかと思うほど、一歩一歩進むごとに、足が砂浜に沈む。引っ張り出すのにもまた力が必要で、のろのろとしか進めない。藤花がまた遠くに行ってしまう。

 セックスをしたことがない。藤花以前の恋人ともしなかったし、藤花とはできなかった。しなかったとできなかったの違いは大きい。私は、性的に興奮するということが、相手のプライヴェートな身体の部分に触れたいという気持ちが、体感的に理解はできなかった。頭では理解ができた。世間一般で恋愛関係にそういった興奮が伴うことも、同性同士であってもそれは同じであることも、藤花が私とそうして触れ合うのを望んでいることも、頭の中では理解ができた。けれども、体は順応できなかった。そのひずみが、藤花の家のベッドの上で呆然と横になる私と、突き飛ばされたというのに穏やかに笑いながら床に座り込んで私を見上げる藤花という構図に結実した。私たちがもはや恋人同士で居られないのは明らかだった。互いの合い鍵を、互いの家のポストに投函して、それきり、会うことすらなかった、大学四年生の冬。

 藤花が脱ぎ捨てたサンダルとズボンの周りには、そこまでよりも少し大きな石が敷き詰められている。骨のように白い小さな流木が転がっている。藤花は、波打ち際から、海の方へ、おそるおそる足を踏み入れている。結婚式の前撮り写真、静かな水面に向かい合った新郎新婦が映り込んでいる写真を思い出した。母はうれしそうだったし、弟は照れくさそうで、藤花はいつものように穏やかに笑っていた。藤花が私の家族に、血の繋がりのない広い意味での家族になってくれるなら、うれしかった。私に許される一番近い距離はこれだと思ったから、本当に、心から、うれしかった。藤花がもう私を好きではなくて、弟のことを好きだって、構わなかった。きっと弟は、私が藤花にあげられなかったものをちゃんと与えられるだろうと思った。私は自分に嘘を吐いて、結局、吐ききれなかったからここに居る。

 藤花が、海の中でしゃがむ。ダウンジャケットの裾がウエディングベールのように海面に広がる。風邪を引くとか、使い物にならなくなるとか、言えることはいくらでもある。何も言わないで藤花を見ている。メダカの放流と同じ姿勢。水の中になにかを放す姿勢。藤花が何を放すのか、私には見えない。けれども、知っている。藤花に聞かされて知っている。

 昨日の夕方、突然、藤花から電話が入った。大学四年生の冬以来の、個人的な連絡だった。夕飯を準備する手を止めて、携帯電話を手にとって、通話ボタンを押した。「須磨ちゃん」と聞き慣れた藤花の声が、私の名前を呼んでいるのだと一瞬分からないほど震えていた。「どうしたん」と尋ねても返事はなく、ゆっくりなのに荒い呼吸が聞こえた。ガスコンロの火を消して、藤花の声を待った。換気扇の音に紛れるように「流産してもうた」と藤花の声が囁いた。がつんと、頭を殴られたような、強い衝撃を感じた。床に座り込んで私を見上げていた藤花の気持ちが分かったような気がした。藤花は、ぽつぽつと、降り始めの雨のように話した。弟は九州の工場に長期出張中だということ、二週間前に妊娠が分かったばかりだということ、三日前から不正出血があったこと、今朝婦人科に行ったら胎嚢が確認できなかったこと、さっきからひどく強い腹痛があって、規則的な痛みがふっと楽になった隙にトイレに行ったら、ナプキンの上に血の塊が排出されていたこと、それが胎嚢だったものだと分かったこと、血の塊をラップにくるんで、ジップロックにしまって、冷蔵庫に入れたことを、藤花は、一つずつ、私にも分かるように話した。それから「海に連れて行って。須磨の海」と私に頼んだ。私は「死なんと待っとき」と藤花に言って、電話を切らないまま、外に出る準備を始めた。そういえば、コンロの上に八宝菜を作りかけたフライパンを置きっぱなしだ。帰ったら腐っているだろうか。虫が集っているだろうか。

 だから、藤花がダウンジャケットのポケットから取り出したのは、つい昨日まで藤花の子宮にあった、胎嚢だったものに違いない。藤花はそれを海に放している。ジップロックから取り出して、ラップを剥がして、海に放している。なにか法律違反になるんだろうか、そうしたら私は共犯になるのか。藤花はもう立ち上がって、水平線の方を見ている。ポニーテールの毛先が風に揺れている。死なずに待っておけと言ったのが、私の杞憂だったら良いと思う。このまま藤花が海に入っていこうとするなら、走って止めなければいけない。だから私は靴を履いたままここで藤花を待っている。

 きっともう海に流されてしまった胎嚢が藤花の中に留まり続けて、こどもとして生まれてきたら、私は伯母になったのだろう。そのこどもを姪として、藤花と弟のこどもとして、きっと、私は、純粋にそれだけの気持ちで可愛がることなどできなかっただろう。そのことに気付いてしまった。浅ましい、強欲な、酷薄な、自分勝手な、私は、まだ藤花を好きだった。弟とセックスをしてこどもを作った藤花は、まだ私を好きだろうか。弟とセックスするときに私のことを思い出しただろうか。どうして私の名前を冠した海にこどもになるはずだったものを流したのだろうか。

「須磨ちゃあん」

 藤花が右手を大きく振っている。こちらへ来いと言う意味だと分かった。もうそろそろ日が昇る。閉ざされた海にも朝焼けの橙色の光が射す。私は、藤花のズボンとサンダルを飛び越えて、砂浜を歩く。はじめて磯のにおいがした。冬だから分かりにくかったのだろう。冷たい海にも、微生物は息づいているらしい。私が藤花に近付くごとに、藤花も海から砂浜へ一歩ずつ近付いてくる。水を吸ったダウンジャケットが重たそうだ。捨てて帰ったら、流石に寒いか。車の中で近くのアウトレットモールが開くまで待って、そこで買って帰れば良い。

 波打ち際で立ち止まる。私の足元に、藤花よりも早く、空になったジップロックと、水を抱えてたわんだラップが、流れ着く。手を出すこともできなくて、目を逸らす。重たい足を引きずるようにしながら、藤花はもうすぐそこにいて、私に右手を差し出している。こんな距離なのに手を貸してほしいのかと、呆れるような気持ちで、差し出された手を握る。

 握った手を強く引っ張られ、振りほどかれて、足を踏ん張るような間もなくバランスを崩し、顔面から海に突っ込む。衝撃、冷たい。塩味。水底の泥に手をついてなんとか立ち上がる。咳き込む。お気に入りだったのに、革のコートとブーツ。台無しだ。髪も濡れた。せめて、目をつむりながら頭を左右に振って、水気を飛ばす。寒い。風が冷たい。

「びっくりした」可笑しそうな声。藤花は、花が綻ぶように笑っている。空っぽの手をお腹に当てながら、面白いものを見て仕方がないという風に笑っている。もしかしたら、今まで見た中で一番、きれいで、可愛らしくて、憎らしい、笑顔かもしれない。「阿呆」と吐き捨てる。藤花がいよいよ声をあげて笑う。「大好きやよ、須磨ちゃん」「阿呆」藤花との間の距離を詰めて、頬に平手を一発。藤花は声をあげるのはやめて、笑ったままで、私の手を掴む。指と指を絡めて、いつか、ショッピングモールでクレープを食べながら歩いたときのように、藤花の手は温かく、柔らかだった。私の手も同じように藤花には感じられるだろうか。知ったこっちゃない。早く海から出ないと、風邪を引く。

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須磨の海 ふじこ @fjikijf

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